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私的風景の電脳記録
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まなざしの曇り

目的のために手段を選ばないという考え方にある種の正しさや諦めを帯びていたのは20世紀の考え方である。
世の陰謀や洗脳やその他人間の悪知恵のほとんどが暴かれ共有されつつある21世紀においては表面上の目的だけ達成出来ればそれで良しという態度はもう通用しないと思う。
目的のために人を不当に傷つけたり、裏で調整と称した政治を働いて事実をねじ曲げるのであれば、そもそもその目的が汚れていたりすり替えられていることを疑った方がいいかもしれない。
結局は己が他人よりも有利な立場に立ちたい、利を得たい、評価されたいという欲望に囚われるあまり、心を磨いたり己が成長するチャンスを自ら絶っていることに気づけていないからだ。
我々は簡単に何かに囚われる。お金に囚われる、欲望に囚われる。概念やイメージや思想や理想に囚われる。そうやって色んなもので自分を不自由にしていくことで心は気づかない間に曇っていくのだ。
何かの出来事があった時にそれに対する心の有り様に丁寧に向き合っていく結果が方向性を決めて行くというのが正しい順序だと思う。先に何か目的を立ててそれを達成するために心の有り様や出来事や事実を合わせに行くというのは、原因と結果がまるで反転してしまっている。
何かの「結果」というのは人間にとって強烈な誘惑である。目に見えて分かりやすく、誰でも評価や共有しやすいからだ。しかし、その結果ばかりに目を奪われると心が汚れていく。心が汚れていくと、その結果を生み出す元となった「原因」に目がいかなくなる。
逆に結果を生み出すために原因を捻じ曲げようとするように頭が働くのだ。
ずっとそういう頭の働かせ方を繰り返していると、心が感じている違和感が封殺されてしまい、遂に辻褄を合わせるために心が捻じ曲げられる。
僕はそれを「まなざしの曇り」と呼んでいる。「呪い」言ってもいいかもしれない。
一度呪いにかかると解くのが大変だ。長い間まなざしが曇った状態が続くと、曇った状態が正常だと思い込んでしまう。曇っていない周りが異常だと思い込んでしまうのだ。そうなってしまうと簡単には救われない。そしていつ自分がそういう呪いにかかるのか分からないということは意識しておかねばならない。だから曇らないように磨き続ける必要があると思うのだ。
政治の世界にそういう呪われた人が多いというのは、目的ありきの世界だからだ。勝ち負けが絡むことは得てして呪いが強くなる。
もともと「政治」という言葉は"まつりごとをおさめる"という意味だったのかもしれないが、僕らが市井で「あの人は政治を働く」という時に使う場合、己の利や目的のために人や結果を操作するという意味で使う。
しかし情報技術の進歩で人間の精神の光と闇の共有の速度が一気に加速したこの21世紀には、心の有り様が問われる世になるような気がしている。
物事の原因にちゃんと目を向けて、それに向き合って行く中で自然と結果が生まれてくる。結果だけ切り出してみて評価する態度は非常に浅はかで、それが生まれてきた原因や生み出した人やその周りの人々の心のプロセスと共に評価することが多分重要になってくる。
そうでないときっとそれは砂上の楼閣であり、すぐに倒れてしまう結果になるだろう。成熟化へ向かう社会の中でそうした子供だましはもう通用しない。
ブランディングやプロデュースという言葉ですぐに結果が生産されがちな社会だ。その結果をディスプレイするために、事実や原因まで捏造されてしまっていないか。その心は浅ましい損得勘定や自意識の充足に満たされたものではないのか。これからの時代、表面化してくる「結果」に対して我々の心の目が試される時代になるのかもしれない。

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by innerscape | 2014-02-10 08:00 | 未来の自分との対話

2013年のレビューと2014年の展望

2013年は僕にとって試練の年だった。
落ち着いた時間が取れなかったのだが、ログとして2013年に印象深かったいくつかのことを振り返って整理してみる。 

1月 
アムステルダムからパフォーマーMelih Gençboyaciが♭へレジデンスに来る

2月 
岩手の神楽と聖地のフィールドワーク

3月 
関西テレビ「スーパーニュースアンカー」で活動が紹介される
スタンフォード大学で行われたAAAI(国際人工知能学会)で風景異化論を研究発表
アリゾナの聖地のフィールドワーク 

