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私的風景の電脳記録
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トランスパブリックへ

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ランドスケープエクスプローラーに参加したのが2003年だったか。
そこから3年かけて2006年に「マゾヒスティック・ランドスケープ」という本を出した。
それからもう4年経ってしまったが、その時に考えていた事を今でも考えて続けている。

公の場所で何かをするときは自分が責任を持つ覚悟が必要で、それさえ持てればしていいことの幅は増えるはずなのだが、法律はそれを許さない事が多い。
もちろん人に迷惑のかかることをしてはいけないのは当たり前だが、では一体何をすれば迷惑なのかということは案外グレーゾーンだ。
家の前に園芸のプランターを置く事すら違反行為だとすれば、僕らは街とどうつながればいいのだろうかと考えてしまう。

疑わしきは黒として何でも禁止してしまうのは管理側の発想で、僕らの親のさらに上の世代がの人たちが昔元気だった頃は、厳しく管理するぐらいが丁度良かったのかもしれないが、すっかりおとなしくなってしまった僕らの世代はしてはいけないことだらけの街に少々窮屈な想いをしているのかもしれない。
そんな感覚をアンダー35の実力と名付けられたイベントの開場構成「トランスパブリック」の過剰な記号表現の中に込めた。
ご来場いただきました方々には心よりお礼の言葉を申し上げたい。


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写真:kutowans studio
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by innerscape | 2010-02-01 01:32 | マゾヒスティックランドスケープ

『マゾヒスティック・ランドスケープ』を出版します。

a0091712_19214570.jpg2000年頃から行ってきたデザインワークショップ『ランドスケープエクスプローラー』の活動を本にしました。今回私flwは執筆及び全体のマネージメントに加えて、装丁を含めた256ページのグラフィックデザインを担当したので大変でしたが、やっと完成いたしました。
次のパブリックのあり方を求めて、主に関西で行ってきたフィールドワーク集“外部空間装置辞典”を始め、グラフィックデザイナーの原研哉氏や建築家の塚本由晴氏などとのパブリックをめぐる対談、マゾヒスティックな風景を生み出す手法をもとに提案されたイワレ捏造技術開発機構などを含む10のスタディモデルなど、読みどころ満載の本に仕上がりましたので、是非書店にてお求め下さい。

『マゾヒスティック・ランドスケープ~獲得される場所をめざして~』
出版社 :学芸出版社
定価 :¥2500+税
ページ数:256ページ(カラー24ページ)
出版日 :2006年3月末日
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by innerscape | 2006-03-30 18:39 | マゾヒスティックランドスケープ

コラージュが伝えるもの

a0091712_0184674.jpg本日のアーキフォーラムはいつものINAXショールームから場所を変えて、靱公園の側にあるアーツアンドクラフトのオフィスで行う。
残すところあと2回のアーキフォーラムの今回のゲストは後藤武氏である。
近代建築史の研究からスタートした後藤氏の話は同時代における絵画や彫刻などのアートとの関係から建築を捉えており、今回は「建築の時間」というテーマでお話を聞いたが非常に勉強になる内容だった。
20世紀、特に建築やデザインの世界ではモダンという概念がよく問題にされる。
モダンとは一体なんだったのか。そしてその後にやってくるポストモダンとは一体なんだったのか。そしてオルタナティブなモダンとは何か。そんな大きな話題を巡って話が進められた。


a0091712_019557.jpgモダンの後にやってくるポストモダンの考えかたの引き金になったのはコーリン・ロウの書いた「コラージュシティ」であると後藤氏は語る。この“コラージュ”というキーワードを巡って、その後の話が展開されていく。
ピカソやブラックなどのキュビズムの視点というのは、なぜあんなヘンテコな絵になっているかというと、複数の視点から見たものを一つの二次元平面である絵画へと閉じ込めてしまう、つまりコラージュしてしまうからである。これは一つの絵の中で複数の経験をしてもらおうという意図があって、後藤氏いわくそれは時間が圧縮されたものだと言える。
ちなみにポストモダンの建築ではそういうことをやってきていて、磯崎新のつくばセンタービルもフィリップジョンソンのAT&Tも全部歴史からの引用とコラージュの手法で出来ている。中でもミースとコルビュジェをコラージュしたクンストハルや20世紀の使えるボキャブラリーをうまくコラージュしたボルドーの住宅などを作っているレム・コールハースはポストモダンの論理を一番うまく構築していった人ではないかと後藤氏は続ける。


