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私的風景の電脳記録
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カテゴリ:居場所の獲得( 4 )

愛と孤独と信頼と

今日はコンペ終了後の打ち上げが意義深かった。一緒にしていた山兄さんの洞察力と理解力に本当に脱帽です。何よりも慈愛に満ちたまなざしにここ数日の心労や不安が随分と楽になりました。心から信頼と感謝の気持ちでいっぱいです。ありがとう。

面白かったのは、人間のタイプを音楽のジャンルで例えるアナロジーを二人で発見したことかな。彼はブルースで、僕はサウダージのボサノバだということが判明。何かをあきらめたブルースと、いつまでも何かを探すサウダージの違いはあるが、共通点は孤独の共有かもしれない。ロックほど熱くなれず、ジャズほどクールでもいられない二人は、きっと似ているのだろうが、人とつながれない孤独感を受け入れるのか、それとも幻想を抱き続けてあがくのかのスタンスの違いはある。 もちろん、僕は後者なのだが。
人とつながることをあきらめられない僕はきっと現実の厳しさをちゃんと見据えることに抵抗している子供なのかもしれない。ただ、そんな僕を理解し、慈しみの眼差しでサポートしてくれる存在が居ることに救われる。 その事からは逃げ出してはいけないのだと思う。
僕の関心ごとはもっぱら、人は何を愛するのか、そして自分はどうすれば愛されるのかということなのだが、一方で愛されることを恐れているフシもあり、すぐに愛から逃げ出してしまう。 必要とされる場へ行くが、必要とされなくなるとその場に居場所を見出せずに去るのは僕の悪い癖のようだ。
居場所は本当はあるにもかかわらず、そこに居ることが怖くなり逃げ出す。結局は孤独な状態を求めているのか、そうでないと不安なのかもしれない。孤独が不安なのに、孤独でいないことも不安だというのはアンビバレントな存在でそれが、自分のサウダージ感をだしているのだろうか。

普段は赤レンジャーで居ることを求められることが多いし、実際はその方が得意なのだが、呑気な赤レンジャーで居ることの虚しさも知っている黒レンジャーが僕であり、それを共有できるのは全体を常に観ている緑レンジャーである彼なのかと改めて確認した時間だった。
黒レンジャーは戦隊には加わらない。一時は共に闘うが、敵が去ればまた独りに戻るのだ。黒レンジャーは必要とされなければやって来ないし、時には敵になるかもしれない危険性もはらんでいる。 なりたくてそうしているわけではない。そうせざるを得ない生き方なのだ。それはきっと理解出来ないだろう。
結局は誰も信じていないから孤独で、それをあきらめていないからさらに孤独なのだ。だから誰かを信じられた時には至福の時間だし、信じること自体がとても貴重で奇跡的なことのように思われる。その分それが裏切られたり、喪ったりした時の喪失感は半端ではない。だから簡単に人を信じないのだ。

それでも信じられる人は居る。確実に居るのだ。ここ数日は個人的に人を信じられず、信じられないという絶望感を味わう出来事があったりしたのだが、今日の彼との会話で随分と楽になったし、信じることの素晴らしさを改めてかみしめた。僕の根底に流れるサウダージを理解し慈しむ友がとても嬉しい。

本気でつきあえる人物は誰なのかを見極めることは大切だ。繰り返すようだが、こちらが誠意を持って必死に生きていることに、誠意を持って接してくれない相手は付き合うに値しない。それはいかなる理由があろうとだ。反対に誠意に応えてくれる相手には命をかけてもまた誠意でこたえなければならない。
信頼関係を築くのは簡単では無く長い年月や苦楽を共にすることが必要なこともある。しかし一方で、たった一つの誠意を欠いた行為が簡単に簡単に信頼関係を崩すことがあるのだ。自分がそれをしてしまった事に自覚や反省がない人物とは本当に付き合うことは出来ないだろう。

