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私的風景の電脳記録
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カテゴリ:覚書( 33 )

芸術表現についての覚書

アートでも芸術でも文化でも呼び方は何でもいいんだけど、そういうのは生きている中でリアルに生まれて来る問いに対して、必死で答えようとする人間の表現が、結果としてそう呼ばれるだけのこと。
問いが無いのに最初から答えは無いし、問いが浅いのに深い答えが生まれるはずはない。
深められた問いと、それに対して共有される答えが結局は次の文化を作っていくのだと思うが、そこをうまく考えられないんだろうと思う。
抽象的な概念では人は理解しにくいので、それを具体的にどうやって示すのかが僕自身の課題だとしかと受け止めた。

「芸術は爆発だ」は岡本太郎の言葉だが、まさに日々の命の中で立ち現れて来る表現の結果が芸術へと繋がるのだと思う。
僕自身も気をつけないといけないと思っているのは、その表現が目的化していないかとということと、その表現がちゃんと高いレベルで問いと答えを出せているのかということだ。
よくありがちなのは、問いのレベルと答えのレベルが合っていないということで、問題意識は深いけどそれがちゃんと「芸」になっていないと浅いレベルでしか伝わらない可能性がある。
それは自分の中でも課題なので、かなり気を使うようにしているがなかなか難しくてまだまだだ。
きっと一生それを求め続けていくのだと思うし、そのアティテュードの積み重ねが振り返れば結果として芸術になっていれば、それはそういうものかときっとその時に気づくのかも知れない。
最初から表現を追い求めると足下を掬われるかもしれないと日々戒める。
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by innerscape | 2014-09-13 08:05 | 覚書

内外の一致と不一致についての覚書

自分の言動が人を苛立たせた時は自分が変われるチャンスでもある。その人は何に苛立ちを感じたのか。それは自分に正すべきところがあるのか。それとも相手の認識に正すべきところがあるのか。ただムシの居どころが悪かったのか。数多くの問いが自分の中に立つ。そうやって自分の言動の修正をして行く。

相手が苛立つ時の反応が、ある特定の人だけではなく複数の人にも見られるのであれば、それはおそらく何か自分に問題があるのではないかと思った方がいいのではないかと自分に言い聞かせている。無意識に何か苛立たせる原因となる言動をとっているかみしれないからだ。

無意識の言動というのは無意識というだけあって、意識出来ないからやっかいだ。だがそれは相手の反応をチャンスに意識化出来る可能性があり、意識化出来たことと向き合えるかどうかで己が成長できるかどうかが決まるような気がする。まだまだ変われる余地はあるし、そうやって成熟していくんだろうな。

内側から見ている自分の言動や姿というのは、外から人が見ている風景と一致しないことがある。演技の難しいところはそこであるし、それはコミュニケーションの問題にそのまま繋がるように思える。そのつもりで行動していても、そうは見えないということがある。その調整をするのが演出という行為か。

己を己で演出するという視点を持つ事でコミュニケーションはうまくなるのだろうが、一方で演出され、何かの意図のもとに制御されたコミュニケーションに気味悪さを感じたりすることがあるから難しい。いわゆる営業トークの芝居がかった薄気味悪さもそうだし、器用さが鼻につくというのも同じかも。

テクニックとして己の演出方法を覚えてしまうことと、腑に落ちるまで考えて言動を正すのは根本的に違うマインドなのだろう。基本的に演技も腑に落ちるまで考え感じて、かくあるという方が佇まいがリアルなのだろうが、精神が持たなくなる時がある。

だから演技をするというのは人にとって本質的であると同時に、とても危険な行為とも言え、アイデンティティ崩壊と隣り合わせになる可能性もはらんでいる。嘘から出た誠ではないが、フリをしていることが繰り返されるうちに本当にマインドを作ってしまう可能性は多いにあるからだ。
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by innerscape | 2012-02-25 01:52 | 覚書