a0091712_0192975.jpgあまり系統立てて考えたことはなかったが、何かのパーツと何かのパーツをくっつけてひとつのものをつくってしまうというコラージュの本質を考えると非常に面白い。
コラージュされるということは何かのパーツが既にパーツとして存在している、つまり名詞化された状態にあるということで、名詞化された状態ではいとも簡単に取り扱えるツールと化してしまう。
例えば「ハサミ」という名刺。もとは物を切るために「挟む」という動詞だったはずである。それが名詞化してしまうと今度はそのものの本質とは離れたイメージで一人歩きしてしまう。そうするとコラージュのツールとして用いられやすくなる。
建築の場合であてはめてみると、例えば「ピロティ」や「スロープ」や「屋上庭園」などの名詞ももともと本質的に何のためにそれをしていたのかという動詞があるはずである。だから後藤氏は「動詞で考える建築」を考えたいという。

ともかくコラージュというのはある意味で都市を捉える上で重要な概念であるような気がする。


a0091712_0195981.jpg僕達の街での空間体験はかなり断片化している。
御堂筋を歩いているときと地下鉄御堂筋線に乗っているときと、御堂筋沿いのそごうの中に居るときとでは全く違う体験をしていて、それらは連続的にイメージされにくい。というよりイメージと言うのはもともとコラージュ的なものなのだと思う。


だから複数の視点を一気に経験できる映像や映画はコラージュ的だ。映画はシーンによって主観が切り替わったり、引いた構図になったり、手元や口元がアップされたりする。それって人間が体験したことを脳の中でイメージしたりする構造に似ているのではないだろうか。
それに対して舞台に向かって全ての観客が同じ方向から眺める演劇はコラージュ的な表現媒体ではなく、出来事的なのだろう。

建築で言うと、様々な空間性を持った場所を隣接させる建築、例えばアドルフ・ロースの建築などはある種、空間同士がコラージュされた映画的建築で、どこに居ても同じ体験が出来る、ユニバーサルな体験が出来るミース・ファン・デル・ローエの建築は演劇的なのだと思う。

映画にも少し携わり、空間デザインについても考え、イメージリテラシーの実験を仕事の中で同時にコラージュしている僕としては、今日の後藤氏の話を聞きながら、このあたりの関係性についてもう少し考察を進める必要があるとつくづく思う。
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by innerscape | 2006-02-11 00:17 | マゾヒスティックランドスケープ

役立たずロボットの教え

a0091712_1192292.jpg21世紀に入ってしまってからもう5年も経ったが、一向にアトムやドラえもんのようなロボットが開発される気配を感じない。果たしてロボットは僕達とコミュニケーションを図ることの出来る友人となり得るのだろうか…?
CSCDでは科学技術コミュニケーションプロジェクトの一環で、興味深い取り組みをされている研究者や実践者を定期的にお招きしてお話を聞いているのだが、本日の科学技術カフェでお呼びしたのはATRネットワーク情報学研究所の岡田美智男氏である。
岡田氏は万博やシーグラフなどでも好評を博したロボット「Muu」を開発した研究者である。
岡田氏はもともとロボットの開発を主体にしていたわけではなく、コミュニケーションの研究をしていて、そこからコミュニケーションを図るロボットへシフトしていった研究者である。

a0091712_1194410.jpgシフトするきっかけとなったのが20年ほど前に起こったある体験だという。
自動販売機でジュースを買ったときに、販売機から音声で「ありがとうございます」の言葉が聞こえてきた。しかしそこにはお礼の気持ちをこれっぽっちも感じることが出来なかったという。

なぜ自販機からの「ありがとう」にお礼の気持ちを感じることが出来なかったのだろうか。この機械は「ありがとう」という言葉を発して、我々に一見コミュニケーションを図っているように見える。しかしそれは特にコミュニケーションを図る相手を想定し言葉を発している訳ではなく、一方的・機械的に応答反応しているだけであることを我々は知っている。自販機の「ありがとう」に対して「どういたしまして」と答えたところで、自販機は特に何も反応を示さないことを知っているため我々はいちいちその言葉に反応しない。つまりこの「ありがとう」は機械からの一方的な投げかけで完結しているのである。完結しているが故に、我々側にはコミュニケーションを図る余地は当然無い。
そんな体験をした岡田氏の中で、コミュニケーションが図れる存在としてのロボットには何が必要なのだろうかという問いが生まれた。それが今のMuuを開発するに至った動機だという。

a0091712_12097.jpgMuuは大きな目と触角のような突起物を持っているが、手足が無いロボットで、ひとりでは何一つできない。ただ哀願するように「キューキュー」と泣くことしか出来ない存在として設計されている。
岡田氏はこれを開発する際に『他力本願型のロボット』を目指していると話している。


