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問いの深さとコミュニティとカタチについての覚書
シェアこたつを後にする。アンテナが高くて頭の良い人と話をすると気持ち良いし、話が早い。関西ではなかなかそういう人と話が出来ないのは人材不足なのか、僕がまだそのレベルではなく巡り合えていないのか。自分の価値観を信じて疑わない人と会話するとちゃんとした対話にならないので辛い。
問いの深さが揃っていると違うジャンルでもすぐに話が繋がる。自分の方が問いが浅くて相手が深い場合は、相手の懐次第では対話が出来る。自分の方が問いが深くて相手が浅い場合には、自分に忍耐力が要求される。ジャンルが違って知識や情報も違うと問いの深さでしか話が出来ないのだ。
問いが浅いのに自分の問いが深いと勘違いしている人との会話が一番困る。そういう人は真摯に相手から学ぶ姿勢とかなくて相手を説得したり論破しようとするからだ。そういうことするから問いが浅くなることに気づいていないのだが、それを相手の自尊心を傷つけずに指摘するほど自分にスキルがない。
教育者と学生という立場、あるいは東洋においては年齢など、権力的な枠組みを借りればまだ相手を諭す事が出来るかも知れないが、フェアな状態で話しをする場合に、途中で相手の問いが自分より浅いのに気づいてしまうと話す気を失ってしまうのはまだ未熟だ。特に相手が歳上だとよりやっかい。
大体、問いの深さに年齢などあんまり関係ない。その事を考え続けた時間で決まるのだ。経験や知識も多少は影響するかも知れんが問いが無い状態で得た知識や経験はただ通り過ぎていくだけだろうと思う。だから歳の功だけをカサに正しさを主張して来る人に腹が立つのだろうな。
コミュニティの形成に主体として関わる人を見ると応援したくなる。外からやってきて専門家顏でデザインなどと称して去っていくのに個人的にはどうも違和感を覚えるからだ。年末だが、深く問い続け考えている人にまた一人出会えたことに感謝。
シェアとかコミュニティとかを仕掛けるって、まぁ忍耐のいることだ。とても逆説的だが、それをストレス無く実行するためには仕掛人は孤独を受け入れねばならないということなんだろうな。
自分の弱みでもあり強みでもあるのは「カタチ」にこだわってしまう所だと今日は再確認。しかし自分の中でもカタチを信じている部分もまだ捨て切れていないということと、おそらくそういう人は僕だけではないということもまた事実。カタチが欲しい人には与えればいいというのが今の所の僕の答え。
逆にカタチがあるせいで、誰かを自由に出来ないという限界も良く分かる。だから彼はカタチを捨てたのだと思う。しかし実はカタチではないと思っている人ど同じぐらい形を欲している人もいるというのが僕は正しいと思う。パブリックを問うのであればそちらも認識しないと片手落ちだと思う。
本当に頭の良い人は高圧的な話し方をしない。中途半端に賢(さか)しい人が己の自意識を振りかざして議論とか挑んで来る。本当に頭が良くても性格悪い奴は同じような表現形なので見分けるのが大変。最近見分け方が分かってきたが、それするとこっちが被害にあうので極力使わないように二年前から心がけている。
東京からの帰り道、岸井さん、羽鳥くんの出している「ゆっくり考えたい」の全ての号を帰りの新幹線中の名古屋までに読了。こんな尖った議論がこんな所でされているのに驚く。この方面でのアンテナ低い人にはほぼ理解不能な内容なんじゃないかと思う。ここらあたりがおそらく最先端だろうな。
ここ一年ぐらいで演劇領域の前衛ラインが大体見えた。建築や美術の前衛ラインとも概ね同じ方向を向いている。若干違うのは映画か。デザインもまだそこまでは追いついていない感がある。後10年ぐらいはこの前衛ラインが進行するだろうが、その後にやってくる波は今の揺り戻しとなるだろう。
しかし揺り戻しがくる頃ぐらいにようやく今の前衛ラインに気づいた人が増えてくるので、その頃には別の問いが立っている。つまり社会化した段階で既に答えが出ているということ。アンテナを高く保てる者だけが次の問いに取り組むことが出来るだろうな。ただビジネスしたい人は答えが出ないと動かない。
常に新たな問いを立てるには自分を追い込む体力と精神力が必要だ。だから肉体的な体力と、不当に追い込まれることで生まれる精神力を持つ若い奴の方が切っ先の尖った問いを立てれる。歳をとると答えに満足しちゃうからその気力が無くなるのだろうと考えれば、ちょっと年寄りを労わりたくもなる。