消費と投資についての覚書

資本主義と市場主義は分けて考えられねばならないが、議論として混同されがちな感がある。市場経済は「消費」を根底に需要と供給のバランスの中でモノを効率的に分配するための仕組み。資本主義は今ではなく将来的な利益を得るための「投資」が基本にある。つまり時間差がある事がポイント。

この消費と投資の両方へのまなざしが重要で、一方だけを見ていると罠に陥りそうだ。僕が唱えるクリエイティブシェアは消費を抑えるという単なる低成長論であってはならず、個人の消費を削減して共同体の将来のために投資をするとあう考え方を持たねばならないのだなと改めて思う。

デフレが進むと消費が落ち込むだけではなく、将来への投資も落ち込む。どつしても近視眼的なものの捉え方になるのが問題で、今の自分の世代だけの議論になりがちだ。しかし我々が今こうして豊かに暮らすのは前の世代が今の我々に投資をしてくれたからだということを忘れてはならない。

今の我々が将来の社会に何を投資出来るか、子供たちが大人になった時に食べていくための産業も今から投資として仕込んでおかねばならない。文化や観光というのは橋や道路のように、そういう長期的な視点の中で捉えられるべきインフラなのだろう。もちろん芸術もその範囲に入ることは間違いない。
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by innerscape | 2012-02-22 12:28 | 覚書

物語と語りについての覚書

物語と語りは少し違う。物語を大切にする演劇と語りを大切にする演劇では自ずと手法も変わってくるだろうさ。演ずる方も同じで、物語を演ずるのと、語りを演ずるのとでは振る舞いの意識が違う。

歴史的に人の振る舞いで風景を作ってきた演劇には、場所に人のアクティビティを導く手法が山ほどある。都市計画や建築やランドスケープでアクティビティの誘発云々を考えている人は演劇をもっと勉強したほうがいいと思う。
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by innerscape | 2012-02-20 00:08 | 覚書

ギブとテイクに関する覚書

ここのところ強く思うのだが、僕でなくても出来ることは他の人に頼んで欲しいということ。もちろん余裕があれば僕がやってもいいのだが、本当に物理的に時間が無くなって来たので、僕にしか出来ないことを頼む人の仕事か、僕がしたいと思っている作業を優先したい。

金をもらうというのはモチベーションの一つの形に過ぎない。金など無くても僕がその作業に何らかのメリットを感じるものを提供してくれれば、そこでギブとテイクが成立するからだ。僕だけギブして相手は何もテイク出来る物をギブしてくれないか、あるいはギブの軸がずれているのではフェアではない。

昔はもうちょっと無邪気だったので、長期的にテイク出来るものがあると信じてギブし続けてひどい目にあったこともある。しかしこちらのギブに対してちゃんとギブで返そうとしてくれないスタンスの人や、ギブのレベルが合わない人とはフェアな何かが出来るというように最近では思わなくなってきた。

年齢や社会的立場とともにギブとテイクのバランスというのが刻一刻と変遷している。ギブとテイクの収支を事細かにカウントする気もないし、自分に余裕があり社会的意義を感じることに何かをギブすることは構わないのだが、今の状況をにらんだ中でバランス感覚を持つことの重要性を再び噛み締める。

まずはギブを出し合って、その束の中からテイク出来るものを探して行くというスタンスが好きなのだが、どこに束が置かれているのかを見極めるのはとっても重要だと感じる。そのギブや善意が社会的に無駄に終わることが無いような場所に束が置かれるべきだろう。
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by innerscape | 2012-02-19 23:43 | 覚書

演じることとアイデンティティについての覚書

昔からなぜか人の心の中を分析してしまう癖があり、精神科医になりたいと思っていた時期があった。今でもそれはあまり変わらずに、むしろ他者の心の観察と分析の精度が上がってきているように思える。己に対しても分析の眼を向けるという意味では役者として「何かを演じる」というのは良い訓練になる。