4月 
大阪府立大学社会人大学院の開校
モエレ沼公園のフィールドワーク
♭にて「シネパラードvol.2」開催

5月
映画WS「キネミカルヴァーチューズ」
ソウルの国際会議「芸術と教育」に登壇
ジャパンデザインプロデューサーズユニオンにて基調講演
「風景異化論」を造園学会にて発表
花火の演出打ち合わせ

6月
「見立て研究」を人工知能学会にて発表
弟の花村勝寛がトロントにて逝去、死因の調査へ渡航
クリエイティブツーリズムの代表の交代劇
社会人大学院にて「地域デザイン論」の開講
♭にて伊藤俊治先生還暦パーティ

7月
母がニューヨークへ静養に行く
大阪ディスプレイデザイン協会にて講演
アイヌの聖地のフィールドワーク

8月
DSA名古屋支部にて講演
活版印刷工場を舞台にした映画の稽古
大阪府立大学学長懸賞受賞
♭にて「映画侠区」開催
医療福祉の展示会にて講演

9月
韓国のアーティストLee Daeilが♭へレジデンス
浦山監督の「株式会社恋文印刷所」の撮影
社会人大学院「都市文化デザイン演習」開講
いじめ問題について友人から相談を受ける
実家の荷物整理

10月
都市文化デザイン演習にて「まなざしのデザインガイドブック」の制作指導
堺市シティプロモーション事業アドバイザー就任
日本空間デザイン大賞贈賞式

11月
奈良リバースツーリズムでナビゲーター役
Springer社発刊のジャーナルへの英語論文投稿
都市文化デザイン演習「まなざしのデザインガイドブック」の成果報告会
バングラデシュFloating Peersへ参加、ランドアート「ベンガルの赤い蛇」を制作
大阪府農林環境水産研究所と大阪府立大学共同セミナーにて基調講演

12月
大阪府下大規模吹き抜け病院のフィールドワーク
建築と社会へ論考寄稿
社会人大学院修士論文の指導
東京芸大先端芸術研究科で講演
東京大学i.schoolで講演
東京都立現代美術館FCCにて講演
greenz取材
♭望年会

2013年も駆け抜けてきたが、最も大きな出来事は弟が亡くなったことだ。
僕の人生の価値観をガラリと変えてしまう出来事だったし、今でもまだ心も身体も癒えていない。
個人的な出来事や経験は必ず自分の社会的な活動へ影響を与える。
弟の死については一度8月に作品として整理をつけることで、自分の中では一度忘れることにしている。向き合うには余りにも大きな出来事だった。しかし記憶が風化することも避けねばならなかったので、耐えられなかった時間だったが作品としてとどめておくしか無かった。
弟の死を巡って様々な人間模様も見れた。
力強く支えてくれる人、優しく見守ってくれる人、哀しみを共有してくれる人もいた。こうした人々が居たからこそ自分は正気を保っていられる。
そして反対に、自分の哀しみにしか心を傾けない人、命の価値ではなく具体的な利益に目が向く人、哀しみに付け入り己の利を得ようとする人もいた。
弟の死の哀しみだけでも辛かったが、仕事においてもその哀しみの隙に乗じる形で有利に事を運ぼうとする心なき人々の振る舞いに対して絶望も感じた。密室で行われる表面化しない透き通った悪の形に恐れ戦いたが、しかし今ではその経験も全て自分の成長や学びのためにあったのだと思えるように、少しずつ立ち直り始めている。

アートの作品としては前半期最も大きかったのは「モエレサマーフェスティバル2013」の演出物語花火「モエレ星の伝説」で、1万人で行うインスタレーションをしたこと。
札幌と上海のプロデューサーと毎日のように対話しながら最後の最後までどうなるか分からなかった作品。
全力を尽くしたし、1万個の光が灯った時に上がった歓声は今でも忘れられない。
ここでは祭りの意味、地球規模のスケールへ思いを馳せる事の意味、現象デザインの可能性など多くを学んだ。
目下今年の前半はこの作品のアーカイブに力を入れねば。
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後半期に最も印象深かったのは、バングラデシュでの取り組みだ。
当初は何もアイデア無しで現地入りしたが、そこで洪水にあえぐ貧困コミュニティを見て芸術に何が出来るのかを自分なりに考えた。
4日で調査をし、3日でプランを立て、4日で工事をして最終的には村を守る防波堤を巨大な蛇のランドアートとして再生させる作品としてそれを投げかけたつもりだ。そしてこのプロジェクトはまだ続いている。
命をまもるための芸術の在り方とは何か、1000年続く聖地のランドスケープデザインはいかなるプロセスで生まれるのか、イスラムとヒンズーという宗教対立は乗り越えられるのか、そして最貧国に見つけた豊かさとは何か。
ここでも多くを学んだ。
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今年一年は、この半年通常ではない精神状態で走って来たために傷んでしまった身体をちゃんと整えながら、2013年までにしてきた自分の取り組みをちゃんと確認して意味付けをして発信して社会化するということに力を注ぎたい。