自分動けないのであれば誰かに動かしてもらえばいい。モノを取れないのであれば、誰かに取ってもらえばいい。表情が乏しいなら誰かに積極的に解釈してもらえばいい。これらは全て不完全なゆえに他者との関係性を引き起こす戦略である。
例えばMuuを子供と一緒に積み木遊びさせてみる。Muuは手足が無いので積み木を積むことが出来ない。だからMuuは「キューキュー」という音で積み木を積むように子供に哀願する。子供は色んな色がある積み木の中から緑のモノを取って積み上げてみる。そうするとMuuは激しく「キューキュー」と言って、その色の積み木を積んでほしいわけでは無いことを子供に訴えかえる。今度は黄色の積み木を手に取って積んでみると、Muuはさっきよりも優しく「キューキュー」と音を発して、喜んでいることを訴える…。
こちらの動作に対して音の使い分けでしか反応を表現できない役立たずロボットであるが、しかし自分がしてあげた事でロボットが喜ぶ様子を見るのが楽しくて、ついつい手を出してしまう。
ある意味ヒトの乳児もこの戦略を取っていると捉えれば、弱い立場であることの積極的な意味がそこに見出せる。
何かの機能や目的をかなえるための装置やカタチをそぎ落とした引き算のデザインで作られているのがMuuだとすれば、何かの役に立つような「目的」や「役割」を作りこんでしまうロボットは足し算、自力本願的なデザインと言える。それは完結性が高いが故に、コミュニケーションを拒絶している可能性が高い。
こうしたロボットは役に立つのだが人間との関わりの中で「目的」や「役割」がずれてしまうと、それは「役にたたないゴミ」になってしまい排除される。それはそれでロボットの一つのあり方であるが、コミュニケーションそのものが目指されている場合には、「何も役にたたないけれど、いないとなんだか寂しい」そうした存在感や関係性を手がかりに出来ないかというように岡田氏は語っていた。

a0091712_1203263.jpg分野は違うがこの話をずっと聞きながら同じモノづくりという側面において、その考え方が我々のマゾヒスティック・ランドスケープのアプローチと非常に似ているということに僕は非常に驚いた。
我々が「獲得される場所」に求めていたのはヒトと場所との豊かなコミュニケーションのある風景である。非常に完成度は高いが一方的に完結してしまう場所ではなく、人々がつい手を出してしまいたくなるような場所。
何も機能していないけれども、無ければなんだか寂しいという存在感を持った場所。こうした場所を作っていく手がかりを役立たずロボットは教えてくれているような気がする。
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by innerscape | 2006-01-17 01:16 | マゾヒスティックランドスケープ

自力本願型デザインと他力本願型デザイン

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昨年度から京都造形芸術大学の環境デザイン学科で演習の指導をしている。
毎週水曜と木曜に出向いて色々と学生と話をしながら設計を詰めていくのだが、なかなか皆個性的で毎回こちらも楽しませていただいている。
今年の演習課題はアトリエの設計である。
四方を壁で囲まれた10m×21mほどの敷地の中央に10m×7mの屋根がかかっていて、南北に10m×7mの屋外空間が二つあるという条件で自由に場所を設計していくという内容である。
昨年度の演習がギャラリーの設計とその周囲のメモリアルパークの設計だったのだが、演習時期を少しずらして建築設計課題を終えてからランドスケープの課題を進めるというように、教員も分かれて指導していたのだが、今年は最初から渾然一体となって指導するスタイルで進めてみることになったようだ。
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課題の設定については全く関与していないのだが、今回の条件で難しいと感じるのは最初から敷地の周囲に壁が設定されていることと、場所の設定が仮想的であるということだ。この設定自体に建築とランドスケープのデザインに対するアプローチの違いが見え隠れしているように思えた。
周囲の条件が無いということはランドスケープの設計にとって致命的である。ランドスケープの設計は敷地の読み取りがその設計作業の半分以上を占めているので、抽象的に設定された空間では読み取られるべきポテンシャルが限定されてしまうということである。
敷地の周囲に壁を立てるということは周囲から隔絶された環境を作るという意思であり、自分の頭の中からしかデザインのボキャブラリーが出てこない。そこの立地環境に依存したデザインが場所のリアリティを生んでいくと思うのだが、建築の教員が課題設定をするとどうもそうは捉えていないようである。壁を立てて、屋根を作って、木を植えれば空間を作っていけるという自力本願型の思想が伺える。

