flw moon innerscape
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ユーモアと孤独
先日出演した堺Twitterサミットの様子を関西ウォーカーTVでたまたま見てしまったが、自分のプレゼンがかなり雑だと反省。
当日のプレゼン映像とトークセッションの様子はこちら
やっぱり2時間の内容を20分で離すのはちょっと無理があったかもしれない。
話す内容は変わらないが、2時間ぐらいあればじっくりと観客の皆さんに話を解釈させる時間があげれるから理解度は少し進むのではないかと思っている。
関西ウォーカーの玉置編集長からは、この内容を3分にしてR1に出ればいいんじゃないかとのお言葉をいただいたが、非常に興味深い。
びっくりしたのは僕のプレゼンから「バカリズム」を読み取ったことだ。
僕自身はバカリズムの升野さんのファンで、その手法も前々から通じるものがあると勝手に思っていたのだが、僕の一回のプレゼンでそれを読み取るのはかなり深い洞察力と想像力があると舌を巻いた。
クリエイションの参考にすべきイメージや領域は離れているほどいいと考えている。
その方が一旦アイデアを抽象化することが出来るからだ。
ピン芸人とランドスケープデザインはおそらくほど遠いと思うがそこに共通性を見いだせるのはかなり高度な抽象性を備えた視点で、玉置編集長の感性には正直びっくりした。
僕自身は自分の風景異化の表現を考える上で実は笑いを参考にすることが多い。
質の高い「笑い」は芸術と同じく批判力を持っていると思うからだ。
消費的な「お笑い」ではなく「ユーモア」というのは何かを揺るがす。
質の高い笑いというのは、我々が共有している常識やコモンセンスから少し外れた状態を表現するもので、そのためには共有されている常識とは何かということをちゃんと分かった上で、それを一瞬で相対化し感じさせねばならないからだ。
実に高度なテクニックなのだが、「お笑い」というくくりにされてしまうことで消費的に扱われるのが残念だ。
北野武などももともと笑いから映画表現に入っているが、おそらく本人の感覚の中では表現の違いはあれどやっていることはほぼ同じ事なのだと思う。
様々な表現で同じ感覚を描こうするのは僕も同じなのでとても共感出来る。
表現したいものの抽象度を一つ上げれば表現媒体は実は自由になる。
ユーモアは人の根底に横たわる哀しみや孤独と闘うための武器だ。
シリアスな状況に対してシリアスに向き合うことだけが全てではなく、僕自身はユーモアを持って闘いたい。
ユーモアを表現するためには、根底に人間としての孤独や哀しみが横たわっているかどうかが重要だ。己の我欲を満たしてもその哀しみが消える事はなく、ますます募っていくだろう。人は誰かの為に生き、誰かと共に生きるほんの一瞬だけ、哀しみから開放されるのだから。
組織や官の論理はどうしてもそうした孤独や心の問題を隅に追いやりつつ、人間を単純化して扱わねば成り立たない。 僕はどうしても個人という所からしか出発出来ないので、組織や官の理屈とは時々相入れないことがある。それを子供の理屈だと言うのであれば、それでも構わない。
大人というのはなろうとしてなるものだ。それは社会的な演技によって得られるもので、それを剥ぎ取れば人はみな子供だと思う。しかし、大人を演じているうちに自分の子供の部分を見つめる事が怖くなってはいないだろうか。見たくないと隅に追いやった幼児性は抑圧されて歪な形で噴出しなければいいが。
子供である事を受け入れて大人を演じる。それは哀しみや孤独を知った上でそれでもポジティブに生きるという態度に通ずるのではないか。
社会は単なる個人の集合ではないし、個人という概念ですら本当に成立するのかどうか怪しいのはちゃんと理解している。しかしその上であえて個人的な孤独感や情念、感情の表出ということから考えてみる重要性については全ての作家と共に唱えて行かねばならない視点だ。
「景観」の問題は社会的な事だが、「風景」の問題は個人的なものだ。僕は景観ではなく風景から考えたいといつも言うのはその視点に立っているからだ。これは今までの官の理屈で進められてきた都市計画やまちづくりなどとはひょっとすると相入れないかも知れない。
恐怖や孤独を克服する為に人は集まり寄り添い生きている。しかし、一方で集まり、寄り添う事で新たに生まれる恐怖や孤独というのもあるのだと想う。その時には再び離れてみる距離が必要だ。風景異化とはそこまでのスケールを持って語られねば意味がないだろう。
人間が生まれてから死ぬまでの時間に精神的に経験できることは今も昔もそう変わりはしないだろう。
愛して、憎んで、喜んで、哀しんで。そしてようやく昔の人が既に行き着いた感覚や認識に辿り着く頃には人生が終盤を迎えているのかもしれない。
by innerscape
| 2011-08-15 11:17
| 私的詩
私“flw moon”が日々の生活の中で感じた事を見つめ直し記録します。
心のフィルターを通して見た日々のシーンをひとつづつ電脳に記憶させることで、果たしてどんな風景が見えてくるだろうか・・・?
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