flw moon innerscape
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メディアがつくる人格へのまなざし
TwitterやFacebookやブログなど一通り続けてきたが、最近になって自分で自分の書いたつぶやきをレファレンスすることが多くなった。
その時々に想うこと感じることを書いてきたのだが、それが振り返るとリアルな自分の感覚の記録になっているので、思考の深まりや積み上がりの度合いを図る重要なツールになってきている。
僕自身はTwitterやFacebookやブログなどは誰かを批判するために書いているのではなく、全て己の中にある感覚を吐露しているに過ぎない。
批判的に眺めるという事は、自分自身にもその感覚があるからそれが見えてくるということであり、ここで吐露しているのは自分の内にもある感情に対する批判でもある。
だが、読む人によってはそにつぶやきが自分のことを批判していると勘違いしたり、誰か特定の人物を批判しているようにも読み取れるらしく、批判的で攻撃的で皮肉めいたことを言う奴だと受け止められる事が多い。
最近人と会う機会が多いせいか、会ってみると意外とそうでも無いと言う意見もよく頂くようになってきた。
「Twitterでは怖い人だと思ったけど会ってみると全然違った。」
「写真が怖そうで気障ったらしいのできっとイヤな奴に違いないと思っていた。」
「意外とお茶目なところがあったんですね。」
直接お会いした方々からは今のところ全体的に好印象の意見なので毎回胸を撫で下ろすが、どうやらかなり怖い人物に見えるらしい。
一度ひどい目に会ったのは、1、2回しか会った事のない人がネット上のつぶやきだけで僕の人物像を勝手に判断して、執拗に責め立ててきたことだった。
じっくりと向き合ったわけでもない人を追いつめて揶揄する感性には賛同出来ないが、言葉だけを追いかけているとそういう補助線を持つことを理解しないわけではないので、大人な対応でその場はおさめた。
僕はSNSのつぶやきでその人間を判断するのは浅薄なことだと思っている。
というよりもSNSだけでなく、顔や身なりや外見で人を判断するのは危険だと昔から思っている。
もちろんある程度のことはそこから判断することが出来るが、人間はもっと奥の深いものだと思っているので、そういう記号的な部分で下される判断に対して懐疑的でもある。
その記号の裏側に隠れているその人の様々な情報を感じる能力の方がよほど重要だと考えているし、表面情報でしか判断出来ない人とは何か一緒に出来るとは思っていない。
同様に、これ見よがしに表面情報を押し付けてくる人とも何か一緒にしたいとは思わない。
このメディア時代で人間像を捏造する事など簡単だし、言葉の意味は言葉以外の文脈で決定される事の方が多い。同じ台詞でもどのようなトーンや文脈や情感で言うかによってその意味はまるで真逆になることがあるのは、役者や演出家ならば当たり前のように意識している事だ。
それが文字だけではなかなか判断出来ないことがある。しかも140字などという短い言葉でなおかつ特定の誰かに伝えようとしているのではないつぶやきだとなおさらだろう。
僕がしているのは「まなざしのデザイン」だ。
風景の補助線をデザインすると言い換えることも出来るが、それはそっくり人間の様相にも当てはまる。
役者として自分の身をもってそのまなざしをデザインすることもあるし、普段の言動からして実験的にそれを楽しんでいるところがないと言えば嘘になる。
だからこそ共に何かを語る人間はちゃんと人のことを見るようなまなざしを持って欲しいと願っている。
誰かの言葉なり身なりなどを見る時には、ある補助線が先にあってそれに合わせるような形で見ている事が多い。ここでの補助線は偏見やバイアスと行ってもいいのだろうが、それ無しに純粋な感覚で人も風景も眺める事は難しいことだとも思う。
そのことを僕らは忘れて物事を考えがちだ。
僕がしている「まなざしのデザイン」は最終的には、僕がしなくても皆が自分で出来るようになればいいと思っている。
ある偏見に陥らず、情報を絶対化せず、まなざしを向け発見し続ける態度を持つこと。
今自分が見ている世界は物事の一面でしかないと真摯に受け止め、容易に価値判断を下さずに自分の頭で考え続ける態度を持つこと。
何かをネガティブに問題化せずに、その中に可能性と希望のまなざしを持って取り組む態度を持つ事。
そして自分の不幸の理由を誰かに預けずに、自分のまなざしをデザインする態度を持つ事。
それは消費中心の生活から創造中心の生活へと自分をシフトすることでもある。
そういうメッセージは常に持っていたいと思う。
その時々に想うこと感じることを書いてきたのだが、それが振り返るとリアルな自分の感覚の記録になっているので、思考の深まりや積み上がりの度合いを図る重要なツールになってきている。