それに対してランドスケープの設計は自分の頭で設計しているように見えても、実は目に見えない色んなことで選択させられてしまっている感覚を覚える。どんな気温でどんな湿度で、どんな風が吹いていて、どんな人が暮らしていて、どんな生活様式で、どんな考え方をしていて、どんな風景が広がっているのか。そのことが場所のデザインにとっての生命線になる。
学生個人の考え方の差異ももちろん面白かったのだが、課題設定のあり方が出自や専門性を表しているのが見えて面白い。
庭のデザインと風景のデザインは違うものだと思う。庭のデザインは建築家の仕事に近いが風景のデザインは演出家の仕事に近いのかもしれない。周辺環境にどんな俳優が潜んでいるのかを見極めてそれにコンテクストを与えていく姿勢は、同時にその環境がどんなコンテクストを持っているかということにある種依存した、他力本願型のデザインなのかも知れない。
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by innerscape | 2006-01-11 23:51 | マゾヒスティックランドスケープ

図の職能、地の職能

a0091712_5432767.jpg今日はアーキフォーラムで千葉学氏を招いて話しを聞いた。
千葉氏は東京大学の建築学科で助教授をされていると同時にご自身で建築事務所もされており、少し前まではランドスケープアーキテクトのナンシー・フィンレイ氏と共同で事務所もされていた方である。

千葉氏は都市のスキマやヴォイドに昔から興味があるということで、作品の説明の中にも建物のヴォリューム配置でオープンスペースのヴォリュームを作っていくという手法が何度も見られる。その時の建物と屋外空間とのヴォリュームバランスは周辺の街のコンテクストから引用されることが多い。
千葉氏の作品から感じたのは屋外空間を作る際にヴォリュームが非常に重視されていて、表面のテクスチュアや装飾という部分に対してはほとんど興味がないようなレベルで捉えられていることだ。
確かに空間はほとんどヴォリュームが支配しているといってもいいのだが、そこにどのような質を与えるのかという部分に千葉氏は触れようとはしておらず、そのことが庭の手法でオープンスペースのデザインを展開する今のランドスケープアーキテクトとは一線を画するところだろう。建物という『図』のあり方が、屋外空間という『地』のあり方を決めるという、この手法には僕も非常に共感を覚える部分もある。


a0091712_5435059.jpgしかし一方で、千葉氏のそうした試みは敷地の中のオープンスペースのあり方という部分で完結しているように僕には感じた。
都市活動を読み取り、それを敷地の中へ持ち込む、あるいは都市の空間量の読み取りから敷地内の建物とオープンスペースのあり方を決めていくという志向性は、やはり都市⇒敷地へのベクトルである。
反対のベクトルつまり敷地⇒都市というように、操作した建物や敷地内のオープンスペースのあり方が都市の方向性を示唆しはじめるという内から外へのベクトルについてはやはり見ることは出来ないように思える。

そこにはやはり職能としてどの場所へ意識を向けるかということへの差異があるのだろうか、建築家の意識が都市の『地』をつくることへ向けられていると感じることが少ない。
そこに建築家の限界性があるのは、きっと操作する対象として、建築本体とその周辺の敷地内が意識されているからで、もし大きくまとまった都市スケールの開発で複数の建物とオープンスペースが操作対象として与えられたときに、千葉氏を始めこのシリーズでお呼びしている建築家の方々がどういう計画をするのか非常に興味をそそられる。
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by innerscape | 2005-10-29 05:39 | マゾヒスティックランドスケープ

アンダーコントロール×アウトオブコントロール

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今日はアーキフォーラムの日。
昨年の11月、第一回目に隈研吾氏をお呼びしてから早いものでもう8回目になる。
今回のゲストは五十嵐太郎氏。
五十嵐さんとは、以前塚本由晴さんの会の時に朝まで飲んだのと、その後、名村造船所の跡地を利用したアートイベント『名村アートミーティング』の時にもお会いしているが、こういう形でお招きして話しを伺うのは初めてである。

ここ数日は神戸のアートビレッジセンターで行われるkavcaap2005展覧会の会場デザインのため現場に詰めているので、スケジュールの合間を縫ってギリギリやってきたら五十嵐氏はもうすでに到着されていた。

五十嵐氏は最近、取材で北朝鮮へ行ってきたらしく、タイトルは『「美しい」ランドスケープ ~過防備都市・景観法・北朝鮮~』ということになっている。
このタイトルの並びで今日の狙いが読める。

