flw moon innerscape
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INTERESTINGな風景
扇町クリエイティブカレッジというところで講座を開いた。
今まで僕がしてきたフィールドワークやランドスケープエクスプローラーでみんなが見つけてきた外部空間装置をスライドで見せながら、普段とは少し違った視点で街の見る面白さについて共有していこうという内容である。
8月ごろにはまだ何も考えていない状態でタイトルを出さないといけなかったので、とりあえず「街に出てネタを探そう」という安易なタイトルをつけて送ったが、当日フタを開けてみると30名を超える人々がやってきて、2時間お話しすることになった。
(Recipの方々含め、来ていただきました方々には感謝の嵐です。)
こういう機会は僕にとってもなかなか勉強になる。
今まで街を歩きながら撮ってきた写真を整理するうちに、自分がどういうところへ目を向けているのかが何となく見えてくる。
今、僕たちが住んでいる街はそのほとんどが戦後に作られたものである。終戦直後の焼け野原に求められた風景は、皆が平等で公平に幸せを享受できる風景、誰の手にも独占されていないような風景が民主主義の表れだとして『FAIRNESSな風景』が目指されてきたんじゃないかと思う。公団住宅にしても全国一律に敷かれるアスファルトにしても、標準的なデザインの公園にしてもそうだ。モダニズムの動きもおおむねそういうことだったんだろう。
それに対して、一部の建築家やランドスケープアーキテクトはそれでは駄目だと言い出した。もっと生活の中に美しい風景、『BEAUTIFULな風景』を取り入れる必要があるという思想のもと、デザインされた場所の創出を展開し始めた。確かにそれはそれで正しいことである。生活に美の考え方は必要だと思うし、そう考える人はたくさん居るだろう。しかし、こうした美しい風景が一部の偏った感性で勧められた結果、それは作品と呼べるような緊張感のある風景が展開され、鑑賞する以外の関わり方を拒絶してしまうような場所になってしまっているケースもあるのだろう。
一方で、商業主義やアートなどの台頭によって、個性的なオブジェクトが置かれたり、派手な色使いの面白い風景『FUNNYな風景』が商業施設を中心に展開される。中にはとても面白く、それが街の個性になっていたり、新たな場所の意味を生み出しているものもあるのだろうけれど、周辺の街とあんまり関係性や必然性を持たなかったり、気をてらいすぎて失敗していたりする例も少なくはない。
その中で、僕が面白いと思ってカメラを向けている写真はそのどれでもないような風景が多いように思える。
それは極めて個人的で、何とも必然性に満ち、リアリティのあって興味深い『INTERESTINGな風景』とでも言うべきもののように思える。
その多くは完全にコントロールされた状態とコントロールを失った状態のはざまの風景のように僕には見える。とてもユニークで多様性に満ちた風景だけれども、何らかの見えないコントロールがある。
その場所に関わろうとする人のモチベーションが場所の課題に対してユニークな解決策を導き出した実用的な風景(例えばその場にあるものを植木鉢として代用するなど)。
そして、何かと何かが重なったときに偶然に見えてくる風景(通行人と駐車車両とホームレスの移動住居が重なったときに見える面白さなど)。コントロールされにくい自然の風景(地下の水分条件が地上の雑草を規定している風景など)。違法なんだけど、法律を気にしながらしているので、何となくコントロールされている個性的な風景(ポストの側面に落書きがしてあるなど)。産業のように何らかの必然性や合理性のみで展開されているスケールアウトした風景(廃工場のように機能100%で出来た場所から機能が取れてしまった風景など)。現代の合理的システムではコントロールできないような信仰に根付いた風景(工場のシステムの一部にご利益のもらえる鳥居を組み込むなど)。そして、誰にも迷惑をかけずに勝手気ままに振舞う風景(車のガラス面に人形を展示するなど)。
どれも僕には『INTERESTINGな風景』に映る。
その風景を見たときに何がコントロールしていて、どんなコントロールから逃れようとしているのかということを考えると、意外と街はネタに満ち溢れているのかも知れない。
今まで僕がしてきたフィールドワークやランドスケープエクスプローラーでみんなが見つけてきた外部空間装置をスライドで見せながら、普段とは少し違った視点で街の見る面白さについて共有していこうという内容である。
