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私的風景の電脳記録
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カテゴリ:自然について( 4 )

奇跡を見た

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誕生日のお祝いメッセージがこんなにたくさんの方々から寄せられることに本当に驚きとともに感謝が尽きない。僕は自分の誕生日をこんなに多くの方々に祝ってもらったことはこれまで無かったのでふと目頭が熱くなる。見てもらうというだけでも多くの方々に支えて頂いているんだと実感する。精進せねば。

それに加えて、今日は神様からの最高のプレゼントをいただいた。快晴な天気と穏やかな風が作り出した奇跡的な風景は自分の作品の最高傑作というだけでなく、これまで僕が見た風景の中で最も美しいものだった。惜しむらくは記録がなされていないことだが、心の中に焼き付け生涯忘れることはないだろう。

ランドスケープアートは僕が作り上げるものではない。僕はきっかけを与えるだけに過ぎず、後は自然がそれを演じるのだ。僕の意図は半分しか介入出来ず、神様が奇跡を起こした時にその美しさは永遠に心に焼き付けられるものとなる。作家の意図などその前では無意味で、観客と一緒に奇跡を祈るだけだ。

だから毎日違う風景がそこに立ち現れる。昨日見た風景と明日見る風景は違うのだ。それはエンターテインメントと呼ぶような意図を持ったものではなく誰もコントロールし得ないからこそ奇跡的な風景であり、だからこそ一期一会のその出会いが貴重なのだ。今日は最高の日だった。明日はどうなるだろうか。

これは演出の意図がどうとか言う話ではない。雨が降るか風が吹くか光がさすかは我々人の手ではコントロール出来ないからだ。そのことを分かった上で何かを信じたり、期待を込めて眺めたりすることは、誰かに何か美しいものを与えられることよりも遥かに重要なことであるように僕には思える。

おそらく金さえかければ楽しませることは出来ると思う。しかし確実に成功することが分かっているような作品が必ずしも深い感動につながるとは限らないと思っている。誰も結果が分からず、誰もが成功を願う状況があるからこそ、それが成就出来た時に何か奇跡的な力や祈りの力を感じることが出来るのだ。

だから明日は成功しないかもしれない。そして明後日や明々後日も成功しないかもしれない。そのまま成功を見ずに終えてしまうかもしれない。だがそれがどんなに無駄に終えることに見えようとも。奇跡を望むまなざしを捨ててはならない。その姿勢はまるで闘病や生きていることと同じではないのか。

奇跡を目にする人間はそれほど多くはない。しかし奇跡は目にした人の言葉を通じて目にしていない人の心に届けられる。この世のどこかに奇跡があると信じる心こそが人が生きる上で必要なことであり、それは誰かに仕組まれ、演出された風景とは似て非なるものだと感じる。

奇しくも今日自分の誕生日に僕は奇跡を目にした。もちろん自分が仕組んだランドスケープアートだが、それは僕の意図を越えた奇跡的な風景を生んだ。おそらく僕は生涯この風景を忘れることはないだろう。願わくば僕と一緒にこの風景を見た多くの人々が、同じように心に奇跡として焼き付けれるように。
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by innerscape | 2012-02-20 00:58 | 自然について

科学についてのつぶやき

「科学的である」ということはどういうことかを考えている。一つには印象や感覚ではなく、他者によって再現可能な方法によって結果が示されているということではないか。職人的な芸術はどちらかというと他者には簡単に再現不可能な方法と結果によって生まれてくることが多い。

他者にも再現可能ということが重要であり、科学とは一人ではなし得るものではない。他者とコミュニケーションの中で検証され磨き上げられ、より確からしいことを求めるのが科学的な態度であり、そのために共有素材として数値や実験というものがあるのだと思う。

この大勢で検証するということが科学を科学足らしめていることである。科学が指し示すものだけが真実ではないという科学批判を聞くことがあるが、それはその通りだと思うし、おそらく科学者も自分たちが真実を口にしているのではないという認識なのではないか。より「確からしい」と言えるだけなのだ。