五十嵐氏の話は、チェコスロバキアの作家、ミラン・クンデラの「笑いと忘却の書」からの引用から始まる。

『悪魔の笑いは物事が秩序を失い、不条理になると引き起こされ、恐るべき感染力を持つ。しかし、同時に厳しい真面目さがないことで人をほっとさせる。』
一方、天使の笑いは「この世の万事がきちんと秩序され、賢明に構想され、善良で意味に満ちていること」を喜ぶが、どこかひきつっている。』

これはコスモスとカオスと読み替えることも出来るかもしれないが、大きな秩序だった風景と、人々が勝手に利用している多様な風景の問題へと結びついていくことになる。

先日五十嵐氏が出版された過防備都市の中から、歩道橋の下とか、公園のベンチとかちょっとしたスキマのような場所にすぐに居つくホームレスを撃退しようと、妙なオブジェクトを置いたり、柵をつけたり、アタッチメントをつけたりと過剰に防衛している写真が映し出される。
五十嵐氏いわくストリートではこうした攻防戦が日夜繰り広げられていて、ほとんど戦場のようになってしまっているという。
僕らはランドスケープエクスプローラーを通じて都市の中の定義されない空間、あいまいな空間について色んな使い方を想定して、読み取りの仕方でこんな使い方があるじゃないかということを提案していたが、実際の行政が行っていることはそのまったく逆の行為で、使い方を限定する、排除するような方向を向いている。
確かにオブジェとしてみるとなかなか面白い形をしているかもしれないが、わざとアフォーダンスの幅を狭めるようなデザインがしてあるのにはむしろ滑稽ささえ覚える。
こうして美観の名の下に排除されるものに着目して話しは続く。

景観法が出来た流れからも、今日本の国は景観に異常に執着している。
まるで日本社会の活路は景観の再生にあるかのような口ぶりである。
だがこれを素直に喜んで良いのだろうか・・・?
五十嵐氏はこの状況を、「カタチを変えた公共事業ではないか」と言う。
そしてそれは国家が美を強制する構造がナショナリズムと結びついているという。

確かにそうである。かつてのナチスドイツは美について異様な関心を示していたし、それは一方である種エコロジカルな発想で国づくりを進めていたが、やはりその思想は結局は民族の純化と結びついている。
本来的に美の問題は極めて個人的な問題である。
誰かがトップダウン的に美しさを決めるところにうさんくささがある。

首都高速の地下化の話しとその問題を関係付けて五十嵐氏は話す。
日本橋の風情のある景観を首都高速が暴力的に交わることで汚しているらしい。
しかし性能上全く問題の無い首都高速を美の問題のためだけに5000億~1兆円かけて工事することは少し考えた方がいいのではないか。
ちなみに1兆円という額は愛知万博の施設費に相当するらしい。その資金があれば別の事が出来るのではないかと言う。

平壌はそういう意味では景観論者にとって見れば天国のような場所である。
完璧にそろった軸線、それを強調するように雁行して立つ建物郡。
整然と整った広場、質実剛健にかつ上品にまとめられた象徴的な建物。
もちろん、部外者が立ち入ることの出来る一部の町にのみかけられた魔法であるが、非常に端正でコントロールされた風景がそこにはある。
確かにミラン・クンデラの言うところである天使の笑いのように整然と秩序だって居るがどこかひきつっていて、すぐに飽きがきそうである。

その反対の風景を考えるときに、秩序を失って肥大化し、混沌と多様性に満ちた悪魔の風景として上げられていたのが東京である。
そうした混沌への虚しい反抗の一部が過防備都市で上げられていたような悪意に満ちたオブジェなのだ。

こうしたアウトオブコントロールな風景の魅力を考えるときに思いつくのがドン・キ●ーテをはじめとする激安ショップの店内である。
店内には山積みされた商品が所狭しと並び、見る人を飽きさせない。
実際には売れていない商品もたくさんあるのだろうが、多様なモノの集積に意味がある。
訪れる人々は買い物を目的にするばかりでなく、その選択肢の多さ自体を楽しみ、アウトオブコントロールな混沌に酔いしれるのではないかと思う。

アンダーコントロールな風景とアウトオブコントロールな風景のどちらが正しいと言うつもりは全くない。ただアウトオブコントロールな風景をコントロールして創ることへの矛盾は常に感じる。
僕達がマゾヒスティックランドスケープという言葉に込めるのはこうしたアウトオブコントロールな状況を創るのでは引き起こせないかということである。
いわば天使の手によって悪魔の笑いを生み出す手法である。
それはどことなくその間に立つ人間の風景であるような気がしている。
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by innerscape | 2005-06-25 12:13 | マゾヒスティックランドスケープ

