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私的風景の電脳記録
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風景に出くわす

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カフェトークという会がある。これはアーティスト川俣正が色んな人と話しをするトークショーで、今回は53回目ということでCSCDの共催イベントとして哲学者の鷲田清一氏と話をされた。
鷲田さんと川俣さんの話の中で、興味深い話は色々とあったのだが、面白かった話題の一つに美術の二つの方向性というのがあった。
美術には大きく二つの方向性があったという。一つは全く意味を排除し、抽象化していく純粋芸術という方向性。これは箱しか作らないドナルド・ジャッドのようなミニマルアートなんかに見られるアプローチだ。
もう一方では社会と徹底的に関わっていくアプローチ。ヨーゼフ・ボイスやシチュオアシオニストなんかがそれにあたるんじゃないかと思う。
それを言い換えると何も書かないアートと何でもありのアートといえるのではないかという話しがあった。
鷲田氏はファッションでも同じことが言えるという。
意味やらしさを拒絶するファッション、意味づけ0のヨージヤマモトに対して 
何でもありのジャン・ポール・ゴルチェとなる。
しかしよく考えてみると0へのベクトルと、無限へのベクトルは正反対を向いているかのように見えるけど、実はそうではない。
それぞれの人が自分なりの解釈、多様な読み取りが出来るように、意味を排除して抽象化するという手法は、正解がないため実は何でもありの状況と同じなのではないだろうか。
意味がなさすぎるということと、意味にあふれすぎていることは、ともに僕たちの頭の中を判断停止の空白状態にしてしまう時があるような気がする。
情報過多の中で何かを信じることの出来る人と、抽象的なものを見て何らかの解釈をする人は似ていて、異常に何かに関心が高いか、読み取り能力が高いか、かなり自我の強い人間のような気がする。
たいていの人はそれほど高い関心や読み取り能力を持って作品や世の中を見ているわけではない。
僕達がよく設計しがちである、『何をしてもいい場所としての多目的広場』でも同じ状況が言える。みんなのために作りましたよ、なんでもしていいですよ目的で特徴なく設計された多目的広場は、実は誰も主体的に関わることが出来ない無目的広場に変わってしまうことが多い。
目的や対象が限定されている方が必ずしも良いとは限らないが、色んな人がその場所へ関わるためには、やはりどこかに誰かをつなぎとめる『引っかかり』が必要なのではないだろうかと思う。
それは空間的なひっかかりでも、モノによる引っかかりでも、意味づけを与えることによるひっかかりでもいいのだが、人をそこへ繋ぎ止めておくためのフックを設定することで、人の関わりが生まれてくるように感じる。

機能をカタチにするということでスタートしたモダニズムが結果的に意味を排除した抽象的な様式として世に送り出され、そうした様式への反動として出てきたポストモダンが意味100%の様式という極端なアンチだったが、実は僕達はその間で生きているんじゃないかなという実感がある。
意味や使い方を押し付けるわけでもなく、排除するわけでもなく、それぞれなりに読み取れるような、中間の方法はないだろうかという模索が我々マゾヒスティックランドスケープをはじめ、世の色んな所で試されようとしている。
アーティストの川俣正氏の試みもそうした動きの一つなのではないかと前々から注目していたが、話を聞いているうちにその確信は強まった。

自分の頭の中のみで考えたことの不毛さ。単純に感性だと言って表現したことのつまらなさがどこかにある。
それに気づいたのは大学院でデザインの勉強をしているときだった。
一つは自分の想像力の至らなさや、能力の限界と言うことももちろんそうなのだが、それ以上に既に結果が予想されてしまっていることを追いかけていくことにつまらなさを覚えたからだ。
だから川俣氏の言うことに共感できる。
彼も結果を想定して何かを製作するのではなく、結果に『出くわす』という言葉で説明していた。
サイトスペシフィックや現場性という言葉も使っているが、もうこれはほとんどランドスケープ教育の中で耳が痛くなるほど聞かされている言葉なので、僕は『出くわす』という言葉の方に反応した。
設定されたり意図されたりするのではなく、たまたま『出くわし』てしまう。そのことの刺激や気持ちのリアクションが新鮮に感じる。
鷲田氏はそれを身体性から捉えている。現場に行き、そこで感じることを通して体が理解するという言葉で語っていたのが印象的だった。

現場で得た情報や条件に全てをゆだねる態度、現場での状況を整理すれば答えが出てくるという態度。
これは建築の分野でも、特に最近言われていることで、作家の恣意性や表現性だけで出来た建物のつまらなさに対してのアンチテーゼでもある。
その場所、その環境から導きだされた必然的な回答が形態に反映されて欲しいと願う建築家たちが増えてきているのは事実だ。
そのときの現場性という中にその地域に住む人々まで含めて捉えられる。
そこに住む人も含めて自分の製作行為にアートに関係ない人を巻き込むことに川俣氏は興味を覚えるという。
作品を制作するというよりはむしろ製作する行為そのものが作品であり、そこで起こるコミュニケーションこそが作品の中身であると言う考え方である。
これを一重にプロセス主義とくくってしまっていいのかどうかは分からないけれど、建築ではちょっと前からワークショップという手法が盛んに叫ばれている。しかしアートでは川俣氏をはじめ注目を集めだしたのは最近のような気がする。
偏見といわれるかも知れないが、やはり『作家性の呪縛』が大きいカテゴリーほどプロセス主義へ移行するのは時間がかかっているように見える。
アートの分野ではまだまだ作品主義と言うのが残っているからなんだろうか。形の残らないようなプロセス、あるいは写真に残らないような作品、そして自分が手をつけていないものをアート行為と呼べるのかどうかということに行き詰っているように見える。
アートや建築は図にあたる部分である。何かを作ったこと、自分が作成した証をこれ見よがしに提示することで成り立っている。つまり出来上がったものが全て、結果が全てという世界だった。作る過程に意味があるとか言ってこなかったし、自分が作ったものがプロセスだなどといって誰かに改変でもされようものならカンカンになって怒り出しただろう。
しかしランドスケープデザイナーは大きいスケールの作品を扱ってきたためもともと作家性が希薄で、本質的には地を作ってきた職業でもある。
作品が大きいが故に個人のエゴや表現だけでは成立せず、多くの人々との共同や参加のプロセスを経て風景を作り育てていくというのは古くからやってきたことでもある。
川俣氏のやっていることもまた、そこに風景を出現させることなのだと思う。場所と人がコミュニケーションを図る、人と人がコミュニケーションを図る風景を出現させることが彼の作品なのだと思う。
そうだとした場合に我々のしている事と、川俣氏がしていることには差はないのかもしれない。
もともと風景なんて誰かがデザインしてきたわけではないし今後だってそうなんだと思う。でもある時期に、やはり誰かが風景を違った方向に導かなければいけない時があると思う。
そんな時にアーティストやランドスケープデザイナーが出くわされる風景を設定する必要があるのではないだろうか。
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by innerscape | 2005-07-14 00:24 | アート

私“flw moon”が日々の生活の中で感じた事を見つめ直し記録します。
心のフィルターを通して見た日々のシーンをひとつづつ電脳に記憶させることで、果たしてどんな風景が見えてくるだろうか・・・?

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