僕自身はTwitterやFacebookやブログなどは誰かを批判するために書いているのではなく、全て己の中にある感覚を吐露しているに過ぎない。
批判的に眺めるという事は、自分自身にもその感覚があるからそれが見えてくるということであり、ここで吐露しているのは自分の内にもある感情に対する批判でもある。
だが、読む人によってはそにつぶやきが自分のことを批判していると勘違いしたり、誰か特定の人物を批判しているようにも読み取れるらしく、批判的で攻撃的で皮肉めいたことを言う奴だと受け止められる事が多い。
最近人と会う機会が多いせいか、会ってみると意外とそうでも無いと言う意見もよく頂くようになってきた。
「Twitterでは怖い人だと思ったけど会ってみると全然違った。」
「写真が怖そうで気障ったらしいのできっとイヤな奴に違いないと思っていた。」
「意外とお茶目なところがあったんですね。」
直接お会いした方々からは今のところ全体的に好印象の意見なので毎回胸を撫で下ろすが、どうやらかなり怖い人物に見えるらしい。
一度ひどい目に会ったのは、1、2回しか会った事のない人がネット上のつぶやきだけで僕の人物像を勝手に判断して、執拗に責め立ててきたことだった。
じっくりと向き合ったわけでもない人を追いつめて揶揄する感性には賛同出来ないが、言葉だけを追いかけているとそういう補助線を持つことを理解しないわけではないので、大人な対応でその場はおさめた。
僕はSNSのつぶやきでその人間を判断するのは浅薄なことだと思っている。
というよりもSNSだけでなく、顔や身なりや外見で人を判断するのは危険だと昔から思っている。
もちろんある程度のことはそこから判断することが出来るが、人間はもっと奥の深いものだと思っているので、そういう記号的な部分で下される判断に対して懐疑的でもある。
その記号の裏側に隠れているその人の様々な情報を感じる能力の方がよほど重要だと考えているし、表面情報でしか判断出来ない人とは何か一緒に出来るとは思っていない。
同様に、これ見よがしに表面情報を押し付けてくる人とも何か一緒にしたいとは思わない。
このメディア時代で人間像を捏造する事など簡単だし、言葉の意味は言葉以外の文脈で決定される事の方が多い。同じ台詞でもどのようなトーンや文脈や情感で言うかによってその意味はまるで真逆になることがあるのは、役者や演出家ならば当たり前のように意識している事だ。
それが文字だけではなかなか判断出来ないことがある。しかも140字などという短い言葉でなおかつ特定の誰かに伝えようとしているのではないつぶやきだとなおさらだろう。
僕がしているのは「まなざしのデザイン」だ。
風景の補助線をデザインすると言い換えることも出来るが、それはそっくり人間の様相にも当てはまる。
役者として自分の身をもってそのまなざしをデザインすることもあるし、普段の言動からして実験的にそれを楽しんでいるところがないと言えば嘘になる。
だからこそ共に何かを語る人間はちゃんと人のことを見るようなまなざしを持って欲しいと願っている。
誰かの言葉なり身なりなどを見る時には、ある補助線が先にあってそれに合わせるような形で見ている事が多い。ここでの補助線は偏見やバイアスと行ってもいいのだろうが、それ無しに純粋な感覚で人も風景も眺める事は難しいことだとも思う。
そのことを僕らは忘れて物事を考えがちだ。
僕がしている「まなざしのデザイン」は最終的には、僕がしなくても皆が自分で出来るようになればいいと思っている。
ある偏見に陥らず、情報を絶対化せず、まなざしを向け発見し続ける態度を持つこと。
今自分が見ている世界は物事の一面でしかないと真摯に受け止め、容易に価値判断を下さずに自分の頭で考え続ける態度を持つこと。
何かをネガティブに問題化せずに、その中に可能性と希望のまなざしを持って取り組む態度を持つ事。
そして自分の不幸の理由を誰かに預けずに、自分のまなざしをデザインする態度を持つ事。
それは消費中心の生活から創造中心の生活へと自分をシフトすることでもある。
そういうメッセージは常に持っていたいと思う。
by innerscape
| 2012-08-07 19:00
| 情報デザインと風景
私“flw moon”が日々の生活の中で感じた事を見つめ直し記録します。
心のフィルターを通して見た日々のシーンをひとつづつ電脳に記憶させることで、果たしてどんな風景が見えてくるだろうか・・・?
心のフィルターを通して見た日々のシーンをひとつづつ電脳に記憶させることで、果たしてどんな風景が見えてくるだろうか・・・?
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