ここでポイントになるのは「誰かを演じる」のではなく「何かを演じる」ということ。想定したキャラクターを演じるという事ではリアリティは生まれないように思える。借りてきた振る舞いを演じるのではなく、その根元にある感情をいつでも取り出せるようにしておくのが役者の仕事なのだと思う。

人は誰でも「何かを演じている」というのが僕の基本的なスタンスだ。それはカメラの前や舞台の上だけではなく、日常の中に演技は溢れている。状況が演技を作る事もあれば、経験の中で演技の方向性が培われることもある。演じているうちにそれがアイデンティティになってしまうこともある。

知らずのうちにその演技している自分が自分らしいと感じてしまい、そこから外れた自分に違和感を覚えるようになってしまうのは、演じ方にアイデンティティを覚えるからなのだろう。だから演じ方が揺らいだ瞬間に変われるチャンスがやって来る。しかしその時は成長と同時に危うい瞬間でもある。

これまでの演じ方に指摘と否定を加え、アイデンティティの揺らぎを起こすことで取り込もうとするのがカルトの手口だ。コミュニティが共有する宗教や倫理の基盤がしっかりしている時にはそう簡単に揺らぎはこなかったのかも知れないが、基盤が崩れている今は危ない状態でもあると感じる。

もっとも見せかけの安心感をつくろうことで、何も揺らぎなどないような錯覚の中に漂わせるという罠も巧妙に仕掛けられていることに気づかねばならない。ある年齢まで来るとアイデンティティを揺らがされたくはないものだからそうした罠に疑いの眼を向けたくなくなる気持ちがあるのだろうが。

アイデンティティと社会を巡る問題はメディアの発達とともにますます複雑になっているし、演劇や演技のあり方の変化を通じてそれが透けて見えることもある。そのあたりを少し問いたいとは考えているのだが。さてうまくいくのだろうか。
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by innerscape | 2012-02-19 23:41 | 覚書

自意識と権力についての覚書

ここ数ヶ月で大阪を巡る状況が二転三転しており、意見交換しているうちに、かなり立ち入った話となる。色々と状況把握に苦労されている感もあったので、僕の観察の結果と印象と感じていることと考えていること、心配していることをとりあえず伝えたつもり。

気をつけねばならないことはたくさんあり、知らないうちに陥りがちなこともたくさんあるので、それを進言するのが僕の役割だと思っている。対話ができそうな人には伝えることが出来るので時間がかかっても精一杯伝えねばならない。

変わることや動くことというのはそれだけでとても魅力的で、やもすれば自分が状況を変えていることに陶酔するという罠に陥る。しかし重要なのは変わることではなく、より良き方向に変わることであり、そこへの追求と忠誠を無くせばそれはただの逃避か破壊にとどまってしまう。それを伝えたかった。

もちろん変わることへの恐怖から足を引っ張るものも居るだろうし、これまで動いてこなかった現状があるのは間違いない。ただ、変えなければならないということに囚われ過ぎて、本質的な事を保留して変わることへ邁進するという誘惑とは戦わねばならないのではないか。

変わることには賛成だ。しかし変わり方へ変わった先に何があるのかは吟味する必要はある。そして何のために変わるのかということを忘れてしまってはただ変わることに疲弊するだけになる。子供でも言える当たり前のことではあるが、それゆえに本質的で重要なことだと思う。

現実的に今すぐ解決せねばならないことが山積みなのがリアルな状況だということもよく分かるし「子供のように甘くぬるいことを」と言いたくなる気持ちも良くわかる。足を引っ張るつもりもないし願わくば応援したいと思っている。しかし自戒も込めて人は簡単に陥ってしまうことを肝に命じねばならない。

自分の袖の一振りが多くの状況を変えるという魅力は強烈なものだ。そういう立場に立ち、実際に力が振るえることが分かれば、どれだけ聡明で客観視に優れた者でも、自意識の赴くまま思う存分に力を振るうことの魅力に取り憑かれる。自分を否定する者に目にもの見せてやるという気持ちに囚われるのだ。

