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私的風景の電脳記録
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なぜ病院での芸術は報道されないのか

マスメディアの嗅覚の悪さにはいい加減うんざりする。僕らがやっている取り組みに意義を感じる感性も持たず、他の下らないイベントを追いかけるのに忙しいからと取材にもこれず、誰にも知られること無くひっそりと僕らの取り組みは終わって行く。

社会の中での新しい可能性を世に発信して、多くの人に勇気を与え、社会を批判的に見据えるのがマスメディアの役割だと考えていたのだが、その気概はどこにも見えない。僕らの取り組みは今回が終われば次はもうないのかもしれない。気がついた時にはもう世は変わっているのだ。

数ヶ月前から交渉している新聞社やテレビ局も反応が鈍い。いつからマスメディアはこんなに嗅覚が鈍くなってしまったのか。非公開とはいえ、我々の取り組みに辿り着けないマスメディアの体制と感覚の悪さには辟易する。他に優先して取材したものは一体どれほどの価値を持った情報なのだろうか。

僕らの取り組みは今日、社会化しないと明日はもう出来ないかもしれない。まだ誰も評価していないからこそマスコミが発信する価値があり、誰かが既に評価してことに対して群がって来ても、それは何ら先見性があるとは言えない。マスコミには失望ばかりだ。

本当は数ヶ月前の交渉の段階からプロセスを取材して欲しかった。作品だけ見てもそのプロセスが全く分からないからだ。病院の中であの規模の芸術作品を成立させることがどれほど苦労を伴うのか。しかしそうやって数々の難問を乗り越えて実現した作品の様子ですら取材に来ようとしない。あきれてしまう。

簡単に行くとでも思っているんだろうか。院内の規制の話や必要性への懐疑をくぐり抜け、電源や搬入路や無菌室への影響なども全てクリアし、到底出来ないような予算で人を説得し、なおかつ天候によっては出来なかったりするリスクまで背負いながら、己のためだけにやっていると思っているんだろうか。

誰からも取り組みの意義を認めてもらえず、誰からもそんなこと出来ないと言われながらようやくこぎ着けた極みだとしても、世に発信されねば届かないのだ。何ヶ月も前からそのことを伝えているのにマスコミは他のイベントを追いかけるのに忙しく、こちらで起こっている奇跡には見向きもしない。

後から来てももう二度と同じことはできない。僕はいつでも一期一会なので二度と同じことはしないし、僕が同じことをしたとしても自然現象や現場状況がそれを許さない。今を伝えるのが報道の役割だと信じていたが、全く愚かになってしまったことを嘆く。
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by innerscape | 2012-02-21 12:03 | 崩壊のロジック

原子力発電について勅使河原博士の見解

「原子力発電所の建設に関して、これを推進すべきか、それとも。その反対か……、勅使河原博士のご意見をいただきたいのですが…..」
「意見はありません」勅使河原潤はそっけなく答えた。「一般的なイエス・ノーを答える事は不可能です。それは、時と場合によって、また、話す相手によっても異なります」
「あるときは賛成されて、あるときは反対される、という意味でしょうか?」
「そのとおりです」
「どうして、原子力発電所の建設に関して、節操が必要なのですか?いつでもどんなときでも正しい事ってあるのでしょうか? それから、世間から批判されるって、何ですか? それが何か僕に関係するような事態なんでしょうか?」
「いえ…..、その…….、どうか、お気を悪くなさらないで下さい」
「気を悪くなどしていません。そんなに評価していません。 よろしいですか。簡単に、客観的な事実だけを述べましょう。 原子力発電は、もし、それがうまく機能していれば、火力発電のように大気を汚さないし、水力発電のように自然破壊をしない、とても理想的な発電方法です。 現在の技術ではこれ以上のものは望めません。このクリーンな発電システムを、長期にわたって維持・管理することができれば、たとえば、自動車を全部、電気駆動にしたり、太陽電池を大量に作って利用することもできる。 小型エンジンによる排気ガスもかなり減らすことができるでしょう。電気自動車を動かす電気、太陽電池を清算する電気を、火力発電で賄っていては、大気が汚れる事には変わりがない。 意味がないのです。 地熱発電とか、風力発電とか、波浪発電とかは、まったく問題外です。 さて、しかし、一方では、原子力が、まだ完全に制御できない危険性を有していることも否定出来ません。 短い歴史の中で既に幾つもの失敗があり、事故が起こりました。 安全な管理と保守、廃棄物の隔離などが、どこまで完璧に行えるものなのか、まだよく把握されていない。 これが現状です。 見切り発車している、と言う人もいれば、実験をしなくては、技術的な進歩も望めない、と言う人もいるでしょう。 原子力発電所に反対する人だって、大量の電気を使っていますし、電気で作られる製品を使って生きている。 地球の自然を守ろう、と叫んでいる一方で、クーラーの利いた部屋で暮らしている。医療にも、社会福祉にも、エネルギィが必要なのです。 もし、それらの電気を得るのに原子力を使わないのなら、今の倍以上の火力発電によって、大気を汚染し、環境を破壊しなくてはなりません。 もちろん、その燃料でさえ、いつかは枯渇するでしょう。 これが、現状なのです。 これらすべてののことを考えに入れても、僕には、イエスかノーかの判断はできません。 たとえ、絶対安全な原子力の管理方法が確立しても、それが五十年後にも完璧に機能している、という保証はない。 僕の生きているうちは大丈夫でも、五十年後、百年後には、極めて致命的な問題となって、そのときの、あるいは、さらに未来の人たちの生活を脅かすかもしれないのです。 それをですよ…..、どうして、僕が、今、少ない情報だけで、簡単に賛成だ、反対だと言えるでしょうか。 それが正しいことなのか、間違っていることなのか、誰が知っているでしょう? 何年も何年も、大勢の研究者が、その問題に取り組んでいるのです。新しい方法が見つかれば、新しい問題が発覚する。 世界中で、繰り返し議論されている。 いいですか? とても重要な問題なのです。 貴方がもし、この重要性を認識しているのなら、メニューを選ぶように、簡単に、イエスかノーかなどと人にきいたりはしないでしょう。もしご関心があるのでしたら、どうか、お願いですから、答を出さないで下さい。」

