flw moon innerscape
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空間のマゾヒズム
PLUGというフリーペーパーをご存知だろうか。
これは大阪府現代美術センターとCSCDが共同で発行している地域情報誌で、大阪府下6万部発行されている。フリーペーパーなので主な地下鉄駅などで手に入れて欲しい。
以前はCP(カルチャーポケット)という名前で発行されていたのだが、リニューアル版からはCSCDが参入して発行していく。一番最後のページには現代美術センターの活動情報と並んで、CSCDの活動情報も載せているので、また手に入れてご覧になっていただけると嬉しい。
実はこのPLUG、まだ二回目の発行だが、二回目は「新・大阪的住まい方」という特集で進めた。大阪で個性的な住まい方をしている方々を取材してそれを特集にしている。
改造長屋で暮らす人々や、自宅をカフェにして人を招く暮らし方、自分の家と生活模様をまるごと美術館へ出張して展示物してしまう人など、どれも個性的な住み方をしている事例ばかりである。
今回そういう特集を組むということもあって、僕も一部コラムを担当することになった。
タイトルは「プライベートがもたらす風景」ということで、今回の特集で取材された3つの事例と、僕自身がランドスケープエクスプローラー始め各所で行ってきたフィールドワークの事例との類似点を考えた文章になっている。
詳しくはPLUGに書いたのでそちらにゆずるとして、ここでもう少し深く考えたいのは僕の中で第二のタイトル候補に上がっていたテーマ、つまり今回のタイトルの方である。
自分の居場所というのは自分の体の延長にあるというのはPLUGでも書いた。人も犬と同じで自分のテリトリーを持って生活している。自分の衣服、自分の部屋、自分の家、自分の街、自分の国などなど。自分に帰属しているという場合に何が特徴かというと、自分の意のままに改変できるということである。あるいは意のままに改変出来るモノが置かれているということではないか。
自分の身体を考えてみる。髪をカットする、眉を調える、タトゥを入れる、ピアスを開ける。自分の意のままに出来る身体は自分に帰属しているといえる。
自分の部屋だってそうである。自分の部屋は自分が好きに出来るモノに囲まれているので、自分のテリトリーだといえるだろう。モノを捨てるのも増やすのも、整理するのも、模様替えするのも自由だ。
しかし、そのテリトリーへ敢えて誰かを踏み込ませることで得られる快楽の存在を我々は知っている。その一つをマゾヒズムという言葉に置き換えるとドラスティックすぎるだろうか。今執筆中の書物のタイトルも「マゾヒスティック・ランドスケープ」というのだが、マゾヒズム/サディズムという概念は関係性を語る上で非常に興味深い。
自分の身体を誰かに触れさせる。自分の部屋へ誰かを侵入させる。
自分の身体を誰かに触れられるように、自分のテリトリーへ誰かを入れるというのは奇妙な感覚だが、相手との距離がぐっと縮まる親密な感覚を覚える。自分の部屋をカフェにして知らない人を迎え入れる。自分の好きなものや自分のイメージを形作るものに囲まれた空間を見られることは、見ている人が自分を深く理解するようになると錯覚する。こうした空間のマゾヒズム的な楽しみ方は自分のテリトリーだと了解されている場所では可能である。
PLUGで事例紹介されている『出張マイハウス』などはまさにその楽しみ方の極みで、公衆の面前にわざわざ自分のテリトリーを作ってそこへ人を迎え入れることで親密なコミュニケーションを図っている。
ここに我々が街の中で見つけてきた事例との接点があるような気がしている。
街の中で自分で買った置物を道路に出す、あるいは自分の植木鉢を出す人は、ここは自分のテリトリーだという印をつけているようにも見える。
街は“誰かの場所”であり、そこへ自分が場所を得にいこうとするのだから、これは行為側からすると場所を攻めているサディスティックな行為だと捉えられがちである。
しかし往来の中へ自分のテリトリーを拡張子、自分の生活の一部をさらけ出して表現するという意味では露出めいたマゾヒズムを感じる。もちろんそれはコントロールされたものではあるが、自分の生活の一部を表現したいあるいは共有したいと言う願望が潜んでいるように思える。
もう少し拡張して考えると、コンビニや巨大資本によってチェーン展開するような店の場合は少し事情が変わってくると思うが、生活空間だけではなく商業空間も元来は自分のテリトリーへ人を入れることで成立する空間である。そしてそこには店主の個人的な嗜好や趣味が色濃く出ているはずである。
そういった意味では建築研究家の森川嘉一郎氏が秋葉原などの成立を趣味の構造から論じているのは非常に興味深い。
空間のマゾヒズム。個人的な愛。共有願望。
こういったキーワードは都市風景を考える上で無視できないようになってきているような気がする。もう少し研究してみる必要があるかもしれない。
これは大阪府現代美術センターとCSCDが共同で発行している地域情報誌で、大阪府下6万部発行されている。フリーペーパーなので主な地下鉄駅などで手に入れて欲しい。