♭という場所についてはメンバーの中でも何人かは熟して来た感があるので、自分の手を離しつつ上手に見守りたいと考えている。しかし6月以降、民主主義という考え方に少し失望を覚えていることもあり、ここではもう少し掘り下げて「共異体」という人の集まり方を実験してみたい。

振り返ってみると活動の多様性は相変わらずで、人からは何をやっているのか分かりにくいといつも言われるが、自分としては一つのことをしているつもりだし、分かりやすさを求めるがあまりに豊かな意味がこぼれ落ちてしまうことの方が僕としては残念だと思っている。

メディアへは失望していたが、2013年にはいくつかの良き出会いがあってマスメディアも含めて少しだけメディアの力を見直している。
良き活動、良き思想を良き形で伝えてくれるメディアとの邂逅は喜ばしいことだが、それを受け取る人々が良き受信へと至るためには何かまだ必要な気がする。
そのあたりが今年の哲学のスタートかと。

今年からのテーマは「生命芸術」だと考えている。
4月までに、病院という命を救う場での大規模なインスタレーション、ベンガル湾で命を守るためのランドアート、命を救う男の役を頂いた映画の撮影という大きな活動が3つが動く。
弟の死をもって考えた命を失うことの意味も映画作品としていつかちゃんと社会化させる。
研究でも実践でも生命と芸術をテーマにし、またそれを一般社団法人を通じて事業化していくことも考えねばならない。
それらも含めてちゃんと言葉や文字としてもそして、言葉以外の媒体でも発信していくことを今年はちゃんと考えたい。

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by innerscape | 2014-01-07 16:23 | 未来の自分との対話

イノベーションについてのつぶやき

誰かに与えられた社会問題のために何かをするというよりも、顔の見える誰かと自分とが共により良く生きるためには社会問題へ向き合わねばならないというモチベーションの方が僕にとっては嘘が無くリアルだ。その顔の見える誰かの幅が広がるほど問題も大きくはなっていくのだが抽象的な出発点ではない。

僕一人が社会に出来ることなどそれほど大きくはないだろうし、大きい方が良いということもないだろう。社会に何か足りていなと自分が感じることがあればそういう問いを立てれば良いし、誰かが既にその問いを立て取り組んでいるならば、それを応援すればいい。皆で補いあって生きればいいのだろう。

自分が何かを成し遂げたという感覚を得たいが故に、何かの大義を借りてくるのは出発点が逆なのだと思う。それはただ自分が何者であるのかという肯定感を得たいだけであり、ひとつ間違えればとんでもない罪につながる。問いがそこにないのに答えだけを出したがるのは愚かな行為ではないかと感じる。

だから問いを立てることがとても重要なのだと思う。問いを立てるということは評価が定められた物事を疑うということであり、評価が定まっていないものをちゃんと見つめるということだ。これは時としてビジネスと非常に相性が悪いことがある。ビジネスになるのは評価が一般に浸透せねばならないからだ。

本来的なビジネスは人が必要としているものを提供するから成立するのではあるが、どうもマッチポンプ的なビジネスや我田引水的なビジネスが多いように感じてしまうので、僕自身はビジネスマンとは相性が悪いと思っている。まともなビジネスはちゃんと価値あるものを正当に評価することだろう。

イノベーションという言葉が良いのかどうかは分からないが、僕が考える変革とは「誰もが望むことを、誰も考えなかった方法で、誰でもが享受出来るようなった状態」なのだと思う。しかし今は誰も望まないことを、誰も考えないようにさせて、誰でもが享受出来るわけではないことがビジネスになっている。
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by innerscape | 2012-01-31 15:27 | 未来の自分との対話

