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私的風景の電脳記録
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カテゴリ:アート( 46 )

その変動の後の世界

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僕とアニメーターの吉田徹のユニット「第七区」の作品「After theShift」の初の日本での展覧会終了。
前回はソウルで行ったが、ようやく日本でもお披露目することが出来た。
会期中あんまり会場にはいれなかったけどたくさんの方々にお越し頂いたようで感謝感激の想いでいっぱいだ。
この作品は2010年代に地球の地軸がズレてしまう極移動(ポールシフト)が起こった後の世界を物語として描いている。
ついつい我々は今の世界がずっと存続することを前提に物事を考えてしまいがちだが、今躍起になっている政治や経済や文化という"ソフト"は、地球という"ハード"が変動してしまうことで確実に変化してしまうということを忘れがちで、それを自分なりに考えて見たかったというのが動機の一つなっている。
もう一つは、今僕らが正しいと信じて疑わない"まなざし"を推し進めていくと、ひょっとするとこんな世界になるかもしれないというのを極端に描いて見たかったというのもある。
今回は全体をあるジャーナリストの視点から追いかけたルポタージュという形でテキストもつけて展示したが、来場者の反応も良くてまずまずだったかと。
今の様々な社会問題を未来から見た時にどう見えるのかということを世界の名所9ヶ所を具体的にピックアップして、自然、土地、エネルギー、観光、風景、資源、宗教、安全•安心、民族という観点からそれぞれ考えてみた。
とりあえず♭には飾っておくが、また機会があればどこかで展示するかもしれない。
もう少し思考を掘り下げるツールにしてみたい。

2007年に「いのちを守る智恵」という減災絵本を書いたことがあり、その時は30話書いたが、今回は9話。
前回は目的がクリアだったし、真面目なお話しか書いていないが、今回は自発的に書いて制約フリーなので、割と言っちゃいけないようなことや、こんなコト真面目に提案すると問題になるよねという際どいシチュエーションも書いてやった。
物語というフィクションの力を借りるから、思想や思考が自由になることもあると思う。

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by innerscape | 2014-09-29 08:38 | アート

霧はれて光きたる春2014のレポート最終日


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土曜日の夜から降り出した雨が日曜日の午前には強くなってきていた。
傘をさして歩くのも難しいぐらいの激しい雨が一時は降っていたが、なぜか午後には晴れるような予感がしていた。
天気予報でも午後からは雨が止むと言っていたこともあったが、そういう情報からではなく、もっと大きな予感が今日の「霧はれて光きたる春」の最終日に素晴らしい風景が見れる事を告げていた。
実際に午後にはピタリと雨が止んだ。
なぜかそれは自然なことのように感じられた。

一週間を振り返ってみると、奇跡のように一度も中止にはならなかった。
本番の一時間前になるといずれの日も天候がおさまるのだ。
不思議な力が働いているのを感じる。

土日にこの「霧はれて光きたる春」を実施するのは実は今回が初めてだ。
今までは土日は病院側のスタッフも少なくなるのと予算の関係もあって実施を見送っていたが、今回はなぜかこの土日にしたいと自然と思えるようになったのだ。
お見舞いのご家族やご友人の方々ともこの風景を共有することが必要な気がしたのだ。
それと今回はサポーターの方々ともこの風景を共有したかったということもある。
実際に今日がこれまでの中で一番たくさんのサポーターが集まった。

毎回サポーターには16時に病院前の公園に集合してもらい。、そこでお名前の確認をした後、院内を皆で通って控え室へ向かう。
そこで40分間ほどのディスカッションの時間を事前に持つ事にしている。
そこでは自己紹介から始まり、趣旨とサポート内容の説明、そして30分の間のまなざしの向け方や注意事項などの説明を行う。
やってこられる方々は様々で、僕の講演を何度かお聞きになった方や、普段からよくご一緒させて頂いている方、そして初めて会う方など様々だ。
クラウドファンディング頂いている方には全員にサポーター参加の呼びかけをしているが、それでもわざわざこの病院まで時間を作って風景を見にやってきてくれるのはほんの一部だ。
こちらからいくら見て欲しいと思っていたとしても、結果的にこの風景を共有出来る人はご縁があったということなのだと思う。
いくら欲していてもご縁の無い方とは風景が共有出来ないし、別に望んでいなくてもたまたま共有してしまう人も居る。
人の縁とはつくづく不思議なものだと感じる。