ジェットコースターな建築

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土曜日のアーキフォーラムは遠藤秀平さんをお招きして、色々とお話を伺った。
今日はプロジェクターとパソコンのコネクトがうまくいかずに30分ほど予定より押してしまったが、無事にフォーラムの方をスタートすることができた。
少し押した時間についても特に問題の無い口調で話し始めた遠藤氏はとても誠実な方だった。
CSCDのある万博記念境界ビルの1階にIMIというメディアデザインやアートの専門学校があるのだが、遠藤氏はこの春よりそこの講師として着任されたのでこれからも度々会う機会があるかもしれない。

遠藤氏は建築の内部と外部の境界をいかに曖昧にするかというテーマで建築を造っている。
素材としてはコルゲート版を用いて、非常に造形的な作品を作っておられるので、カタチに意味があるのかと思われがちであるが、話の中で度々そのような話題になるたびに決してそうではことを強調されていた。

建築というのは元来、内と外を区切ってある状況とある状況に秩序立てをしようという行為であると遠藤氏は言う。この定義については「街並みの美学」を書いた芦原義信氏も『建築とは、通常、屋根や外壁によって切り取られた内部の空間を含む実体のことである。』と述べていることを初め、多くの人がそのような定義をしている。
遠藤氏はその定義にそぐわないような設計をしたいと言う。
インターネットや携帯電話の普及などにより、特定の建物の中に居なくても連絡が取れるようになる、つまり人の居方に内部と外部の区別がなくなりはじめているような状況にリンクする空間を作り出すことを考えていると。
そのテーマと後は様々な与条件さえ満たせれば、あとの形態についてはさほど意味はない、むしろ外部と内部の境界を融かしていく体験できる形態になればいいと言う。
形態を表現することで何かの象徴性を持たせようとしているかどうかの真意はともかく、説明を聞いていると、設計の意図はうなずけるものがある。

そうした意味から捉えると、彼の建築の作り方はジェットコースターに似ている。
ジェットコースターもその形態に意味があるわけではなく、どこで下って、どこで上り、どこで回転するのかという体験が形態に置き換えられているといえる。後は与条件としてある位置エネルギーと運動エネルギーの収支だけを合わせる設計をするとあのような不思議で美しいカタチが出来上がる。
僕はジェットコースターは体験しているから、形態を見ただけで体験が想像できるが、遠藤さんの建築は体験していないので、なかなか想像力がうまく働かないという側面はあるが、やはりカタチの美しさが目立って見える。

人が使いこなしてくれるような空間は、ひょっとするとどうとでも読み取れるような曖昧な空間ではなくて、かなりキャラクターの強い、強度を持ったカタチの方が達成しやすいのではないかという意見も出た。
そうすると遠藤さんの建築はかなりカタチに強度があって使いこなしたくなる建築であるということになる。
しかしこのあたりは難しくて、やはりカタチだけの判断ではいかず、テクスチュアや素材感、スケールなど様々な要因が合わさって使ってやろうという意図が働くような気がするし、何より使う必然性のある場所の距離感なのかどうかという問題が大きい。
少なくとも遠藤さんの作る建築を僕は使いこなしてやろうという気にはなれす、ただ美しいなぁと目を見張るばかりになるのだろう。
一度彼の設計した播磨のトイレに行って見なければいけない。
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by innerscape | 2005-05-28 21:32 | マゾヒスティックランドスケープ

マゾヒスティックな日々

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夕刻よりランドスケープエクスプローラーのミーティングに出る。
僕が参加するワークショップ、ランドスケープエクスプローラーが昨年の7月末に行ったシンポジウム『獲得される場所を目指して』からもうすぐ一年を迎える。
ランドスケープエクスプローラーはもともと2000年から継続して行われてきた造園学会主催のワークショップだったのだが、今では僕たち13人の実行委員会で進めている自立的な研究会になっている。

その背景にはランドスケープデザインつまり風景のデザインということを標榜している職能として、オープンスペースのハード設計だけ終わるのではなく、設計された場所で行われる活動を仕掛けることも重要だし、実際に人々がどんな使い方をしているのかを知ることも大事ではないかという問題意識から始まり、街のなかでずっとフィールドワークをしている。

僕たちが主に扱っているのはパブリックスペースである。
時には庭なんかもやったりするけど、基本的には誰でも居ることの出来る場所を設計しようとしている。
誰でも居る場所を設計するのは難しい。なぜなら人それぞれ好みや意見が違うので、誰にターゲットを絞って設計すればいいかが見えなくなってしまう。
誰かに焦点をあてて設計すると、他の誰かから「私たちのことも考えてください」なんて苦情が出ることもある。
それに公園や広場なんかが良い例だが、もともと使い方なんてない場所なので「こう使ってください」というように設計すると、使い方の自由を束縛することにもなる。
では「ご自由に使ってください」というような設計にするとどうなるかというと、関わるきっかけが見えなくなって誰もが自分とは無関係だと思い始める。多目的ではなく無目的な場所になることも多い。