だから科学が示した結果が後々に正しくなかったということも当然起こってくる。それはある意味では仕方の無いことであり、科学者がそのことを一番よく理解しているから厳密な方法で進めようと努力するのだ。それをすっ飛ばして結果だけ早く教えろと科学者に迫るのは少し違うようにも思える。

科学の恩恵にあずかりながら暮らす我々は、科学者でなくても少なからず科学について知るべきだろうし、それを複雑すぎて無理と放棄するのであれば、科学者を批判してはならないだろう。その研究や科学が有用かどうかということを早急に求める議論も同じだろう。時間が経たねば分からないこともある。

科学の暴走などという批判もあるのだが、どちらこというと科学よりも経済が暴走していることの方が問題としては大きく、それが科学の暴走とすり替えられている可能性が高い。今のところ科学以上に世の現象を正確に把握出来る方法などないし、我々が社会的に構成して来た重要なルールの一つだ。

つまり文明の恩恵に預かっている以上、望まなかったとしても科学として構成されたものを我々全員は認めているのであり、たくさんの人間によってより確からしさを検証し追求して行く科学的態度が必要なのであると思う。しかし、それら全部を踏まえた上であえて思うのは一人の人間の直感が持つ力である。
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by innerscape | 2012-02-15 15:20 | 自然について

いのちとかたち

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自分では節操もなく様々な表現に首を突っ込むが、一貫して“いのち”に関心があるように思える。
アートをするのもいのちが何かを知りたいと思うからだ。
役者をするのも、人のいのちのあり方を内側から知りたいという想いが強いからだ。
ストーリーを書いた防災絵本のタイトルも「いのちをまもる知恵」だ。
いのちそのものにも、いのちの集合した自然や社会にも僕の興味は尽きない。


人は「いのち」を見分けられるのか。
そんな問いが自分の中で立ったことがある。

生命科学の出自でランドスケープデザインをしていたこともあり、植物を含めたいのちに触れることが多かったせいもあるだろう。

本物の花と造花には何の違いがあるのかと疑問に思ったことが、先日行われた森のコモンズというイベントで「ニテヒナルthe fourth nature」という作品を作るきっかけの一つになった。

もし造花で人間の心が本当に満たされるのであれば、それで十分なのだと本気で思う。
水やりなどの余計なメンテナンスは必要ないし、長持ちもする。
いつも一番奇麗な状態で迎えてくれる造花の方がよほど合理的だと思う。

しかし、僕は人が植物に求めるのはそこではないのだと思う。
つまり“かたち”ではないということだ。
造花は“かたち”しかない。
当たり前のことだがそこに“いのち”はないのだ。
どれほど“かたち”が精巧に作られていてもそれは似て非なるものなのだ。

人はいのちを求めていて、いのちにまみれる中でしか生きる事は出来ない。
毎日いのちを口にして自分のいのちを長らえ、同じいのちである人間や動物に触れる事で自分の心を保っている。

だから人が植物に求めるものは“かたち”ではなく“いのち”なのだと思う。
植物のかたちを作ることは、いのちが最もスパークしている瞬間をとどめておきたいという自然への渇望の表れだと思う。
そんな自然への渇望から生まれたいのちを模したかたちを僕は第4の自然と呼ぶ事にした。

なぜ第4の自然かというと、第1から第3までは既に語られているからだ。

第1の自然は人間が手を付けずとも勝手に存在している原生自然。つまり字のごとく自ら然るべきものだ。
第2の自然は人間が飼いならした自然。つまり農業に見られるように人間の目的に応じて選択され栽培飼育された自然。コントロールされる自然の事で西洋で生まれた科学がそれを目的にして今の近代文明が出来ていると言っても良い。
第3の自然は人間が文明の中で作った環境基盤に侵入してくる自然。アスファルトから生える雑草や廃墟を蝕む植物などもそうかも知れない。建築物や土木構造物などの人工物が生み出す環境にニッチ(生態的地位)を見出し、そこへ侵入してくる自然である(宮城俊作氏の論考に詳しく書かれている)。