現象は毎日変わるし、サポーターも毎日入れ替わる。
そして院内の人々の認識も変化していく。
毎日同じ時間に同じ空間で現象が起こるが、気流によって現象も異なれば、それを共有する人々も異なるし、見る人々のまなざしも異なる。
それは毎日起こる出来事なのだが、まるで違う風景なのだ。

現象が起こるライトコートに面していて一番人が集まりやすい談話室がメインの視点場になるのだが、普段はそこにあるテレビから何かの番組の映像が流れているので、それを院内の人々はぼぉっと眺めているようだ。
しかし17時になるとテレビが消されて、現象がスタートする。
そうすればそれまであまり人気がなかった談話室にそれぞれの病室から人が集まって来ていて、知らない間にいっぱいになっている。

テレビは受動的に目に入って来るが、ライトコートで起こる現象は「能動的なまなざし」になるという違いがある。自分から現象を追いかけないと現象そのものを捉える事は出来ない。ここにも僕は意味を見出している。
病院の中にいると、受動的になりがちなのではないかと思う。
治療してもらうということに身を任せることも大事なのだが、自分から治りにいくという構えが治癒する力を引き出すのではないかと信じているからだ。
そうしたまなざしを引き出すためには、現象そのものがショーやエンターテインメントのように何か具体的で分かりやすい意味を持って迫るのではなく、抽象的で自分から能動的に意味を探しにいかないと掴めないような一歩引いた表現をしている方がいいのではないかと考えている。

最終日の現象は素晴らしかった。
この一週間の中で僕が現象として素晴らしかったと考えているのは火曜日と水曜日だったが、それと同じぐらい今日の現象はとても豊かな動きをしていたように思える。
もちろん毎日気流が異なるので、日々違う表情を見せるのだが、今日は空気の動きが複雑でライトコートの中で縦と横の渦を巻いてまるで螺旋のように上昇と下降を繰り返すという風景が展開されていた。

現象の豊かさは単なるきっかけに過ぎない。
多くの人はこの「霧はれて光きたる春」という作品はライトコート内の現象だと思っているようだが、実は本質はそこではない。
現象に反応する人々が演じるドラマに実は本質があるのだ。
もちろん豊かな現象がそこに展開されれば、人々の反応も豊かにはなるかもしれない。
しかし毎日見に来ている人々の中には、まなざしがどんどん豊かになっていって、それほど派手な現象が起こっていなくても、微妙な空気の動きを敏感に感じ取れるように磨かれていく人もたくさん居る。
そして現象を前にして一人でたたずむ姿が美しかったり、また現象をきっかけに初めて言葉を交わす人々同士が生まれる事もドラマティックだ。
ドラマとは何もテレビや画面の中にあるのではなく、日常の何気ないワンシーンの中に見出されるものだと思う。
今回サポーターで参加した方々には最初にそういうまなざしのデザインを施してから現場に身を浸してもらっているので、帰って来ると口々に自分が見たドラマを語り出すのだ。
中には涙を浮かべながら語る人々もたくさんおられる。
自分の抱えている状況と重ね合わせて風景を見ているのだ。

僕は常々「風景の半分は想像力で出来ている」と主張している。
だからサポーターの皆さんが語り出す風景は、それぞれが心に抱いている想像力が生み出していると言えるだろう。
豊かな風景を語り出す人は豊かな心や想像力をもってその場にまなざしを向けている証かもしれない。
しかし一方でうまく言葉にできない人のまなざしが貧しいかというとそうではない。
その場でその時に言葉にできないこともあるし、むしろ言葉にしない方がその事をより深く見つめることが出来るという場合もあるのだ。