なかなか外部空間の設計は難しいものなのである。

しかし、街の中の外部空間を見てみると人々に気持ちよさそうに使われている場所はたくさん見つけることが出来る。
その多くは何の変哲もない場所なのだが、なぜか人々の愛着を誘うようで、ガンガン使われている場所になっている。こうして人が気持ちよさそうに使っている風景を見るのは楽しいものだと思う。

僕たちはこんな風に使われている場所を指して「マゾヒスティック」だと呼んでいる。いわば場所が人によって攻められている風景である。
言い方を変えると、それは人が積極的に場所に関わろうとする風景で、そこには関わる以上、誰のせいにも出来ず自分の行動に責任を持つことが要求される。
こうした責任ある利用の風景を、僕たちは「マゾヒスティックランドスケープ」と誇らしげに呼んでみたりしている。

そうしたマゾヒスティックな風景をめぐって、街の調査をしたり、色んな人と対談したり、それを生み出すための提案をするなど取り組んできた事を本にしようと今試みている。

当初はシンポジウムを終えてから一年後に出版に漕ぎ着ければと思っていたが、なかなか出版というのは大変で、色んなやりとりや編集等の作業の地道な積み上げが必要である。
今日のミーティングでスケジュールを確認すると、入稿の8月までびっしりとやることが埋まっている。
7月頭にある二つのイベント、そして7月末にある二つの出版、8月頭に販売される健康食品のパッケージデザイン。その他にも色んな動きが僕を取り巻いている。そして当然そこには責任を持った風景が要求されるのだ。

そんなことを考えながらスケジュール表を見てると、僕はなんてマゾヒスティックな日々を送っているんだと苦笑いがふと出てしまう。
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by innerscape | 2005-05-26 21:35 | マゾヒスティックランドスケープ

貧困と豊かさの狭間の風景

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CSCDの共催プロジェクトの一つとして、7月26日から倉敷で国際フォーラム『芸術と福祉』を行う。
そのフォーラムでお話くださるパネラーの一人『わかくさ保育園』の園長小椋氏へ会いに行ってきた。

『わかくさ保育園』は日本でも有数のホームレスの集まる街、西成区の釜ヶ崎のど真ん中にある保育園である。
たどり着く道中にも、見かける公園は居住者の青テントであふれかえり、道端にはあきらかに道路交通法違反の屋台が立ち並ぶ光景があちらこちらにある。
ドヤ(安宿の意味)の看板を見てみると、一泊800円という値段が書いてあったり、店先で売っているものも通常の街で見かけるものよりも2~3割は安い価格がついている。
夕刻なので、日雇いを終えたホームレスの方々があちらこちらをウロウロしていて、店先や道端で車座になりながら安酒をひっかけていたり、ちょっとしたスペースを見つけて寝そべっていたり、大声で笑いながら屋台からはみだしていたり、自転車で空き缶を集めていたりするという凄まじい風景の中、僕達は保育園へ向かった。
こうした風景を見ていると、ソウルの鐘路のあたりや北京の裏通りの風景を思い出す。
北京やソウルでも特に低所得者層の住む住居内の快適性が低いが故に、結果として人々は皆屋外へ出てきて過ごしているので、街のあちこちに人が居る状態が出来上がっている。その人の居方とすごく似ているのである。少し違うのは居る人々が全て中年の男性という点である。北京やソウルでは女性も子供も多い。

普段は街歩きをしている中で、人々が場所を使いこなしている例があれば写真に収めて嬉々としているのだが、この場所ではそんな行為が馬鹿らしく思えるほど、これみよがしに屋外空間が使いこなされている風景がある。
人々の顔を眺めてみると、決して悲観的な様子は無いのだが、これを豊かな風景だと手放しで喜べるわけではなく、やはり経済的な事情から結果として屋外空間を使いこなさざるを得ない状況がそこでは浮き彫りにされている。
女性はとても歩けないような場所だし、衛生状態も決して良くは無い。
出来ることなら彼らも野宿ではなく屋内で過ごしたいと考えているはずである。
しかし極端な例とはいえ、ここには屋外空間を違った意味で豊かに使う可能性が提示されているような気がしながら保育園にたどり着いた。