問いの深さが揃っていると違うジャンルでもすぐに話が繋がる。自分の方が問いが浅くて相手が深い場合は、相手の懐次第では対話が出来る。自分の方が問いが深くて相手が浅い場合には、自分に忍耐力が要求される。ジャンルが違って知識や情報も違うと問いの深さでしか話が出来ないのだ。
問いが浅いのに自分の問いが深いと勘違いしている人との会話が一番困る。そういう人は真摯に相手から学ぶ姿勢とかなくて相手を説得したり論破しようとするからだ。そういうことするから問いが浅くなることに気づいていないのだが、それを相手の自尊心を傷つけずに指摘するほど自分にスキルがない。
教育者と学生という立場、あるいは東洋においては年齢など、権力的な枠組みを借りればまだ相手を諭す事が出来るかも知れないが、フェアな状態で話しをする場合に、途中で相手の問いが自分より浅いのに気づいてしまうと話す気を失ってしまうのはまだ未熟だ。特に相手が歳上だとよりやっかい。
大体、問いの深さに年齢などあんまり関係ない。その事を考え続けた時間で決まるのだ。経験や知識も多少は影響するかも知れんが問いが無い状態で得た知識や経験はただ通り過ぎていくだけだろうと思う。だから歳の功だけをカサに正しさを主張して来る人に腹が立つのだろうな。
コミュニティの形成に主体として関わる人を見ると応援したくなる。外からやってきて専門家顏でデザインなどと称して去っていくのに個人的にはどうも違和感を覚えるからだ。年末だが、深く問い続け考えている人にまた一人出会えたことに感謝。
シェアとかコミュニティとかを仕掛けるって、まぁ忍耐のいることだ。とても逆説的だが、それをストレス無く実行するためには仕掛人は孤独を受け入れねばならないということなんだろうな。
自分の弱みでもあり強みでもあるのは「カタチ」にこだわってしまう所だと今日は再確認。しかし自分の中でもカタチを信じている部分もまだ捨て切れていないということと、おそらくそういう人は僕だけではないということもまた事実。カタチが欲しい人には与えればいいというのが今の所の僕の答え。
逆にカタチがあるせいで、誰かを自由に出来ないという限界も良く分かる。だから彼はカタチを捨てたのだと思う。しかし実はカタチではないと思っている人ど同じぐらい形を欲している人もいるというのが僕は正しいと思う。パブリックを問うのであればそちらも認識しないと片手落ちだと思う。
本当に頭の良い人は高圧的な話し方をしない。中途半端に賢(さか)しい人が己の自意識を振りかざして議論とか挑んで来る。本当に頭が良くても性格悪い奴は同じような表現形なので見分けるのが大変。最近見分け方が分かってきたが、それするとこっちが被害にあうので極力使わないように二年前から心がけている。
東京からの帰り道、岸井さん、羽鳥くんの出している「ゆっくり考えたい」の全ての号を帰りの新幹線中の名古屋までに読了。こんな尖った議論がこんな所でされているのに驚く。この方面でのアンテナ低い人にはほぼ理解不能な内容なんじゃないかと思う。ここらあたりがおそらく最先端だろうな。
ここ一年ぐらいで演劇領域の前衛ラインが大体見えた。建築や美術の前衛ラインとも概ね同じ方向を向いている。若干違うのは映画か。デザインもまだそこまでは追いついていない感がある。後10年ぐらいはこの前衛ラインが進行するだろうが、その後にやってくる波は今の揺り戻しとなるだろう。
しかし揺り戻しがくる頃ぐらいにようやく今の前衛ラインに気づいた人が増えてくるので、その頃には別の問いが立っている。つまり社会化した段階で既に答えが出ているということ。アンテナを高く保てる者だけが次の問いに取り組むことが出来るだろうな。ただビジネスしたい人は答えが出ないと動かない。
常に新たな問いを立てるには自分を追い込む体力と精神力が必要だ。だから肉体的な体力と、不当に追い込まれることで生まれる精神力を持つ若い奴の方が切っ先の尖った問いを立てれる。歳をとると答えに満足しちゃうからその気力が無くなるのだろうと考えれば、ちょっと年寄りを労わりたくもなる。
by innerscape
| 2011-12-27 10:09
| 覚書
私“flw moon”が日々の生活の中で感じた事を見つめ直し記録します。
心のフィルターを通して見た日々のシーンをひとつづつ電脳に記憶させることで、果たしてどんな風景が見えてくるだろうか・・・?
心のフィルターを通して見た日々のシーンをひとつづつ電脳に記憶させることで、果たしてどんな風景が見えてくるだろうか・・・?
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