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霧はれて光きたる春2014のレポート五日目
本日は平日の最終日。
空は快晴で温度も高い。
過去二回は、遅くても3月の第1週の開催だったのでもっと肌寒い冬だったが、今回はもう春がやってきている。
「霧はれて光きたる春」というタイトルは、冬の実施をイメージして名付けたが、春に行うとまた違った意味合いが出てきそうだ。
3月の頭と最後では全然条件が異なる。
まず気温が違うのと、後は日の入りの時刻が変わって来る。
夕方の凪の時間も微妙に違うので、そのあたりを毎日読みながらあれこれ試行錯誤する。
ランドスケープアートは自然を相手にするので、思い通りにいかない事が多い。
僕の演出は半分で、残り半分は自然が作る。
だから100%狙い通りにいくとは限らないし、逆に自分の予想を遥かに上回る風景が見られることもある。
安定した風景ではないのがいわゆるショーとは少し異なる所だ。
温度と湿度によって霧の消滅までの時間は変わって来るのと、後はライトコート内部の気流が変化する。
今日のような晴れた日よりも、少し曇っていて空気が停滞している日の方が面白い現象が見られることが多い。
理論値で行けば1分間に5000個のシャボン玉が吹き抜けに現れることになる。
しかし、それはほぼ不可能な数なのだが、僕はそれに近い状態を過去一度だけ見た事がある。
気持ち悪いぐらいの数の光の珠が空間いっぱいに満ちている風景。
「美しい」を通り越してかなりグロテスクな風景だった。
美しさと醜さというのは紙一重だと思う。
その危うい臨界が芸術の最も興味深い領域なのだ。
醜いと思われているものが美しく転じたり、美しいと思われているものが限界を超えると見にくく感じたり。
その間の臨界を揺らがせるのが芸術のある種の役割なのではないかと思う。
入院病棟のライトコートは普段は裏側にされている空間で、誰も目を向けない醜い風景だ。
そこがこの作品が出現する30分間だけは聖なる空間へと転生する。
しかし面白いのは、その聖性を生み出している美しいシャボン玉がある臨界点を超えた数になると、今度はまたグロテスクで醜い風景になるのだ。
そうやって反転を繰り返していくときっと人の心は豊かになっていくのではないかと思う。
それはまるで刀鍛冶が熱い火の中に鋼を入れた後で、冷水をかけて叩いていくことで鍛えていくことに似ているように思える。
同じ場所、同じ物に対して美しさと、醜さが交互に現れることで自分のまなざしは鍛えられて行く。
僕は芸術に役割があるとすればそういう心の中を鍛えていくことなのではないかと思っている。
今のところ今回の病院ではまだそういったグロテスクな風景とは出会っていない。
残り二日の間にそれは出現するだろうか。
流石に五日目にもなると、患者さん達の間ではこの時間帯にやってくるこの風景が日常化してきている。
毎日やってくる常連がたくさん居て、逆にこの現象を合図に皆が談話室へ集まって来るようにもなっている階があるようだ。
今日聞いたエピソードとしては、5階のプレイルームで子供がシャボン玉に向かってガラス越しにも関わらず息を吹きかけていたという風景が見られたようだ。
他には8階では、始まる前に一人のおばあさんが両目をティッシュペーパーで押さえてずっと泣いていた様子だったが、吹き抜けに雪が降り始めると、窓辺にやってきて現象を見始めた。
おばあさんの話によると弟さんが丁度手術中で辛い状態らしく、毎日この時刻に来て30分ずっと現象を見ているという。そのおばあさんは特に友達も居ないようだったのだが、30分の最後の方でやってきた別のおばあさんと会話をし始めたということが起こったようだ。
吹き抜けに起こる現象は単なるきっかけに過ぎない。
でも何かのきっかけがあれば人は誰かとコミュニケーションを図ったり、自分の力で歩き出したりするのだと思う。
その人間模様の風景が実はこの作品の本質なのだと思う。
そういう意味でこの作品は演劇ということも出来る。
ランドスケープアートは現象を見るということだけではなく、そこで人々が織りなす状況も同時に見るべき風景となる。
単に吹き抜けにインスタレーションを行うということだけではなく、それを眺める人のコミュニケーションとまなざしにまでアプローチしたいというのが僕の意図なのだが、さらにそれを外からサポーターのまなざしに今回は実験的に迫っているところもある。
ずっと悪態ついているお爺さんの言葉の中に、この現象への愛を感じることもあるだろうし、下を向いて現象とは無関心に本を読んでいる人がふと見上げる視線に何かの心の動きを見る事もあるだろう。
30分間その空間に身を浸すことで人々の振る舞いと心の動きとの間にある関係が見えて来るかもしれない。
それはこれまであまり意識しなかったことなのかもしれないが、そうやってまなざしが変化していくことは、きっと心の中を豊かに鍛えるレッスンなのかもしれない。
空は快晴で温度も高い。
過去二回は、遅くても3月の第1週の開催だったのでもっと肌寒い冬だったが、今回はもう春がやってきている。