今日はあるサポーターは窓辺にたたずむおばあさんに話しかけたエピソードを語っておられた。
そのサポーターはおばあさんに毎日見に来ていますかと話しかけたら、おばあさんはこの作品が好きで毎日見に来ていると答えたそうだ。
それで会話は終わって、そのサポーターはおばあさんからこの風景のどこが好きだとか、どういいうふうに好きだとかは聞かなかったという。
しかしそれが逆に良かったと語っていた。
すぐに言葉にしなくてもいいこと、そして言葉にしなくても一緒に窓の方を向いてたたずんでいられることというのもそれは豊かな風景なのだと思う。

僕らはとかくすぐに言葉にしてみたり、すぐに成功か失敗か、正解か間違えかを判断したがる。しかし、それはすぐに何かに回収させてしまうことで豊かな意味が奪われてしまうことも時にはあるのだ。

この七日間、僕自身はこの「霧はれて光きたる春」という出来事を通じて大きく自分が成長出来た気がする。そしてそれは僕だけではなく、今回の事業に関わった仲間達やサポーターの皆さん、そしてひょっとしたら病院の中で過ごしている人々も何か掴んだかもしれない。
僕にとって芸術として表現をしたり作品をつくったりするということは、自分の思考を深め成長するためにあるのだと思っている。
過去2回この作品を行った時とは比べ物にならないぐらい今回は多くのことを学んだし、そのプロセスを多くの方々と共にすることで、一緒に認識を深めていけたのではないかと思う。
きっと後で映像アーカイブで振り返った時に分かるだろうが、初日の僕の語り口と最終日の僕の語り口は全く異なっていることだろう。
こういうと変な言い方になるが、「霧はれて光きたる春」は僕が作っているようで、実は僕が作っているわけではなく、僕は何かに突き動かされて”作らされている”ことを感じる。僕はシャーマンのように単なる純粋な媒体(メディウム)であり、それは僕を通じて何か大きな意思がそこに出現させた出来事なのだと思う。
そしてここでこの作品を共にした多くの仲間達や、支えてくれた人々との出会いも偶然ではなく、何かの必然が働いていることを感じるのだ。それら全てがこの場の風景を成り立たせている。
それら全ての状況に心より感謝の念が湧いてきて、僕はこの「霧はれて光きたる春」の最終日の最後の振り返りの締めくくりとして自分で書いた詩を朗読した。
こんな経験は初めてだったし、それはどの記録にも残っていない。
しかし何かの確信として自分の中で大切に出来ればと思う。



「霧はれて光きたる春」
作:ハナムラチカヒロ

病は霧の中を進むように
不安で前が見えず
足元もおぼつかない中
ただじっとしているよりほかないが
降りやまない雨がないように
昇らない陽がないように
霧もいつかははれるだろう
霧がはれた空からは
無数の光が降りそそぎ
その向こうにはたくさんの笑顔が見えるだろう
いつかその日が来ることを信じながら
春がくることを待つ

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by innerscape | 2014-03-30 23:59 | アート

霧はれて光きたる春2014のレポート六日目

予報を見ると今日は夜から雨と出ていたが、朝目覚めてから見た空は快晴だった。
少し風もおさまって穏やかかと思っていたが、昼下がりになるにつれてだんだんと風が強まり始めた。

今回のライトコートの竪穴は13階分あり底面積も過去最大の大きさで気流はうまく読めない。
室外機がライトコート側にたくさん出ているので、そこから出る空気も竪穴内部の気流に当然影響を及ぼす。
いつも本番の一時間ほど前にはテストで機材を動かす。
大体は竪穴の底から見上げて落下してくるのをチェックするのだが、ゆっくり動いている雲の動きとは反してテストの時には雪もシャボン玉も奇麗に落下して来た。
これが夕方になるとまた流れが変わる。
時おり上昇気流がふいに生じることもある。
気流ばかりはどれだけやっても正確に読むのは難しいし、それ自体は見えないので何かを媒介させる必要がある。
今日の気流はとても複雑で、30分の間にも上昇気流が吹き上げたり、下降気流が一辺だけに下りたりとしていたので、とても変化に富んだ動きが展開されていた。
どちらかというと今日は上昇気流が豊かだったので、霧と底部のシャボン玉を多めに演出した。