表現の最中に考えている

自分の風景異化の取り組みの中で重要なテーマの一つに「奇跡」というのがある。人はいかなる風景に奇跡的なものを感じ、神聖で厳かなものを感じるのかということは生涯かけて追求すべきテーマのように思える。まさにこのインスタレーションの最中でもそれは考え続けているため、毎日進化している。

例えどれほど醜悪な環境であったとしても、そこに奇跡を見出せる瞬間があるのではないかと考えていて、それはいかなる条件が整えば出現するのかということが風景異化の根本的なテーマの一つとして据えられている。ほとんど宗教に近い問いであり、宗教や信仰の中にそのヒントがあるのだろうと感じる。

今の世は我々が信じるに足るものを見失っている。かつてはそれが幻想であったとしても信じていたことがあったはずだが、近代がそれをそっくりと上書き今も進行しているのではないかと僕は見ている。異化とは単なる相対化であっては意味が無く、より我々が幸せに生きるための補助線でなければならない。

いままさに取り組んでいる作品を通じて、毎日学びや気づきがあり、考えが深まっているのが分かる。役者にとって舞台の上やカメラの前が最大の学びのチャンスであると同様に、アーティストにとって制作現場というのが最良の学びの場だ。しかしそういうチャンスはそう何度もやってこない。

良い評価にも悪い評価にも流されず、自分が感じている違和感を丁寧に見つめながら、深く思考していくことを怠れば、何も学ぶことはできない。特に僕のように自然現象を相手に格闘する表現を行うということはより冷静に状況を見つめねばならないのだ。

今日はセッティングが不完全だったに関わらず、確実にその場所に神聖さが宿っている手応えがあった。今日見た人は昨日見た人とは全く違う風景を見ていただろう。おそらく昨日のアンケートと本日のアンケートは確実に違うものになっているはずだ。舞台のように同じ風景は二度と見ることが出来ない。

表現者の心のコンディションが、ここまで風景に影響するのかと自分でも驚いた。迷いがあったり、心持ちがひけていたりすると、それは表現に素直に反映される。いかに自分を信じるか、そして信じられるまで沈思黙考するかがとても重要なことだ。それはとてもとても孤独な時間を過ごさねばならない。

今日の成功が、明日の保証にはならない。明日はまた違う風景なのだから。だから一期一会を大切にしたい。それは人も同じだ。この人とは二度と何か一緒に出来ないかもしれないと思うからこそ、大事に出来るのだ。

このあたりが自分のルーツの一つにもなっている農学の感性の一つなのだろう。かっちりと何かを作るという工学の感性と、偶然性や一期一会を最初から許容する農学の感性とではおのずと表現方法も変わってくる。風を読み、水を操るというのは「形」(かたち)ではなく「象」(かたち)への感性が重要だ。

これについては2年ほど前に現象デザイン研究会で取り組んでいたテーマ。複雑系にそのあたりのヒントがあると考え、菊地誠さんなどと対談させてもらったが、中途半端に終わってしまった。またいつか再開してやろうというネタだが、風景異化とだんだん融合してきた手応えが自分の中にある。

昨日と明日の間に生きている我々は、ただ生きるために生きているのであり、生きるという意味においては目的などないのだ。目的型思考の20世紀型の時代を乗り越えて、我々が共に生きる方法を模索するために何が必要なのかを表現においても言説においても考え続けているのだがなかなか答えは見えない。
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by innerscape | 2012-01-26 01:07 | 未来の自分との対話

勝利と正しさについて

自分が正しいという所から出発するスタンスは一定の人に見られる。世代だけでは無いと思うが、世代や年齢というファクターも一つはあるだろう。自分がそうなっていないか常にチェックする姿勢を持たねばと思う。

思い込まないと何も出来ないのも事実だが、思い込みが激しいととんでもない間違いを起こす可能性がある。思い込みが激しい状態が多いと、そのことに気づけない上に相手を糾弾したり洗脳したりするのでこれが厄介だ。特に権力や権威を持ってしまうと気づけないことが多くなる。

なまじ弁が立つ人だと相手を論破しようとする戦闘モードに入るので、余計に相手から反発を喰らうが、大体そういう人はそれでさらに燃えるので、話す気が失せる。大事なのは相手と戦闘する議論じゃなくて、共有へ向かう対話だよ。

戦う人は時にカッコ良く見える時があるので、みんな戦う姿を見たがるけど、本当に何かと戦うことと、身のこなしや言動が戦っている風に見えることは似て非なることなのだと思う。真に戦いたければ騒がずとも静かに着実に戦えば良い。