自意識と権力とが本質を見失わせることがある。これはどれだけ聡明な者であってもやってくる誘惑なのだと思う。全ての人々が幸福になれるような解決方法などないのかもしれず、何かを選択せねばならないのは仕方が無いことだ。しかしもし理想を願うのならば相手の言葉にも耳を傾ける態度が必要だ。

相手を論破する議論ではなく、相手を理解するための対話ができる状況であれば陥ったとしても救いはある。しかし対話などしている暇は無いという態度であれば危ないと思う。我々は戦うためにしているのではなく、共によりよく生きるためにそれをしているのだということを忘れてはならない。
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by innerscape | 2012-02-10 01:11 | 覚書

監視と演技についての覚書

♭へ帰還。これから「独白する不純物」のカメラセッティングとミーティング。今日からは監視カメラの元で24時間過ごさねばならないとは。もはや役者の仕事ではないだろうというレベルだが、ネット時代のアイデンティティを探る大事なプロジェクトのために身を捧げる…のか?大丈夫かな…

クリエイティブシェア時代のアイデンティティの行方を探して旅をせねばならない。生のコミュニケーションは怖いけど、画面越しになら誰かと繋がりたいという欲求がニコ生という現象を生んでいるという前提に立つが、日常の演劇性や演じることとは何かということにどれだけ迫れるのだろうか。

何か出来事が起こることを期待しているんだろうが、そうはいかない。日常というのは淡々と流れる。
言葉を発するからと言って、語りかけてくる物があるかというと必ずしもそうではないだろう。無言でも伝わってくるものがある。風景とはそういうものだと思う。
僕のアトリエは24時間みなさんの監視の目にさらされている。これが一体何を生むのかというのは終わってみないと分からない。記録されているのはほんの一部で目撃出来るのはリアルタイムに見ている者だけだ。

「人が居ればそこに演劇が生まれる」という定義をしている演出家がいる。役者である僕としては「人が演じるのではなく、演じるのが人なのだ」という定義をしてみたい。

何か出来事が起こることを期待するかもしれないが、実は既に出来事はそこにあるのだと思う。問題はそれを出来事だと認識出来るまなざしがあるかどうか。ジョン・ケージみたいだが。

エンターテインメントを見るまなざしと、風景をみるまなざしの違い。誰かが何かを与えてくれるのを待っているのが前者。自ら何かを見出そうとするのが後者だ。
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by innerscape | 2012-02-08 01:13 | 覚書

文化政策とプロデュースについての覚書

韓国では90年代以降に文化政策と観光政策が一体的に行われて来た経緯がある。1990年に体育関係を含め文化・芸術政策を担当する文化体育部と,観光政策を担当する交通部が統合して、「文化観光部」(現「文化体育観光部」)が設立され文化政策と観光政策を一体的にとなっているのが特徴。

特に1998 年の金大中大統領による「文化大統領宣言」を受けて、文化産業を21世紀の国家基幹産業として育成することが目指されてからは、ゲーム、アニメ、音楽、 キャラクター、映画などの文化コンテンツについて重点的に取り組むべき課題とされている。このあたりがポイントだな。

韓流ブームの裏側にどういう背景があるのかを理解せずに、単に作家や表現者の能力の問題に帰着するのは短絡的な読みだろう。一表現者としてはそれでも構わないが、研究者としての身体も持っている以上はそれではいただけないと自覚せねばならないか。

表現者が陥りがちな傾向として、才能論への帰着がある。もちろん優れたコンテンツや表現を「生産」する仕組みというのは重要なのだが、それは単独で成立しているのではなく、「流通」サイドの仕組みとの関連で見て行かねば無駄になるかもしれない。企業における「技術」と「営業」の関係に近い。

あとは、クリエイティビティを技術論だけに限定するのも問題かと。表現者の職人的な技術が持つクリエイティビティには敬意を払ってしかるべきであるが、それをプロデュースする能力にもクリエイティビティが要求されるし、そこに敬意を払うことも重要。