(「そして二人だけになった」/森博嗣/1999年)
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by innerscape | 2011-05-06 19:29 | 崩壊のロジック

新堕落論

『人間。戦争がどんなすさまじい破壊と運命をもって向かうにしても人間自体をどうなしうるものでもない。戦争は終わった。特攻隊の勇士はすでに闇屋となり、未亡人はすでに新たな面影によって胸を膨らませているではないか。人間は変わりはしない。ただ人間に戻ってきたのだ。人間は堕落する。義士も聖女も堕落する。それを防ぐ事は出来ないし、防ぐことによって人を救う事はできない。人間は生き、人間は墜ちる。そのこと以外の中に人間を救う便利な近道はない。

戦争に負けたから墜ちるのではないのだ。人間だから墜ちるのであり、生きているから墜ちるだけだ。だが人間は永遠に墜ちぬくことはできないだろう。なぜなら人間の心は可憐であり脆弱であり、それゆえ愚かなものであるが、墜ちぬくためには弱すぎる。』
坂口安吾「堕落論」より


安吾はこう語っている。
そして僕がもし安吾の言葉に付け加えるなら、人間は堕落を憎み、理想を追い求めることもまた、それも真実なのであるということだ。
人間は理想を求めながら堕落を繰り返し、そこへ到達出来ない自分を悔やみ嘆き悲しむ。
堕落を続けながらも、ほんの一瞬垣間みた光を愛して、昇ってゆこうとする人間の生き様に悲哀といとおしさがあるのであって、堕落そのものが美しいわけではないのだと僕も思う。
人は弱いからいとおしく、弱さを憎むからまたさらにいとおしいのだ。
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by innerscape | 2007-11-25 01:14 | 崩壊のロジック

人はそこを立ち去る時に何を想うか

だめでせう
とまりませんな
がぶがぶ湧いてゐるのですからな
ゆふべからねむらず血も出つづけなもんですから
そこらは青くしんしんとして
どうも間もなく死にさうです

けれどもなんといゝ風でせう
もう清明が近いので
あんなに青ぞらからもりあがって湧くやうに
きれいな風が来るのですな

もみぢの嫩芽(わかめ)と毛のやうな花に
秋草のやうな波をたて
焼痕(やけあと)のある藺草(ゐぐさ)のむしろも青いです

あなたは医学会のお帰りか何かは知りませんが
黒いフロックコートを召して
こんなに本気にいろいろ手あてもしていたゞけば
これで死んでもまづは文句もありません

血がでてゐるにかゝはらず
こんなにのんきで苦しくないのは
魂魄(こんぱく)なかばからだをはなれたのですかな
たゞどうも血のために
それを云へないがひどいです

あなたの方からみたらずゐぶんさんさんたるけしきでせうが
わたくしから見えるのは
やっぱりきれいな青ぞらと
すきとほった風ばかりです


宮沢賢治『疾中』より
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by innerscape | 2006-11-30 01:02 | 崩壊のロジック

何を減らすのか

a0091712_2140354.jpg全国の国立大学は今までキャンパスについては事務の施設部が運営管理してきたが、独立行政法人になったのを機にデザインという観点から整備や管理を進めていこうという動きがある。
大阪大学もその例に漏れず、キャンパスデザイン室という部屋を設けて取り組もうとしているが、そこが主催するキャンパスマネージメント委員会の「緑のデザインマスタープラン」の検討ワーキングメンバーを引き受けてしまった。