こうして毎日気流や天候を読みながら作品を作っていると、自分がやっている表現は芸術というような領域の話ではなくシャーマニズムの一種なのだと改めて思えて来る。
ランドスケープアーティストは自己表現というようなものではなく、現代のシャーマンとして自然を読みながら、それに形を与えていくということだと僕は思っているが、霧や雪やシャボン玉というメディア(媒体)をこの場所に差し込む事で、僕は気流の動きを表現しようとしているのだと自己分析してみる。

ところで、世界中のあちこちの部族はそれぞれ何らかの雨乞いの儀式を持っているが、概ねそれは煙を炊き、水を撒き、太鼓を叩くということをするという。これは煙は空に立ち上る「雲」を表し、水は天からの「雨」を表し、太鼓の音は「雷」を表している。
こうして雨が降って来るプロセスやマテリアルを真似る事で、実際に雨を呼び起こそうという儀式なのだが、J・フレイザーによるとそれは“共感呪術”と言われる行為だという。
僕はこれは物理的にそのマテリアルが影響して天候が変化するということではなく、自然と類似したプロセスを作ることで生まれる空気感が重要で、それに感応する人々の心の力が雨を降らせるのかもしれないと考えている。それが共感呪術の本質なのではないかと思う。

僕のしていることがシャーマニズムであるとするならば、上から雪を降らせて下から霧を発生させることで肌寒い吹雪の風景をつくり、その後に空から光る珠が落ちて来る風景を作るというプロセスが、一体何を模倣し、何を呼び起こそうとしているのかというのは興味深い。
そしてそれが病院の人々のまなざしをどう変化させ何を祈らせるのかについて、考察する必要がある。

自分で表現しているものに対して、必ずしも自分が一番正確に把握しているとは限らないのだ。
むしろ自分が完全に把握しているものというのは逆につまらなくて、自分が無意識に選択しているものの中に創造性の本質があるようにさえ思えて来る。

僕はこの作品の意味は一体なんですかと聞かれる度に、一応の説明として「霧は闘病生活の不安を表し、シャボン玉はそれを抜けた後の希望を表現している」という答え方をするが、それは後から引いた意味付けの補助線であって、それを理由に自分がこの表現を思いついたわけではない。
常に原因は自分の無意識の領域の中にあり、後から結果として理由がやってくるのだ。
今回はそうしたことも検証したいと考えており、サポーターの皆さんのまなざしを借りて、人々の心の中での動きや祈りを読み解くことを試みている。

さて、本日聞いた中で興味深い話をいくつか紹介する。
6階の心臓外科の談話室に二人のおじいさんが座ってシャボン玉を見ていた。
その二人にこちらのアーカイブスタッフがカメラを向けた時に、その二人はカメラに向かってピースをしていたりした様子で楽しまれていたという。
その時に片方がもう片方に向かって「元気やな、今から手術やのに」と呟いたそうだ。
今から大きな手術を控えた方の様子ではなかったので報告してくれたサポーターは驚いたという。
他には7階に居た若いカップルは現象が始まっても全く見ずにテーブルについて話をしていたので、サポーターが話しかけて現象の存在を促したがあまり興味を示さなかった。
しかし、だんだんと談話室に人が増えて来て皆が窓の外に起こる現象を見て騒ぎ出しても、そのカップルは相変わらず窓の外を見ずにテーブルで会話していたが、その会話のトーンが先ほどとは明らかに違って、はしゃいでいる人々の高揚感に影響されていて白熱しているようだったとサポーターは感じたようだ。
現象そのものには心を動かされていなくても、それに心を動かされている人の心やそれに影響を受けている「空気」に反応するということがあるのは非常に興味深い。

空気とは物理的な気流の動きだけでなく、その空気の持っている情感や質というのがあるのだと思う。
霧と雪とシャボン玉というのはいずれも物理的な気流に反応するマテリアルとして挿入しているのだが、それだけではなく、このマテリアルが人々の心にどういう情感や質をもたらすメディアになっているのかという所が重要だ。
一つのマテリアルが複数の情感をもたらすことはあると思うが、それが総体としてその場所にどのような空気感を与えているのかということは研究の余地がある。
ひょっとするとその空気感に感応した人の心が、実際の何かの行為や現象を引き起こす可能性があるからだ。会話の白熱という行為はきっと現象に感応した人の心がもたらす空気感が引き起こした結果だろう。
現象だけがこの作品のマテリアルではなく、そこから派生する人間の心の動きもまた、別の人のマテリアルになっていくというのが面白いと個人的には思っている。