「霧はれて光きたる春」というタイトルは、冬の実施をイメージして名付けたが、春に行うとまた違った意味合いが出てきそうだ。
3月の頭と最後では全然条件が異なる。
まず気温が違うのと、後は日の入りの時刻が変わって来る。
夕方の凪の時間も微妙に違うので、そのあたりを毎日読みながらあれこれ試行錯誤する。
ランドスケープアートは自然を相手にするので、思い通りにいかない事が多い。
僕の演出は半分で、残り半分は自然が作る。
だから100%狙い通りにいくとは限らないし、逆に自分の予想を遥かに上回る風景が見られることもある。
安定した風景ではないのがいわゆるショーとは少し異なる所だ。
温度と湿度によって霧の消滅までの時間は変わって来るのと、後はライトコート内部の気流が変化する。
今日のような晴れた日よりも、少し曇っていて空気が停滞している日の方が面白い現象が見られることが多い。
理論値で行けば1分間に5000個のシャボン玉が吹き抜けに現れることになる。
しかし、それはほぼ不可能な数なのだが、僕はそれに近い状態を過去一度だけ見た事がある。
気持ち悪いぐらいの数の光の珠が空間いっぱいに満ちている風景。
「美しい」を通り越してかなりグロテスクな風景だった。
美しさと醜さというのは紙一重だと思う。
その危うい臨界が芸術の最も興味深い領域なのだ。
醜いと思われているものが美しく転じたり、美しいと思われているものが限界を超えると見にくく感じたり。
その間の臨界を揺らがせるのが芸術のある種の役割なのではないかと思う。
入院病棟のライトコートは普段は裏側にされている空間で、誰も目を向けない醜い風景だ。
そこがこの作品が出現する30分間だけは聖なる空間へと転生する。
しかし面白いのは、その聖性を生み出している美しいシャボン玉がある臨界点を超えた数になると、今度はまたグロテスクで醜い風景になるのだ。
そうやって反転を繰り返していくときっと人の心は豊かになっていくのではないかと思う。
それはまるで刀鍛冶が熱い火の中に鋼を入れた後で、冷水をかけて叩いていくことで鍛えていくことに似ているように思える。
同じ場所、同じ物に対して美しさと、醜さが交互に現れることで自分のまなざしは鍛えられて行く。
僕は芸術に役割があるとすればそういう心の中を鍛えていくことなのではないかと思っている。
今のところ今回の病院ではまだそういったグロテスクな風景とは出会っていない。
残り二日の間にそれは出現するだろうか。
流石に五日目にもなると、患者さん達の間ではこの時間帯にやってくるこの風景が日常化してきている。
毎日やってくる常連がたくさん居て、逆にこの現象を合図に皆が談話室へ集まって来るようにもなっている階があるようだ。
今日聞いたエピソードとしては、5階のプレイルームで子供がシャボン玉に向かってガラス越しにも関わらず息を吹きかけていたという風景が見られたようだ。
他には8階では、始まる前に一人のおばあさんが両目をティッシュペーパーで押さえてずっと泣いていた様子だったが、吹き抜けに雪が降り始めると、窓辺にやってきて現象を見始めた。
おばあさんの話によると弟さんが丁度手術中で辛い状態らしく、毎日この時刻に来て30分ずっと現象を見ているという。そのおばあさんは特に友達も居ないようだったのだが、30分の最後の方でやってきた別のおばあさんと会話をし始めたということが起こったようだ。
吹き抜けに起こる現象は単なるきっかけに過ぎない。
でも何かのきっかけがあれば人は誰かとコミュニケーションを図ったり、自分の力で歩き出したりするのだと思う。
その人間模様の風景が実はこの作品の本質なのだと思う。
そういう意味でこの作品は演劇ということも出来る。
ランドスケープアートは現象を見るということだけではなく、そこで人々が織りなす状況も同時に見るべき風景となる。
単に吹き抜けにインスタレーションを行うということだけではなく、それを眺める人のコミュニケーションとまなざしにまでアプローチしたいというのが僕の意図なのだが、さらにそれを外からサポーターのまなざしに今回は実験的に迫っているところもある。
ずっと悪態ついているお爺さんの言葉の中に、この現象への愛を感じることもあるだろうし、下を向いて現象とは無関心に本を読んでいる人がふと見上げる視線に何かの心の動きを見る事もあるだろう。
30分間その空間に身を浸すことで人々の振る舞いと心の動きとの間にある関係が見えて来るかもしれない。
それはこれまであまり意識しなかったことなのかもしれないが、そうやってまなざしが変化していくことは、きっと心の中を豊かに鍛えるレッスンなのかもしれない。
by innerscape
| 2014-03-28 23:59
| アート
私“flw moon”が日々の生活の中で感じた事を見つめ直し記録します。
心のフィルターを通して見た日々のシーンをひとつづつ電脳に記憶させることで、果たしてどんな風景が見えてくるだろうか・・・?
心のフィルターを通して見た日々のシーンをひとつづつ電脳に記憶させることで、果たしてどんな風景が見えてくるだろうか・・・?
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