議論戦闘力の高さで人望が得られるというのはもはや大きな間違いだと思う。
言っていることが正しくても言い方によっては正しいと見なされなくなる。内容と形式の両方が適切じゃないと伝わらない。過激な言いまわしで伝わるならばいいのだが、どうも必ずしもそうでは無い場合があるのだと思うのだが。


ディベートで理解しようとして相手と向き合うのと、勝ちに行こうとして相手と向き合うのとでは、全ての振る舞いのマインドセットが違う。後者の場合は喧嘩だし、勝つことが目的だからそのための印象操作も戦略のうちと言うことか。勝った方が正論を言っているようにも見えてしまうのが恐ろしい所だ。

つまり口喧嘩の強い奴の言っていることが正しいということになってしまう。腕っぷしの強い奴が正しく、戦争で勝った方が正しいという理屈。だとすれば正しさを得るためには勝たねばならないということがまかり通るが、それでいいのだろうか。正しいことを学ぶことは勝ち方を学ぶことになってしまう。

「正しい者が勝つ」ということと、「勝った者が正しい」というのは似て非なることだと思うがややもすれば混同しがちだ。何が正しいかということが立場によってあまりにも異なり、共有出来ていない時代だからこそ「勝ったものが正しい」とされる危険性があるのだと思うが、ちゃんと見れているだろうか。

言っていることが仮に正しくても、言い方が間違っていれば内容まで間違っているように捉えられる。まさに表現方法と内容の混同。同じく自信満々に言うと正しいことを言っているように聞こえる。どちらも発言の印象が内容判断に重要な要因になっているということ。そこを見抜かねば。
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by innerscape | 2012-01-18 22:09 | 未来の自分との対話

哀しみについて

誰も信じないから誰からも信じられないのだ。
誰かを信じて裏切られれば、怒りを持って返すのではなく、哀しみに変えればいい。
哀しみは静かな力になり、いつか相手に届くだろう。
それが届いたのなら裏切った者の方が本当の哀しみに囚われるのだと思う。
その時に優しく微笑んであげれるような器を持ちたい。
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by innerscape | 2012-01-07 22:23 | 未来の自分との対話

表現と名実と

表現とは最終的にその人がどういう生き方をしているかという事に尽きるだろう。僕が工場に住みながら色んな人と場と時間をシェアし、助けてもらいながら知恵や価値を交換するのは生き方であり僕なりの表現なのだ。小手先の表現技術の問題ではない。生とどう向き合うかというアティチュードの問題だ。

事業化してもっと効率良く儲ける事も出来るのにと言う人も居る。美味しい目が見れるかもと期待をかけてくっついてきたが、いつまでたっても事業化しない事に愛想を尽かして離れた奴も居る。何が魅力の本質なのか見抜けず事業化しようとしても底は見えている。

生き方だ、表現だと何事も口で言うのは簡単だ。しかし本当にリスクを背負い、粘り強く耐えながらそれを実践していく事は困難だ。実践し行動し創造し続ける者の言葉にはリアリティが宿る。口先で理念ばかり唱えられがちな社会だからこそ体現することの重要性を噛み締める。

今のマスメディアは名実の価値を逆転させているように思える。実を行う者に光を当てることで名を得ていくプロセスが本当の道筋だ。しかし名を与える事でその者に実があるかのような錯覚を起こさせているのが現状ではないか。名には流行りや賞味期限があるが、実には地道な生き方が伴わねばならない。

プロデュースという言葉をはき違えてはいけない。 実に名を伴うようにするのがプロデュースであって、実がないものに名だけ与えることではないのだ。しかし、人は簡単に名があるものには実があると思ってしまう。ブランディングの逆転現象が起こっている。

今はこうして耐え忍びながら実を積み重ねていく。名は僕が作るものでは無いし、周りが価値を認めていないのであれば名など出来るはずは無い。今の自分に名が伴っていないのは、実が足りないか、価値を認める人が少ないということだと受け止めている。しかし、名の有無とはべつに実とは生き方だ。

名は業界というコミュニティから始まるのだが、一定間隔で旅をする自分はコミュニティの中で名が上がる事が無い。自分が実を行っていないとは思わないが、どの業界においても、誰も僕のしていることを知らないので評価のしようがないのは仕方ないだろう。