明日は最終日。
今夜から降り続ける雨は、きっと明日の本番の開始時刻までには降り止むと確信している。
雨上がる風景をイメージしながら祈るということも、また共感呪術となり実際の天候を導くかもしれない。
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by innerscape | 2014-03-29 23:59 | アート

霧はれて光きたる春2014のレポート五日目

本日は平日の最終日。
空は快晴で温度も高い。
過去二回は、遅くても3月の第1週の開催だったのでもっと肌寒い冬だったが、今回はもう春がやってきている。
「霧はれて光きたる春」というタイトルは、冬の実施をイメージして名付けたが、春に行うとまた違った意味合いが出てきそうだ。

3月の頭と最後では全然条件が異なる。
まず気温が違うのと、後は日の入りの時刻が変わって来る。
夕方の凪の時間も微妙に違うので、そのあたりを毎日読みながらあれこれ試行錯誤する。
ランドスケープアートは自然を相手にするので、思い通りにいかない事が多い。
僕の演出は半分で、残り半分は自然が作る。
だから100%狙い通りにいくとは限らないし、逆に自分の予想を遥かに上回る風景が見られることもある。
安定した風景ではないのがいわゆるショーとは少し異なる所だ。

温度と湿度によって霧の消滅までの時間は変わって来るのと、後はライトコート内部の気流が変化する。
今日のような晴れた日よりも、少し曇っていて空気が停滞している日の方が面白い現象が見られることが多い。

理論値で行けば1分間に5000個のシャボン玉が吹き抜けに現れることになる。
しかし、それはほぼ不可能な数なのだが、僕はそれに近い状態を過去一度だけ見た事がある。
気持ち悪いぐらいの数の光の珠が空間いっぱいに満ちている風景。
「美しい」を通り越してかなりグロテスクな風景だった。

美しさと醜さというのは紙一重だと思う。
その危うい臨界が芸術の最も興味深い領域なのだ。
醜いと思われているものが美しく転じたり、美しいと思われているものが限界を超えると見にくく感じたり。
その間の臨界を揺らがせるのが芸術のある種の役割なのではないかと思う。

入院病棟のライトコートは普段は裏側にされている空間で、誰も目を向けない醜い風景だ。
そこがこの作品が出現する30分間だけは聖なる空間へと転生する。
しかし面白いのは、その聖性を生み出している美しいシャボン玉がある臨界点を超えた数になると、今度はまたグロテスクで醜い風景になるのだ。

そうやって反転を繰り返していくときっと人の心は豊かになっていくのではないかと思う。
それはまるで刀鍛冶が熱い火の中に鋼を入れた後で、冷水をかけて叩いていくことで鍛えていくことに似ているように思える。
同じ場所、同じ物に対して美しさと、醜さが交互に現れることで自分のまなざしは鍛えられて行く。
僕は芸術に役割があるとすればそういう心の中を鍛えていくことなのではないかと思っている。
今のところ今回の病院ではまだそういったグロテスクな風景とは出会っていない。
残り二日の間にそれは出現するだろうか。

流石に五日目にもなると、患者さん達の間ではこの時間帯にやってくるこの風景が日常化してきている。
毎日やってくる常連がたくさん居て、逆にこの現象を合図に皆が談話室へ集まって来るようにもなっている階があるようだ。
今日聞いたエピソードとしては、5階のプレイルームで子供がシャボン玉に向かってガラス越しにも関わらず息を吹きかけていたという風景が見られたようだ。
他には8階では、始まる前に一人のおばあさんが両目をティッシュペーパーで押さえてずっと泣いていた様子だったが、吹き抜けに雪が降り始めると、窓辺にやってきて現象を見始めた。
おばあさんの話によると弟さんが丁度手術中で辛い状態らしく、毎日この時刻に来て30分ずっと現象を見ているという。そのおばあさんは特に友達も居ないようだったのだが、30分の最後の方でやってきた別のおばあさんと会話をし始めたということが起こったようだ。