そして、そんな事がよく起り、その度に人の世を嘆くことを繰り返すうちに自分の中にサウダージが培われたような気がする。役者として陰のある役を求められる事が多いのはそういう自分が見抜かれているからかもしれない。それはなんとなく自覚している。
ここ数日は、信頼とは何か、誠意とは何か、誰が自分の誠意に応えるのか、そして誰の誠意に応えるべきなのかということを巡って、とても考えさせられる日々だった。信じていただけにとても傷つき消耗した時間だったが、最後にこうして信頼に足る人物と時間を共有出来たことは、本当に救いになった。
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by innerscape | 2010-05-10 10:02 | 居場所の獲得

空間のマゾヒズム

a0091712_035115.jpgPLUGというフリーペーパーをご存知だろうか。

これは大阪府現代美術センターとCSCDが共同で発行している地域情報誌で、大阪府下6万部発行されている。フリーペーパーなので主な地下鉄駅などで手に入れて欲しい。
以前はCP(カルチャーポケット)という名前で発行されていたのだが、リニューアル版からはCSCDが参入して発行していく。一番最後のページには現代美術センターの活動情報と並んで、CSCDの活動情報も載せているので、また手に入れてご覧になっていただけると嬉しい。
実はこのPLUG、まだ二回目の発行だが、二回目は「新・大阪的住まい方」という特集で進めた。大阪で個性的な住まい方をしている方々を取材してそれを特集にしている。
改造長屋で暮らす人々や、自宅をカフェにして人を招く暮らし方、自分の家と生活模様をまるごと美術館へ出張して展示物してしまう人など、どれも個性的な住み方をしている事例ばかりである。
今回そういう特集を組むということもあって、僕も一部コラムを担当することになった。
タイトルは「プライベートがもたらす風景」ということで、今回の特集で取材された3つの事例と、僕自身がランドスケープエクスプローラー始め各所で行ってきたフィールドワークの事例との類似点を考えた文章になっている。
詳しくはPLUGに書いたのでそちらにゆずるとして、ここでもう少し深く考えたいのは僕の中で第二のタイトル候補に上がっていたテーマ、つまり今回のタイトルの方である。
a0091712_055368.jpg自分の居場所というのは自分の体の延長にあるというのはPLUGでも書いた。人も犬と同じで自分のテリトリーを持って生活している。自分の衣服、自分の部屋、自分の家、自分の街、自分の国などなど。自分に帰属しているという場合に何が特徴かというと、自分の意のままに改変できるということである。あるいは意のままに改変出来るモノが置かれているということではないか。
自分の身体を考えてみる。髪をカットする、眉を調える、タトゥを入れる、ピアスを開ける。自分の意のままに出来る身体は自分に帰属しているといえる。
自分の部屋だってそうである。自分の部屋は自分が好きに出来るモノに囲まれているので、自分のテリトリーだといえるだろう。モノを捨てるのも増やすのも、整理するのも、模様替えするのも自由だ。
しかし、そのテリトリーへ敢えて誰かを踏み込ませることで得られる快楽の存在を我々は知っている。その一つをマゾヒズムという言葉に置き換えるとドラスティックすぎるだろうか。今執筆中の書物のタイトルも「マゾヒスティック・ランドスケープ」というのだが、マゾヒズム/サディズムという概念は関係性を語る上で非常に興味深い。