ただ名を伴なっていない今、自分の実を評価してくれている人間は貴重だ。名が伴なってから寄って来る人間には、実を見ている者も居るが、名だけを見ている者がほとんどだと思うからだ。そういう者は名の賞味期限が切れればすぐに離れて行く。「杜子春」の中にそういう者がたくさん描かれている。

自分だけの利益のために人を利用する者を悪人というのだ。 例えそのつもりはなくとも結果としてそうなってしまったとしてもそれは同じ事である。それを挽回するためには今度は相手の利益だけを考えてするぐらいの事をせねばならない。しかしそんな動機で動ける人間はなかなか居ないことを嘆く。
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by innerscape | 2011-08-15 10:36 | 未来の自分との対話

インスタントな覚悟など要らない

本気とか覚悟とか、本当の感情とか。
関係性が出来ていない時にそういうのを強要するのはある種の暴力だろう。
誤解を恐れずに言うと人とは「社会的な演技」をしながら互いに歩み寄っていくものだと思う。
相手が自分を傷つけないか、自分は相手を傷つけないか。
またどの距離が一番適切か。
そういう事を図りながら徐々に歩み寄って行くのだ。
コミュニケーションのあり方もどんどん間接的になっている。
会って話すよりも電話で、電話で話すよりもメールで交わす方が生の相手と向き合わずにすむ。
すっかり恐がりになってしまった時代を生きる我々はそうやって何かを通して、時間をかけてコミュニケーションを取って行く。
そういう時間が待てずに「本気」だとか、「覚悟」だとか「迫力」だとか。
一足飛びに生のコミュニケーションを期待するのはかなりな時代遅れではないか。

大体そういうことを言うのは未成熟なまま偉くなってしまった大人たちだ。
「お前の本気を見せれば助けてやらんでもない。」とでも言いたげな態度で迫って来る。
ましてや偉くもなっていないのに、権威的に振る舞いながら「君の本当の感情を見せろ」等と言う者は何も自分を客観視出来ていない未成熟な態度を取っているとしか言いようがない。
迫真の演技を求める映画監督や演出家に多い態度だが、それを役者にダイレクトに要求するのは、演出としてほぼ自分が無能だと言っているようなものだ。

偉くなってしまった人に言いたいのは、誰かからの素直な感想や批判が直接耳に届くなんて期待しないで欲しいという事だ。 もしそういうのを期待するならば、相当リベラルな空気を出さないと難しいだろう。権威的に振舞っていて素直な意見が欲しいなんてとんでもない。

そうでなくてもあなたには様々な社会的な記号がそこに張り付いているのだ。
それが無言の権力を持っていることをちゃんと自覚しているのだろうか。
それを自覚しつつ乗り越えてこいとでも言っているのだろか。
我々はあなたたちが若い頃にそうであったような反骨精神がすっかり抜け落ちているのだよ。
あなたたちがこしらえた土俵の中で勝負しようとは思っていないのだよ。

若者が出ぬように叩いて潰して来たことを棚に上げて、「今の若い奴には覇気や迫力がない」などと言う態度を我々が冷ややかに見ていること。
それが分からぬぐらいあなたたちは愚かなのだろうか?

覚悟というのは誰かに押し付けられて生まれるのではない。
迫力は持とうと思って持つものではない。
本気とは意識して生じるのではない。

それは悩みながら自分を見つめる中で静かに生まれて来るものだと思う。

迫力があるかのように見えるパフォーマンスとして政治家は対抗する政党に覚悟を問う。
しかし、こんな複雑な時代の中で簡単に覚悟を決めて進めるはずもなかろう。
悩んでいて瞬時の決断など出来ませんと言うことも一つの誠意の現れではないか。
我々は生産性を上げるために事を急ぎすぎている。
インスタントに生まれる覚悟等いらない。
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by innerscape | 2011-08-08 01:25 | 未来の自分との対話

目的と旅人

目標や目的を持って生きることの重要性はよく理解しているつもりだ。
何かを行う時には目標があって、それに向かって計画を立てて事を進めて行くというのは、ごく当たり前の事で大抵何かの仕事はそうやって行われている。
何かを行う時に目標も目的も持たずに飛び込むのはある種愚かな行為だとされることは理解しているし、そうすることで無意味な時間を過ごしてしまうということもある意味正しいとも思う。
しかし、心のどこかでそういった考え方に虚しさを覚える時がある。