吹き抜けに起こる現象は単なるきっかけに過ぎない。
でも何かのきっかけがあれば人は誰かとコミュニケーションを図ったり、自分の力で歩き出したりするのだと思う。
その人間模様の風景が実はこの作品の本質なのだと思う。
そういう意味でこの作品は演劇ということも出来る。

ランドスケープアートは現象を見るということだけではなく、そこで人々が織りなす状況も同時に見るべき風景となる。
単に吹き抜けにインスタレーションを行うということだけではなく、それを眺める人のコミュニケーションとまなざしにまでアプローチしたいというのが僕の意図なのだが、さらにそれを外からサポーターのまなざしに今回は実験的に迫っているところもある。

ずっと悪態ついているお爺さんの言葉の中に、この現象への愛を感じることもあるだろうし、下を向いて現象とは無関心に本を読んでいる人がふと見上げる視線に何かの心の動きを見る事もあるだろう。
30分間その空間に身を浸すことで人々の振る舞いと心の動きとの間にある関係が見えて来るかもしれない。
それはこれまであまり意識しなかったことなのかもしれないが、そうやってまなざしが変化していくことは、きっと心の中を豊かに鍛えるレッスンなのかもしれない。
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by innerscape | 2014-03-28 23:59 | アート

霧はれて光きたる春2014のレポート四日目

今日は実は僕の父の命日になる。
もう亡くなってから干支が2周した。
昨年は7つ年下の弟も亡くなったので、今頃はあっちで会っているかもしれない。
僕はいつも遺骨を二つ胸にぶら下げているので、今日の「霧はれて光きたる春」も二人は見ているだろう。

さて昨日の風景があまりに幻想的だったので、余韻に浸りたい所だがまた今日は今日の風が吹いている。
実際に今日は風が若干強い日だった。
この作品はやはり少し雲がかかっていて湿度があった方が豊かな風景になることが3回目にしてようやく分かって来た。
何も晴れ渡った空だけが風景を美しくするわけではないのだ。

夕方になって風が少し強くなり始めたので、今日はそれほどたくさんのシャボン玉は降り注がなかった。
しかしそれはそれで意味のあることだと思う。
一回しか起こらない出来事に意味があるのだ。
そしてそれは記録されようとそうでなかろうとその場に居た人が何か感じるものになるのだ。

毎回サポーターの皆さんにお越し頂いて目撃した風景を語ってもらうが、30分の間に繰り広げられる様々なドラマの内容が本当に興味深い。
サポーターの方々は本番中に様々な風景を目にするが、ほとんどの人は患者さんと会話して帰って来る。
その内容はかなり個人的なことにまで及ぶことが多い。
見ず知らずの人同士がそこまで深く個人的な話をするのかというような内容も時々耳にする。
風景異化には、異化された人々同士でコミュニケーションを行うという特徴があるのだ。

今日サポーターから聞いた中で僕が一番印象的だったのは8階のドラマだ。
母親の付き添いで点滴をした男の子が談話室へやってきてシャボン玉が落ちて来る窓辺の側で笑い声を上げながらニコニコと楽しげに立っていたそうだ。
途中でその母親が「あんた見えてんの?」と聞いたが、男の子は「見えていない」と答えた。
この様子を見ていたサポーターの方は、その言葉で男の子の目が見えていないことに気づいたという。
男の子が本当に見えていなかったのかどうかはサポーターには判断出来なかったようだが、それでもライトコートから聴こえて来る音楽であるとか、その場の他の人の空気などをその男の子は敏感に感じ取っていたのかもしれないと語っていた。

人の病が癒えるということについて、医学的な観点だけでは説明出来ないことというのはあるという。
結局は自分の身体は自分が癒していくのであり、医療はその自らを癒す力に手を貸すということなのだと思う。
そしてそれは薬物的なことや手術といったことに留まらず、その場の環境や風景、そして人の祈りや想いがそれに力を与えるということがあるのかもしれない。
昨日も開頭手術をしたばかりの人が一人で立ち上がって窓辺に寄りかかるという話を聞いたが、心が回復する事で身体にも力が湧いて来るということを少し信じてみたくなってきている。