阪大にはもとより農学部や芸術系の学部もなく緑系の学者に乏しいので、ランドスケープの人間が欲しいということだが、あんまり植物に詳しくない僕はハラハラしながら参加している。

その第1回目が開かれた。
今日はまだ検討議題に入れるほど問題も整理されていないので、挨拶程度だったが今後はどうなることだろう。
一つだけ思うのはキャンパスには低木が多すぎるということである。

キャンパスを作った40年ほど前は植えた高木が貧弱で、全体的な緑の量を多くするために低木をたくさん入れていた。
しかし樹木は成長して立派な高木になっている今、必要ないような場所の低木管理に結構な予算がかかっているのではないかと想像する。

それを整理するだけでもキャンパスはすっきりとするし、予算的にも節約がかなり出来るのではないかと思う。
郊外の安楽死研究会でも議論しているが、時代はそろそろ「何を作るのか」ということから「何を減らすのか」ということを考えるステージに来ていると思う。
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by innerscape | 2006-11-06 21:28 | 崩壊のロジック

郊外の抜殻

a0091712_21255790.jpg

午後から「郊外の安楽死研究会」、通称サバケンのフィールドワークのため、神戸市須磨区の名谷駅に向かった。
メンバーが数人来る予定だったが、急用や連絡がつかないメンバーなどがいて、結局、僕と山崎氏の二人で歩き始めた。
名谷の駅前には商業施設を含めた複合センターがあって、休日ということも手伝ってにぎわっている。
ここだけ見ていると、郊外から人がいなくなるなんてことは想像できないが、人口は後数年後に確実に減少し始める。一方で、都心には大型のマンションが建ち始めている現状を考えると、確実に郊外から人が減っていくのだろう。
急に無人になった施設の抜殻が目に浮かんでくる。
そんな大きな流れに対して僕達に何ができるのだろうかを考えながら駅前から次第に離れていった。
名谷駅の周辺には立替が住んだ高層住宅もいくつかは見られるが、多くは一時に大量供給された公団住宅で、まるで工場か何かのように見事にずらっと並んでいる。
太陽をたくさん受けられるように南を向いて平行に配置された建物はベランダ越しに人の生活の様子が映し出されているのが普通である。
しかし駅からまだそれほど離れていない場所にも関わらず、南面したベランダには全体の3割ほど黒いビニールシートで覆われていた。
無人のしるしである。
駅前で最も便利な場所にある住宅でもこうして人が居なくなりはじめている現状の中、人口減少が進むとそれは加速されるだろう。
ますます危機感がつのる。
団地の中には当時は最新のデザインだったと思われるような遊具や、自転車置き場のシェルターなどがあちこちにある。
今は錆と汚れで古びてきているのは何ともいえない寂寥感に満ちていて、何とも物悲しい。
ひょっとすると今の若者には別の意味でかっこよく映るかもしれない。
コンクリートや石積みの間から生える雑草、日に焼けてはがれかけている案内板、腐りかけていて座るのをためらう木製スツールなど、30年ほどの年月がで既に廃墟化を進行させているようだ。
駅前から遠ざかるにつれて、戸建住宅が増えてくる。
造成だけされていて、家が建っていないような土地もあちこちにある。
そうした土地の多くは空き地として放置されているが、中には駐車場や畑として利用されているものもある。

僕達がサバケンで郊外について考えているのは、どうすれば郊外を安楽死させれるのかということである。もう少し具体的に言うとどうすれば自然に戻していけるのかということを考えている。
こんなことを言えば郊外に住む人に怒られるかもしれない。
しかし、確実に人口は減少し始める日が来る。
そして団塊の世代がこぞって郊外の住宅を購入してからもう30年近く経ち、その次の世代、いわゆる団塊ジュニアの世代が住宅を持つとなったときに再び郊外へ住みに戻ってくるとは必ずしも言えない。
今でも空き家が目立ち、人が減っていく郊外はある人口を切れば商業展開が難しくなりスーパーや病院なども開きにくくなる。
そしてそのことがさらに人口の流出に輪をかけ、遂にはバスなどの公共交通が回らなくなるかもしれない。
そして最後の一人になったとき、その人のためだけに電気やガス、大きな道路、上下水道などをメンテナンスし続けるのだろうか。
そこにリアリティを僕達は感じていないのが活動の理由でもある。
しかし郊外がどんどん抜殻に変わっていき、廃墟へと変化していく時に、資本を投下してまで自然へ戻さなければいけない強い理由を、まだ僕達は見出せていない。
今はまだそうしたビジョンについて根拠が薄いままであるが、抜殻になっていく郊外を自然に戻すためのもっと積極的な理由を探すことが必要である。
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by innerscape | 2005-05-29 21:24 | 崩壊のロジック