自分の身体を誰かに触れさせる。自分の部屋へ誰かを侵入させる。
自分の身体を誰かに触れられるように、自分のテリトリーへ誰かを入れるというのは奇妙な感覚だが、相手との距離がぐっと縮まる親密な感覚を覚える。自分の部屋をカフェにして知らない人を迎え入れる。自分の好きなものや自分のイメージを形作るものに囲まれた空間を見られることは、見ている人が自分を深く理解するようになると錯覚する。こうした空間のマゾヒズム的な楽しみ方は自分のテリトリーだと了解されている場所では可能である。
PLUGで事例紹介されている『出張マイハウス』などはまさにその楽しみ方の極みで、公衆の面前にわざわざ自分のテリトリーを作ってそこへ人を迎え入れることで親密なコミュニケーションを図っている。
ここに我々が街の中で見つけてきた事例との接点があるような気がしている。
街の中で自分で買った置物を道路に出す、あるいは自分の植木鉢を出す人は、ここは自分のテリトリーだという印をつけているようにも見える。
街は“誰かの場所”であり、そこへ自分が場所を得にいこうとするのだから、これは行為側からすると場所を攻めているサディスティックな行為だと捉えられがちである。
しかし往来の中へ自分のテリトリーを拡張子、自分の生活の一部をさらけ出して表現するという意味では露出めいたマゾヒズムを感じる。もちろんそれはコントロールされたものではあるが、自分の生活の一部を表現したいあるいは共有したいと言う願望が潜んでいるように思える。
もう少し拡張して考えると、コンビニや巨大資本によってチェーン展開するような店の場合は少し事情が変わってくると思うが、生活空間だけではなく商業空間も元来は自分のテリトリーへ人を入れることで成立する空間である。そしてそこには店主の個人的な嗜好や趣味が色濃く出ているはずである。
そういった意味では建築研究家の森川嘉一郎氏が秋葉原などの成立を趣味の構造から論じているのは非常に興味深い。

空間のマゾヒズム。個人的な愛。共有願望。
こういったキーワードは都市風景を考える上で無視できないようになってきているような気がする。もう少し研究してみる必要があるかもしれない。
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by innerscape | 2006-01-04 00:01 | 居場所の獲得

INTERESTINGな風景

a0091712_056143.jpg扇町クリエイティブカレッジというところで講座を開いた。
今まで僕がしてきたフィールドワークやランドスケープエクスプローラーでみんなが見つけてきた外部空間装置をスライドで見せながら、普段とは少し違った視点で街の見る面白さについて共有していこうという内容である。
8月ごろにはまだ何も考えていない状態でタイトルを出さないといけなかったので、とりあえず「街に出てネタを探そう」という安易なタイトルをつけて送ったが、当日フタを開けてみると30名を超える人々がやってきて、2時間お話しすることになった。
(Recipの方々含め、来ていただきました方々には感謝の嵐です。)
こういう機会は僕にとってもなかなか勉強になる。
今まで街を歩きながら撮ってきた写真を整理するうちに、自分がどういうところへ目を向けているのかが何となく見えてくる。

a0091712_0563510.jpg今、僕たちが住んでいる街はそのほとんどが戦後に作られたものである。終戦直後の焼け野原に求められた風景は、皆が平等で公平に幸せを享受できる風景、誰の手にも独占されていないような風景が民主主義の表れだとして『FAIRNESSな風景』が目指されてきたんじゃないかと思う。公団住宅にしても全国一律に敷かれるアスファルトにしても、標準的なデザインの公園にしてもそうだ。モダニズムの動きもおおむねそういうことだったんだろう。

それに対して、一部の建築家やランドスケープアーキテクトはそれでは駄目だと言い出した。もっと生活の中に美しい風景、『BEAUTIFULな風景』を取り入れる必要があるという思想のもと、デザインされた場所の創出を展開し始めた。確かにそれはそれで正しいことである。生活に美の考え方は必要だと思うし、そう考える人はたくさん居るだろう。しかし、こうした美しい風景が一部の偏った感性で勧められた結果、それは作品と呼べるような緊張感のある風景が展開され、鑑賞する以外の関わり方を拒絶してしまうような場所になってしまっているケースもあるのだろう。

a0091712_0565879.jpg一方で、商業主義やアートなどの台頭によって、個性的なオブジェクトが置かれたり、派手な色使いの面白い風景『FUNNYな風景』が商業施設を中心に展開される。中にはとても面白く、それが街の個性になっていたり、新たな場所の意味を生み出しているものもあるのだろうけれど、周辺の街とあんまり関係性や必然性を持たなかったり、気をてらいすぎて失敗していたりする例も少なくはない。
その中で、僕が面白いと思ってカメラを向けている写真はそのどれでもないような風景が多いように思える。
それは極めて個人的で、何とも必然性に満ち、リアリティのあって興味深い『INTERESTINGな風景』とでも言うべきもののように思える。
その多くは完全にコントロールされた状態とコントロールを失った状態のはざまの風景のように僕には見える。とてもユニークで多様性に満ちた風景だけれども、何らかの見えないコントロールがある。
その場所に関わろうとする人のモチベーションが場所の課題に対してユニークな解決策を導き出した実用的な風景(例えばその場にあるものを植木鉢として代用するなど)。