他には、今日演出をつけていた7階の談話室から僕が実際に見た風景だが、一つ上の階の反対側の窓辺に看護士が4人べったりと張り付いていた風景だ。
4人とも窓辺の出っ張りに上って全身をガラス窓に押し付けて見ている姿に吹き出しそうになった。
終了2分前だったのだが、あまりに面白かったのでストップウォッチを見忘れて気がつくと終了時間を少し過ぎていた。

今日のサポーターの中には、イメージしていたものと違ったので残念だったという方も居られた。
それはそれで一つの感じ方なのだと思うし、風景の見方に正解など何も無いのだと思う。
しかし勿体ないと思うのは、あるフレームで風景を見ようとした時にそのフレームが余りに強いとその外側で起こっていることが見えなくなるということだ。
僕はそれを「まなざしの固定化」と呼んでいる。
まさにそのフレームを少しずらすことを「まなざしのデザイン」と呼んでいるのだが、今度は僕がずらしたフレームでそのまま固定化されてしまう人が居る。
映像や講演などを何度も見ている人の方がそういう堅いフレームを持った人がにひょっとすると多いのかもしれないが、そのあたりはもう少し研究の余地があると思う。
残りあと3日になってしまったが、サポーターとして来て頂ける方には既に案内を出しているかと思うので、良ければ風景になりに来てもらえれば嬉しい。

いずれにしても今日学んだのは、それぞれのサポーターが見て来る風景が豊かどうかというのは、その人のまなざしが柔らかいかどうかと関係しているということだ。
最終的には自分のまなざしは自分でデザイン出来るようになることが必要だ。
それはまるで自分の身体は自分が癒すということと重なっているように僕には思える。
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by innerscape | 2014-03-27 23:59 | アート

霧はれて光きたる春2014のレポート三日目

昨夜から降り始めた雨が午後までずっと続いていた。
先週の予報では曇りだったのが、二日ほど前に雨マークに代わりそしてそれが昨日には確実に雨が降るという予報に変わった。
「霧はれて光きたる春」は天井の無い屋外のライトコート(光庭)で行うので、天候に大きく左右される。
屋上で吹く風が強くなればシャボン玉は全部上へ流されてしまうし、風向きを読みながらその日の状況に応じて演出を変えて行く。
しかし雨が降ると実施自体が怪しくなってしまう。
それは特殊効果の機材が雨に弱く故障する危険性が出て来るからだ。
だから土砂降りの大雨では絶対に実施する事は出来ない。
今日の雨は微妙な具合だった。

朝目覚めた時には雨が強く降っていたので、ひょっとすると今日は中止になるのではないかと予感していた。
しかしもし中止になったとしても、現場には出向いてそしてサポーターの方にも現場に来てもらって対話の時間が持てればと考えていた。
この作品は中止されることもその表現の一つなのだ。
昨日の風景があまりにも美しかったから、今日も窓辺にやってきていたが雨が降っていた。
それを見てもし雨で今日はその風景が見られないかもしれないとなった時の人々はどんな想いをするだろうかと想像してみる。
談話室で腰かけるご年配の方々の間では雨があがるかどうかの話題が飛び交うかもしれないし、残念そうに病室で一人でほおづえを突きながら空を見上げる人が居るかもしれない。
看護師さんもどこかそわそわと天気を気にしていたり、中には雨が上がるために祈りを捧げる人が居るかもしれない。
そうやって皆で雨が上がる事を待つという風景もこれは美しいものなのではないかと思う。
そして結局は見れなかったとして、その翌日に雨が上がった後でやってくる風景は一際待ち遠しいものになるだろう。
そうした様々な人々の想いやたたずまいも含めて全て作品の演出なのだと思っている。
本日のサポーターにも、雨で中止という事になっても現場で様々なものを感じて欲しいと説明をして集まってもらっていた。

開始時刻の30分前に実施を行うかどうかの判断が迫られるが、そこで奇跡は起こるのだ。
開始のぴったり1時間前には雨がほぼ降り止み、ぱらぱらと小雨の状態となっていた。
これならば実施出来ると判断し、慌てて機材をセッティングした。