そのどれでもない自然の事をとりあえず僕は第4の自然と呼んでいる。
その内の一つが、造花のように自然を模した自然ではないようなもの。
それは第1から第3で述べられているような自然とは言えないのかもしれない。
でも人間そのものが自然であり、その営為は全て自然だと言うのならば、自然というものを意識した人間の表現行為そのものを自然という事も出来る。
展望台の上から街を見下ろした時に、その街のありように自然を感じる。
いのちの表現がそこにあるからだ。
工場の配管を眺める時にもそこにエコロジカルな表現を感じるのも同じだ。

また自然のウィークポイントをテクノロジーで補う人間の営為も第4の自然に今のところカウントしている。
例えば義手や義足のように身体という自然の機能をサポートする技術。
また、近年のエコロジー技術や埋め立てのような土木工事の一部には自然をテクノロジーでうまく促すサイボーグ的なものを感じる。
第2の自然と似ているのだが、少し違うように僕は捉えている。

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少し話がそれたが、そういう第4の“いのち”である造花やフェイクプランツを実際の自然の中に挿入してみたのが「ニテヒナル the fourth nature」という作品だ。

そして森のコモンズの来場者のレスポンスから結果僕が感じたのは、人はやはりいのちを見分けることが出来るという感覚だ。
この森のコモンズの時にはそれ以外にいくつかの目的があったのだが、ここではそれには触れない。
ただ、“いのち”と“かたち”の違いについて人間はまだ見分ける能力を失っていない事に胸を撫で下ろしたい。
もしいのちを見分けることが出来なくなれば、人間は危ないと思う。
そして僕にはその日がすぐ目の前に来ているように思えて仕方ないのだ。


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撮影:kutowns studio
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by innerscape | 2008-07-10 01:54 | 自然について

月渡る夜

a0091712_094421.jpg姉が住む嵐山には渡月橋という橋がある。
全長250mの渡月橋は嵐山の観光名所のひとつで、桂川という川にかかっている。
いや、正確に言うと渡月橋を挟んで下流を桂川、上流を保津川あるいは大堰川というらしい。あの有名な保津川下りはこの渡月橋のところが終着点だ。
今夜はその渡月橋のそばで屋形船に乗り込み鵜飼を見る。
もちろん初めての体験である。

僕はこの渡月橋という名前が気に入っている。
なんとも風流な名前ではないかと思う。
渡月橋は、平安初期の承和3年(836)、空海の弟子の道昌僧正が大堰川を修築したおりに、現在の渡月橋より200mほど上流に橋を架けたのが最初であるといわれている。
その頃はまだ渡月橋という名前ではなく、葛野橋、あるいは法輪寺橋とも呼ばれていたらしい。
渡月橋と呼ばれたのは、今から700年ほど前に亀山上皇が雲ひとつ無い夜空を眺めていると、月がまるで橋を渡るように動いている様子を見て言った「くまなき月の渡るに似る」という言葉から、「渡月橋」と呼ばれるようになったらしい。


a0091712_010326.jpg昨晩が下弦の月で、今夜は月齢ほぼ23日。
ゆっくりと水面を進む船を包むように、下弦の月は暗い水面に優しい光を落としている。
僕達の乗り込む船は船頭の操縦で鵜がつながれている船へ近づいていく。
腰蓑と烏帽子を身につけた鵜飼の船はかがり火が炊かれていて、その側で休んでいる鵜たちを照らしている。
しばらくして鵜飼たちが棒で船の腹を叩き始めた。
そのリズムに合わせて鵜たちは水面に潜って魚を捕まえてくる。
次々に潜る鵜の姿はかがり火に照らされていて、シルエットが動く様子は影絵のように見える。
こうして千年前から綿々と続けられてきた鵜飼の姿と千年前と変わらずに僕達を包み込む月の夜は、かつてこの風景を愛した貴族達と会話をしているような気持ちにさせてくれる。
千年後にこの風景をつなげていけるのだろうかと、渡る月が問いかけてくる。
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by innerscape | 2005-07-29 00:08 | 自然について

私“flw moon”が日々の生活の中で感じた事を見つめ直し記録します。
心のフィルターを通して見た日々のシーンをひとつづつ電脳に記憶させることで、果たしてどんな風景が見えてくるだろうか・・・?

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