もちろん時と場合にはよるのだが、何かのゴールを立ててその達成以外を無意味だとすることで多くの豊かな出来事や感情に意味を見出せないことはある意味20世紀的な目的主義の病理のような気もしているのだ。

AからBへいかに合理的に、無駄がなく最小限の努力で進むのか。
近代はそうやって進んで来たし、それで得られる達成感は大きな意義もあり気持ち良いものなのだと思う。
しかしAから出てBまで最短で合理的にいけることが分かってしまった今、まずAを出て進むプロセスを迷いながら結果到達する所がBなのかCなのかをその中で見出して行く姿勢の中にひょっとすると豊かさがあるのではないかというのは僕だけが持つおかしな感覚なのだろうか。

もちろん目標や目的が明確な時があるのは間違いないし、それを全て否定するつもりは毛頭ないが、合目的化というある種の罠に自分からはまって生きてしまっている時があることも否めない。

ちなみに目標と目的の違いもよく言われる事としては、前者は行為の達成点や物理的な到達点に対して、後者はそれがもたらす意味や意義というのが含まれている。
そう考えると、目標を持たない行為の中にでも意味や意義を見出せればそれは行為そのものが目的化しているとも言える。
例えば遊びやコミュニケーションや信仰に代表される行為がそういうものだと思うのだが、それは人が生きて行く上で精神的に欠かせないものなのではないかと思う。

僕自身はおそらく目標の無い旅人なのだと思うが、何かの目標を持った旅行者との違いがそこにあるような気もしている。かといってそこに目的がないわけではなく旅人は旅人になるという目的がそこにちゃんと存在するし、そこに社会的な意義があると信じている。

しかしその旅にはあんまり多くの人を巻き込む訳にはいかないので、いつも一人でこっそりと出かけるのだ。ある種それは仲間を見つけて定着し社会化していくこととは無縁のことかもしれない。
しかし、それを一緒に楽しめる感覚のある人とは旅団として行けるかもしれないなとも思い始めている。
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by innerscape | 2011-05-01 01:19 | 未来の自分との対話

迷いの力

強き姿勢を持って何かに臨む姿を「見せる」事が力を持たなくなって来ているのではないかと最近特に感じる。
醒めた眼で見ている訳ではないが、どうもただのパフォーマンスに見えてしまうのだ。
政治家が街で熱弁を振るう姿はただの雑音として耳に響きそれに心を打たれた事も無いし、確固たる自分を持って発言や行動をしなさい的な強要もバカバカしく思えてしまう自分が居る。
どうも自分の周りを観察していると50代ぐらいの人を中心にそれを若い者へ強要するフシが見えて仕方ない。

熱意や信念が大切なことは言うまでもないし、そのことを否定するつもりは毛頭ない。
しかしそれをむき出しにして何かを訴えることしか表現手段がないという感性が窮屈だし残念に思える。

熱意や信念は心に抱くものである。
それを意識しむき出しにして行動に反映させなくても、自然とにじみ出てくる強さが本物であると思うし、パフォーマティブに演出するのであれば見抜かれないようにもっと上手に演技するべきだと思う。
人に何かを信じてもらう、そして想いを伝えるというのはもっと複雑な力学で動いているのだ。

僕自身は「迷い」をしっかり「迷い」として表現することの方がよほど豊かでリアルではないだろうかと思えてならない。

強さとは迷いを放棄した状態から立ち上がる。
それはある種何かの思考に囚われることから出発する力であり、それが通用する時代もあっただろう。
しかし、今の世相を見渡した時に必ずしもそうでは無いのではないかと思えて仕方ない。

迷うことは優柔不断な態度なのではない。
様々な物事の意味をより深く見つめ、思考し哲学する態度なのだ。
そして迷いの果てに得られたものこそがちゃんと力となるのではないか。
そんな風に思う。

様々な局面で強きリーダーシップを求める気持ちは分かる。
しかしその英雄像しかもてないのは少々無責任で想像力が貧困ではないだろうかと思うのだが。
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by innerscape | 2011-04-05 21:23 | 未来の自分との対話

私“flw moon”が日々の生活の中で感じた事を見つめ直し記録します。
心のフィルターを通して見た日々のシーンをひとつづつ電脳に記憶させることで、果たしてどんな風景が見えてくるだろうか・・・?

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