以前はCP(カルチャーポケット)という名前で発行されていたのだが、リニューアル版からはCSCDが参入して発行していく。一番最後のページには現代美術センターの活動情報と並んで、CSCDの活動情報も載せているので、また手に入れてご覧になっていただけると嬉しい。
実はこのPLUG、まだ二回目の発行だが、二回目は「新・大阪的住まい方」という特集で進めた。大阪で個性的な住まい方をしている方々を取材してそれを特集にしている。
改造長屋で暮らす人々や、自宅をカフェにして人を招く暮らし方、自分の家と生活模様をまるごと美術館へ出張して展示物してしまう人など、どれも個性的な住み方をしている事例ばかりである。
今回そういう特集を組むということもあって、僕も一部コラムを担当することになった。
タイトルは「プライベートがもたらす風景」ということで、今回の特集で取材された3つの事例と、僕自身がランドスケープエクスプローラー始め各所で行ってきたフィールドワークの事例との類似点を考えた文章になっている。
詳しくはPLUGに書いたのでそちらにゆずるとして、ここでもう少し深く考えたいのは僕の中で第二のタイトル候補に上がっていたテーマ、つまり今回のタイトルの方である。
自分の居場所というのは自分の体の延長にあるというのはPLUGでも書いた。人も犬と同じで自分のテリトリーを持って生活している。自分の衣服、自分の部屋、自分の家、自分の街、自分の国などなど。自分に帰属しているという場合に何が特徴かというと、自分の意のままに改変できるということである。あるいは意のままに改変出来るモノが置かれているということではないか。
自分の身体を考えてみる。髪をカットする、眉を調える、タトゥを入れる、ピアスを開ける。自分の意のままに出来る身体は自分に帰属しているといえる。
自分の部屋だってそうである。自分の部屋は自分が好きに出来るモノに囲まれているので、自分のテリトリーだといえるだろう。モノを捨てるのも増やすのも、整理するのも、模様替えするのも自由だ。
しかし、そのテリトリーへ敢えて誰かを踏み込ませることで得られる快楽の存在を我々は知っている。その一つをマゾヒズムという言葉に置き換えるとドラスティックすぎるだろうか。今執筆中の書物のタイトルも「マゾヒスティック・ランドスケープ」というのだが、マゾヒズム/サディズムという概念は関係性を語る上で非常に興味深い。
自分の身体を誰かに触れさせる。自分の部屋へ誰かを侵入させる。
自分の身体を誰かに触れられるように、自分のテリトリーへ誰かを入れるというのは奇妙な感覚だが、相手との距離がぐっと縮まる親密な感覚を覚える。自分の部屋をカフェにして知らない人を迎え入れる。自分の好きなものや自分のイメージを形作るものに囲まれた空間を見られることは、見ている人が自分を深く理解するようになると錯覚する。こうした空間のマゾヒズム的な楽しみ方は自分のテリトリーだと了解されている場所では可能である。
PLUGで事例紹介されている『出張マイハウス』などはまさにその楽しみ方の極みで、公衆の面前にわざわざ自分のテリトリーを作ってそこへ人を迎え入れることで親密なコミュニケーションを図っている。
ここに我々が街の中で見つけてきた事例との接点があるような気がしている。
街の中で自分で買った置物を道路に出す、あるいは自分の植木鉢を出す人は、ここは自分のテリトリーだという印をつけているようにも見える。
街は“誰かの場所”であり、そこへ自分が場所を得にいこうとするのだから、これは行為側からすると場所を攻めているサディスティックな行為だと捉えられがちである。
しかし往来の中へ自分のテリトリーを拡張子、自分の生活の一部をさらけ出して表現するという意味では露出めいたマゾヒズムを感じる。もちろんそれはコントロールされたものではあるが、自分の生活の一部を表現したいあるいは共有したいと言う願望が潜んでいるように思える。
もう少し拡張して考えると、コンビニや巨大資本によってチェーン展開するような店の場合は少し事情が変わってくると思うが、生活空間だけではなく商業空間も元来は自分のテリトリーへ人を入れることで成立する空間である。そしてそこには店主の個人的な嗜好や趣味が色濃く出ているはずである。
そういった意味では建築研究家の森川嘉一郎氏が秋葉原などの成立を趣味の構造から論じているのは非常に興味深い。
空間のマゾヒズム。個人的な愛。共有願望。
こういったキーワードは都市風景を考える上で無視できないようになってきているような気がする。もう少し研究してみる必要があるかもしれない。
by innerscape
| 2006-01-04 00:01
| 居場所の獲得
私“flw moon”が日々の生活の中で感じた事を見つめ直し記録します。
心のフィルターを通して見た日々のシーンをひとつづつ電脳に記憶させることで、果たしてどんな風景が見えてくるだろうか・・・?
心のフィルターを通して見た日々のシーンをひとつづつ電脳に記憶させることで、果たしてどんな風景が見えてくるだろうか・・・?
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