廃墟礼賛

a0091712_19394938.jpg

かねてより行きたかった場所で、なかなか機会が無かったのだが、つい先日遂に友が島へ行ってきた。
友が島は瀬戸内海の紀淡海峡に浮かぶ4つの島を総称している。
明治初年より陸軍が国土防衛のために砲台を建設した場所で1889年に第一砲台を設置したのが始まりで、第二次世界大戦が終わるまで重要な軍事要塞として利用されていた。

戦後アメリカ軍が砲台を破壊して今ではすっかり廃墟となってしまった無人島だが、珍しい動植物や地層などもあって、来島者も少しは居るようだ。
僕が参加しているコラボ研という研究会の一環で行ってきたのだが、30人近い人数で廃墟をウロウロする光景はなんとも異様なものである。
なぜなら人の姿が居ないことが廃墟の特質の一つだと思うからである。
その証拠に、30人近く居た人々のほとんどが廃墟を撮影するときに人影を入れることを拒否していた。
廃墟は無人であって欲しいという想いがそこには働いているように見える。

廃墟は死のイメージがつきっている。そして廃墟には植物がつきものである。
人が居なくなった後の抜殻だけが残っている姿に対して、侵食してくる植物の異様な生命力が対照的に生々しく映る。
まるで廃墟は植物の生命力を確認するための施設であるかのようだ。
その植物の意味するところは人間の管理の手が入っていないことであり、それはすなわち人間によるコントロールの不在を意味する。
かつては人の息吹があった場所が、今ではすっかり消えてしまいその痕跡だけが残っている場所。それが廃墟なのだ。
そうした姿に人はどこか儚さを感じるのだろうか。廃墟を礼賛する人はそう少なくはないはずである。

こうした廃墟礼賛は今に始まったことではなく、ヨーロッパの文化を中心に幾度と無く廃墟がモチーフにされて作品が作られてきた歴史がある。
16世紀初頭のイタリアにおいてはすでに人工的に作ったニセ廃墟が(シャム・ルーイン)があったらしく、廃墟に対する渇望がこんな時代にもすでにあった。
17世紀には絵画の主要モチーフとして廃墟のイメージが何度も登場する。18世紀に入るとピラネージを初めとする芸術家にとって廃墟はインスピレーションの源泉になり、また主に英国を中心に庭園の添景物として廃墟が作られ始める。
結果としての廃墟ではなく目的として廃墟をつくることに貴族達が興じていた事実は面白いが、人口廃墟というのは果たしてリアリティを持ちえるのか疑問である。
遺跡とは使われている姿だが、廃墟とは使われていない状態を指すのではないか。打ち捨てられているから廃墟なのである。
廃墟は積極的な意味や機能を持ってはいけない。意味や機能が抜け落ちた後の状態が廃墟だからである。
面白いのは友が島の第三砲台などを見ていると、全く意匠的な意味合いを感じないところだ。
かつては機能と意味しかなかった空間だったのだろうが、それが今では全く反転してしまっている。
そのことも施設の死=廃墟を語っているような気がする。

しかし不思議なことに現代においてなぜか廃墟的に発見されるものに工場がある。
それも現在も稼動中の工場は意味と機能に満ちあふれているはずなのに、工場地帯には廃墟的な雰囲気を感じるのはなぜだろうか。
工場もやはり人が住んでいないということから生活感が欠如しているからだろうか。
それとも工場の持つ異様なスケール感は僕達の生活実感とかけ離れているからなのだろうか。
工場の内部や外部にある装置が僕達の理解を超えているからなのかもしれない。
いずれにしても何か理解できない感覚、どこかコントロールし切れていない感覚が廃墟にも工場にもつきまとうような気がする。
解体されてしまった香港の九龍城砦やアメリカのプルーイット・アイゴー団地などは、人が住んでいるにも関わらず生きながらにして廃墟的なイメージを帯びていったのは、やはりアウトオブコントロールな状態があったからであろう。

そのコントロールし切れていないイメージとしての廃墟観が作品の中で引用されることも多い。
大友克弘のアニメーション『AKIRA』における「ネオ東京」や映画『ブレードランナー』での廃墟観、漫画『北斗の拳』での廃墟観など挙げればまだまだ出てくるだろう。

廃墟礼賛については今後も色んな断面から考えていきたいテーマである。
廃墟は僕を考えさせる存在である。
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by innerscape | 2005-04-29 19:33 | 崩壊のロジック

私“flw moon”が日々の生活の中で感じた事を見つめ直し記録します。
心のフィルターを通して見た日々のシーンをひとつづつ電脳に記憶させることで、果たしてどんな風景が見えてくるだろうか・・・?

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