8月ごろにはまだ何も考えていない状態でタイトルを出さないといけなかったので、とりあえず「街に出てネタを探そう」という安易なタイトルをつけて送ったが、当日フタを開けてみると30名を超える人々がやってきて、2時間お話しすることになった。
(Recipの方々含め、来ていただきました方々には感謝の嵐です。)
こういう機会は僕にとってもなかなか勉強になる。
今まで街を歩きながら撮ってきた写真を整理するうちに、自分がどういうところへ目を向けているのかが何となく見えてくる。
今、僕たちが住んでいる街はそのほとんどが戦後に作られたものである。終戦直後の焼け野原に求められた風景は、皆が平等で公平に幸せを享受できる風景、誰の手にも独占されていないような風景が民主主義の表れだとして『FAIRNESSな風景』が目指されてきたんじゃないかと思う。公団住宅にしても全国一律に敷かれるアスファルトにしても、標準的なデザインの公園にしてもそうだ。モダニズムの動きもおおむねそういうことだったんだろう。
それに対して、一部の建築家やランドスケープアーキテクトはそれでは駄目だと言い出した。もっと生活の中に美しい風景、『BEAUTIFULな風景』を取り入れる必要があるという思想のもと、デザインされた場所の創出を展開し始めた。確かにそれはそれで正しいことである。生活に美の考え方は必要だと思うし、そう考える人はたくさん居るだろう。しかし、こうした美しい風景が一部の偏った感性で勧められた結果、それは作品と呼べるような緊張感のある風景が展開され、鑑賞する以外の関わり方を拒絶してしまうような場所になってしまっているケースもあるのだろう。
一方で、商業主義やアートなどの台頭によって、個性的なオブジェクトが置かれたり、派手な色使いの面白い風景『FUNNYな風景』が商業施設を中心に展開される。中にはとても面白く、それが街の個性になっていたり、新たな場所の意味を生み出しているものもあるのだろうけれど、周辺の街とあんまり関係性や必然性を持たなかったり、気をてらいすぎて失敗していたりする例も少なくはない。
その中で、僕が面白いと思ってカメラを向けている写真はそのどれでもないような風景が多いように思える。
それは極めて個人的で、何とも必然性に満ち、リアリティのあって興味深い『INTERESTINGな風景』とでも言うべきもののように思える。
その多くは完全にコントロールされた状態とコントロールを失った状態のはざまの風景のように僕には見える。とてもユニークで多様性に満ちた風景だけれども、何らかの見えないコントロールがある。
その場所に関わろうとする人のモチベーションが場所の課題に対してユニークな解決策を導き出した実用的な風景(例えばその場にあるものを植木鉢として代用するなど)。
そして、何かと何かが重なったときに偶然に見えてくる風景(通行人と駐車車両とホームレスの移動住居が重なったときに見える面白さなど)。コントロールされにくい自然の風景(地下の水分条件が地上の雑草を規定している風景など)。違法なんだけど、法律を気にしながらしているので、何となくコントロールされている個性的な風景(ポストの側面に落書きがしてあるなど)。産業のように何らかの必然性や合理性のみで展開されているスケールアウトした風景(廃工場のように機能100%で出来た場所から機能が取れてしまった風景など)。現代の合理的システムではコントロールできないような信仰に根付いた風景(工場のシステムの一部にご利益のもらえる鳥居を組み込むなど)。そして、誰にも迷惑をかけずに勝手気ままに振舞う風景(車のガラス面に人形を展示するなど)。
どれも僕には『INTERESTINGな風景』に映る。
その風景を見たときに何がコントロールしていて、どんなコントロールから逃れようとしているのかということを考えると、意外と街はネタに満ち溢れているのかも知れない。
by innerscape
| 2005-11-04 00:58
| 居場所の獲得
私“flw moon”が日々の生活の中で感じた事を見つめ直し記録します。
心のフィルターを通して見た日々のシーンをひとつづつ電脳に記憶させることで、果たしてどんな風景が見えてくるだろうか・・・?
心のフィルターを通して見た日々のシーンをひとつづつ電脳に記憶させることで、果たしてどんな風景が見えてくるだろうか・・・?
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