a0091712_0574523.jpgそして、何かと何かが重なったときに偶然に見えてくる風景(通行人と駐車車両とホームレスの移動住居が重なったときに見える面白さなど)。コントロールされにくい自然の風景(地下の水分条件が地上の雑草を規定している風景など)。違法なんだけど、法律を気にしながらしているので、何となくコントロールされている個性的な風景(ポストの側面に落書きがしてあるなど)。産業のように何らかの必然性や合理性のみで展開されているスケールアウトした風景(廃工場のように機能100%で出来た場所から機能が取れてしまった風景など)。現代の合理的システムではコントロールできないような信仰に根付いた風景(工場のシステムの一部にご利益のもらえる鳥居を組み込むなど)。そして、誰にも迷惑をかけずに勝手気ままに振舞う風景(車のガラス面に人形を展示するなど)。
どれも僕には『INTERESTINGな風景』に映る。
その風景を見たときに何がコントロールしていて、どんなコントロールから逃れようとしているのかということを考えると、意外と街はネタに満ち溢れているのかも知れない。
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by innerscape | 2005-11-04 00:58 | 居場所の獲得

作り手と使い手の問題

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久しぶりに東京へ行った。
前回、訪れたのは5月の造園学会の時だったが、またそのときと同じように東大へやってきてしまった。
東大には平成12年から情報学環という組織が出来ている。テレビにも良く出るアジア地域主義論の姜 尚中氏やユビキタス・電脳建築論の坂村健氏、アフォーダンスの佐々木正人氏などが居られるところである。
今その情報学環とCSCDで何か共同研究を始めようという話になっている。

4月に阪大のセンターが立ち上がってすぐのころに、ソシオ・メディア論の水越氏はじめとする情報学環の方々が来られて、情報学環についていくつか発表を行ったのだが、今回は我々が東大へ出向いてプレゼンテーションを行う番である。
それで、CSCDからは八木さんと僕がプレゼンテーションを行うことになった。
そんな経緯でこうして東大までやってきたということなのだ。

ここんところkavcaapやオープニングイベントと連日のように飛び回っていたので、さすがに断ろうかと思っていたが、以前センターで僕がプレゼンテーションした内容がなかなか面白かったということで、センター長と副センター長から公共性と都市空間について是非プレゼンテーションしてほしいという話があった。
そう言われると何だか活動が認められた気がして嬉しいのでつい引き受けてしまう自分は何て単純なんだと思いつつも、以前からランドスケープエクスプローラーで行っていたワークショップ『マゾヒスティックランドスケープ』の話をすることにした。

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今回のプレゼンテーションは扱っているフィールドがそれぞれバラバラだったため、このラインナップを見たときに僕がこの場で発表するのはなんだか場違いな気がしていたが、いざ発表が始まり他の方々の話を聞いているうちに大きな共通点があることに気づく。
それは発し手と受け手、あるいは作り手と使い手、あるいはスペシャリストと非スペシャリストの関係性の問題ではないかと。

大阪大学は今年の4月に独立行政法人化してCSCDも出来たのだが、東大は一足先の昨年にすでに済ませており、色んな面で変わろうとしている。
会の前半でプレゼンテーションされた情報学環の竹原副理事は民間企業から東大へリクルートされた方で、東大のブランディングも含めたプロモーションをされている。
大学の中にはちゃんと発信されておらず埋もれているがかなり面白いリソースはたくさんあるはずで、僕も大阪大学で実現できたらと思って進めようとしているプロジェクトがあるのだが、民間からこうした人材を起用して大学の知識や技術、リソースをコミュニケーションできるカタチヘ変換して発信するのは大学と社会の架け橋になる可能性が高い。CSCDも大阪大学の中でこうした実験を積極的に行う施設となるべきだと感じる。