一番いかんのは、虎の威を借りる狐的なプロデュースだろう。表現者のクリエイティビティを搾取することがプロデュースなのではなく、そのクリエイティビティを最大限発揮出来るように方向付けするのがプロデュースの本質かと。ブローカーと異なり表現者と対等なクリエイティビティが要求される。

自分で自分をプロデュースせざるを得ない身としては、プロデューサーとしての身体と、クリエイターとしての身体の両方を使い分けるのは大変だが、おかげで搾取型プロデューサーの傾向が何となく見えて来た。観察していると、威張り散らすだけで大した意思もチャレンジ精神も無いのが特徴。

だからちゃんとしたプロデューサーに出会うと、優れたクリエイター以上に敬意を持って接したいと思う。

日本においてはなぜか文化庁の政策と観光庁の政策が一体的に行われない。このあたりが韓国に差を付けられている要因かと思うのだが。韓国は1990年に既に文化観光部が出来ているが、日本では2008年にようやく観光庁が出来たのだから、これだけ見ても約18年遅れていると言えるのだが、さらに。

文化と観光とコミュニティとエコロジーと教育学習と愛着醸成のクロスオーバーとして僕が出した概念として「クリエイティブシェア」があるのだが。広義はyoutubeなどから、狭義はうちのアトリエで実践しているコミュニケーションデザインまで。もうちょっと概念整理が必要なのだが、ぼちぼちと。
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by innerscape | 2012-02-08 00:13 | 覚書

風景の補助線についての覚書1

韓国との共同研究の内容をあれこれと思案中。観光と文化コンテンツ産業との関係性について色々と見て行かねばならないのは確か。その中にいかに「風景の補助線のブランディング」と「まなざしのデザイン」を入れこんでいくかが課題。孤独な戦いになりそうだ。

幸い、先方の先生で風水の専門家が居るので、その方と何か出来ればと考えている。
風水については信じている、信じていないというレベルの話ではなく、アジア型の風景の補助線の一つとして理解している。アジア都市の形成原理や共有されている習俗についての一定の補助線のためにあるという方が科学的であるように思える。先方の共同研究者に風水の先生が居たから出来る研究かと。

元々、高校生ぐらいから風水と陰陽五行と東洋医学に興味があったので、細々と勉強していた時期があった。大学進学の方向性がランドスケープに方向転換してから、近代合理的なランドスケープ論を学んだこともあり、最近はとんとご無沙汰していたのだが。

映画や演劇やアートも風水と同様に風景の補助線というレベルで理解している。僕の中では違いはさほどないのだが、人には振れ幅が大きいように思えるらしい。まぁ、それこそ補助線のない人には節操無く色々と手を出していて一貫性が無く流されているように見えるのだろうなとは理解する。

何がやりたいのか分からんという批判をたまに浴びせられるのだが、ナンセンスに思えることがあって残念だ。何かやりたいことを頑に追求するのも僕自身素晴らしいと評価するが、一方でどんなことでもやりたいことに変えれる創造性とそこから問いを発する抽象度を持つことも評価に値するのではないか。
何がやりたいのか分からんという批判を浴びせる人に限って、僕の行動の中に自分の鏡として不安要素を見つけようとしているだけに過ぎないと思うことがある。追求し続ける強い意志も持てず、柔軟に対応する抽象度も持ち得ない自分が不安で仕方無いのだろうというケースがほとんどだ。

しかし何かを表現をする時に感覚的であると同時に論理的でなければならないと常々思う。天才ならばいざ知らず、ほとんどは天才では無いのだから、論理的思考力でカバーせねばならない部分が大きいだろう。色んな問いの立て方を知っていなければ答えなど導けないように思える。
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by innerscape | 2012-02-07 00:07 | 覚書

私“flw moon”が日々の生活の中で感じた事を見つめ直し記録します。
心のフィルターを通して見た日々のシーンをひとつづつ電脳に記憶させることで、果たしてどんな風景が見えてくるだろうか・・・?

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