園内は一変して、子供のオンパレードである。
まるで動物園のような奇声があちこちで聞こえてきて、そこらかしこを子供が走り回っている。
少し子供の相手をしていたのだが、さすがにエネルギーをすぐに奪われてしまった。

こんな釜ヶ崎あいりん地区に小椋園長は26年前にやってきたという。
『わかくさ保育園』は日本の福祉事業の先駆者石井十次の意思を受け継いだ大原孫三郎という当時の倉敷紡績の社長の手によって創立された社会福祉法人石井記念愛染園の施設の一つである。
保育園自体の定員は60名であるが、事情により住民票がなく手続きの出来ない家庭やオーバーステイした外国人、サラ金に追われているような家庭に居る児童達を受け入れる青空保育の人数も含めると90名近くの子供達を抱えていることになる。

ここでの試みで素晴らしいのは、ただ園内にいて子供が来るのを待っているのではなく、職員自らが街を巡回して、ドヤを尋ね、また木賃アパートを訪ねて子供を捜すことをしている点である。
子供の中には、親のネグレクトで2年以上も部屋から出たことが無いため、肌は真っ白で発育が遅れているような子も居る。
そうした子を『わかくさ保育園』では保育料フリーで入園させて、社会と接点を持たせるというセツルメント活動をずっと続けている。
保育は子供の面倒だけを見ていれば済む問題ではなく、親の問題や、地域の問題にまでつながる。
地域社会全体で子供を守っていく仕組みづくりを小椋園長は目指したいと言う。
あいりん子供連絡会というネットワークを母親を中心に広く行政や病院関係者なども含めて運営していて、情報誌を発行していたり、ホームページを運営したりと近年では特に活性化してきているようである。

この園内以外に子供達の居場所はあるのか聞いてみた。
街には生活保護を受けている高齢者達がたくさん居る。そうした高齢者は自ら何か生きがいを見つけたいとボランティア活動の一環で保育園の掃除や、紙芝居などを子供に見せに来たりしている。
そうした高齢者達のアパートや彼らが連れて行ってくれる公園が居場所になることもあるという。

もともとそうした高齢者もホームレスと同じ状態であった。多くの方が住んでいる場所はドヤである。
ドヤは宿泊施設のため、そこの住民は居住者としてはみなされない。
居住者でなければ生活保護を受けることが出来ず、いつまでも明日の食料の心配をしなくてはいけないのである。
そんな中、ドヤの経営者の中で心ある人がドヤをアパートに変えて申請することで、そこに住む人々は生活保護を受けれるように便宜を図ったという。
明日の食べ物に困らなくなった高齢者達は何か生きがいや社会に貢献できることが出来ればとわかくさ保育園を訪ねたという経緯である。

そうした人々に囲まれて育った子供達が大きくなってこの町に愛着を持って居つくのかどうかを聞いてみた。
やはり難しいらしい。
少し大きくなって、稼げるようになったり、生活が楽になったりすればやはり違う土地へ引越ししていくため街には常に貧困層しか残らない。
あいりん子供連絡会などの活動を通じて少しづつ西成のイメージは住む人々の中でも変わりつつあるようだが、やはり地域ぐるみで子供を育てて、そうした子供が街に愛着が持てるようになるには長い時間と非常に厳しい社会問題が横たわっている。

公園で高齢者と一緒になって芋を育ててそれの芋掘りを行うなどの活動もしていたという話が出たので、行政からの規制や指導などはなかったかと聞いてみた。
そこについては行政も問題なく認めてくれたという。
あちらこちらに道路交通法違反が見られ、公園には24時間居住者が居る中で、子供達と高齢者が公園に畑を作って楽しむことを咎めるのは不毛なのであろう。

こうした地域が抱える問題は、僕達が普段住んでいる街とは違ったレベル、基本的な居住性含めて解決すべき問題がある。
そしてそうした問題がとても大きいが故に、パブリックスペースのプライベート的な獲得に対して規制が緩くなっているのも事実である。
しかしホームレスが街にあふれかえっている今の現状を決して肯定するわけではないが、そうした風景の中に地域のポテンシャルと屋外が豊かに使われている事例や可能性が見え隠れしている事に目をつぶってはいけないと複雑な思いで感じていた。
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by innerscape | 2005-05-09 21:53 | マゾヒスティックランドスケープ

私“flw moon”が日々の生活の中で感じた事を見つめ直し記録します。
心のフィルターを通して見た日々のシーンをひとつづつ電脳に記憶させることで、果たしてどんな風景が見えてくるだろうか・・・?

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