会の後半では各大学からプレゼンテーションが行われた。
CSCDからは、原子力発電の専門家と発電所が立地する地域住民との間のコミュニケーションの場について実践・研究されていた八木さんからのプレゼンテーションである。
次に東京大学の方から前回も阪大へ来られた佐倉さんのプレゼンテーション。
その次は今回、プレゼンテーションされた中では唯一大学所属ではないが、東京都写真美術館で映像作品のキュレーションを行っている森山さんが、以前森川嘉一郎氏が行ったオタク展や今開催中の『超ビジュアル展』の話をされた。
少し休憩を挟んで東大でワークショップを通じてメディアについて専門家と非専門家とのコミュニケーションの実践をされている長谷川さんからメディアについての専門家と非専門家が一緒になってメディアのあり方について考えるワークショップについての報告があった。
最後に僕がマゾヒスティック・ランドスケープのプレゼンテーションを行う。

今回のプレゼンテーションは扱っているフィールドがそれぞれバラバラだったため、このラインナップを見たときに僕がこの場で発表するのはなんだか場違いな気がしていたが、いざ発表が始まり他の方々の話を聞いているうちに大きな共通点があることに気づく。
それは発し手と受け手、あるいは作り手と使い手、あるいはスペシャリストと非スペシャリストの関係性の問題ではないかと。

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八木氏は、安全で安定した電力を供給しようと懸命にがんばる専門家たちがいる一方で、安全性について不安と不満の声を上げる地域住民たちがいる現状を見て、どちらももっともなことを言っているのにどうしてこんな軋轢があるのか疑問に思うところから活動を始めたという。市民と専門家の間でのコミュニケーション不足や理解不足を解消するために話し合うフラットテーブルを設け、その会の運営モデルを模索している内容がプレゼンテーションされた。
確かに専門家は、その分野についての知識や技術について他の人々よりもよく知っているし、市民を困らせようと思って原子力開発をしているわけではない。
一方で市民側は技術や知識についての理解はないが、自分達にとってそれが有益か有害か、あるいはどういうメリットとデメリットがあるのかを本質的に知りたがっている。
専門家はスペシャリストとしてだけではなく、ジェネラリストとしての能力が求められていると同時に、市民は陳情や反発を示すだけではなく意思決定の自由とそれに見合う責任ある態度が望まれていると言えるのではないか。
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同じことがメディアにも言える。
マスメディアのように大きな力が発する情報を一方的に受け取るという構造だけではなく、インターネットに見られるように、中央の大きな構造を介さずに部分同士でインタラクティブな情報のやりとりが行われるモデルがないかと模索され始めている。誰もが発し手であり受け手にもなる構造を成り立たせようとすると、やはりそこにも公共に対して責任ある態度が求められる。

もちろん、その問題は僕のプレゼンテーションで扱った都市空間にも起こっていることである。
作り手が一方的にこれで満足しなさいと言って与えた空間ではなく、使い手にとってこれが欲しいと自ら求める空間を生み出すにはどうすればいいのか。
その時に我々に求められるのは自らのエゴのみで要求を主張する態度ではなく、公共性に対して責任ある態度で臨むことである。
マゾヒスティック・ランドスケープで試みているのは、そんな責任ある市民が都市空間を自由に使いこなし、獲得される場所を増やしていく方法の模索である。

そうなった時に、作り手と使い手の境界線はかなりぼやけてくるのではないかと思う。
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by innerscape | 2005-07-09 00:37 | 居場所の獲得

私“flw moon”が日々の生活の中で感じた事を見つめ直し記録します。
心のフィルターを通して見た日々のシーンをひとつづつ電脳に記憶させることで、果たしてどんな風景が見えてくるだろうか・・・?

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