いざ実施が始まったが、僕は雨の中のこの作品がこんなに美しいとは想像もしていなかった。
昨日の晴れた中での霧ではなく、湿度の高い中での霧は穏やかに拡散して、照明の光に奇麗に反応して行く。
湿度が高いと霧がなかなか消えずに高い所まで上って行くので、とても幻想的な風景が拡がるのだ。
そして雨が止む頃には空気の流れが弱いので、雪もシャボン玉も昨日以上にライトコートの中に入って行って、気がつくと空間一杯に満ちていた。
空気中の細かな水分によって音はいつも以上に遠くまで鳴り響き、途中で軽く降って来た雨が静けさを醸し出していた。
僕はこの作品を過去に何度も実施して来ているが、こんなにもしっとりとして艶やかな姿をこれまで見た事が無かった。

今日は患者さん達の反応も驚くぐらい良かった。
5階から12階の各階でサポーター達が出会った風景を後で毎回振り返って共有するのだが、それぞれの階での報告の中で、患者さん達が自分たちの居る階が一番いい風景が拡がっているとどの階も自慢し出すという報告が印象的だった。
毎日見に来ている人はその時間になると談話室の電気を消して暗い中で眺めているところもあるし、孫に見せたいとその場で携帯電話を手に取る方も居たという。
開頭手術を終えたばかりの患者さんが自分の足で立ち上がって窓辺に寄りかかる姿。
ゲームをしていた子供がふと眼を上げると降って来るシャボン玉に圧倒されてそのまま窓際に上ってしまう姿。
窓辺に30分釘付けになっていた二人のお爺さんは顔を見合わせながら、昨日の風景と今日の風景を比較していた。
どうやら実施の途中で小雨が降って来ていたようだったが、雨までが演出の一部のようだった。

ひょっとすると人が祈る力というのは天候を動かすのかもしれない。
今日はそんなことを信じたくなるような一日だった。
この作品は毎日変化して行く。
それは現象が変化して行くだけではなく、患者さんや医療従事者のまなざしも変化して行くのだ。
そして入れ替わりやってくるサポーターの方々のまなざしも不思議なことに変化して行く。
もちろん僕ら実施者のまなざしも。
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by innerscape | 2014-03-26 23:59 | アート

霧はれて光きたる春2014のレポート初日

本日より始まる。
2012年に赤十字病院で実施した時と同じ事を感じている。
本日のサポーターの方々のまなざしに多くの気づきを頂いた。

サポーターの方々は基本的には僕の講演を聞いたりこの作品を知っていてやってくる方々なので、既に何かの成功のイメージを持たれている事が多い。
しかし何かの正解をそこに求めることは、実はこの作品の本質から離れてしまうのだと思う。
この作品には何か正解や答えがあるわけではないし、感動を僕が提供するわけではない。
僕ら主催者やサポーターの方々は何か感動を与えねばならないと感じたり、何かを提供せねばならないという立場で臨むのは実は少し違うのだ。
僕らは、患者さんや医療従事者といった病院に居る方々と何ら変わりなく、ただ同じ高さのまなざしで奇跡が起こるのを待っているだけなのだ。
奇跡が起これば人はその瞬間に既に感動しているものだ。

ランドスケープアートは僕が作り上げるものではない。僕はきっかけを与えるだけに過ぎず、後は自然がそれを演じるのだ。僕の意図は半分しか介入出来ず、神様が奇跡を起こした時にその美しさは永遠に心に焼き付けられるものとなる。作家の意図などその前では無意味で、観客と一緒に奇跡を祈るだけだ。
だから毎日違う風景がそこに立ち現れる。昨日見た風景と明日見る風景は違うのだ。それはエンターテインメントと呼ぶような意図を持ったものではなく誰もコントロールし得ないからこそ奇跡的な風景であり、だからこそ一期一会のその出会いが貴重なのだ。
今日は現象としての奇跡は起きなかった。明日はどうだろうか。
ただ目の前に常に人が繰り広げる奇跡は満ちあふれている。

これは演出の意図がどうとか言う話ではない。雨が降るか風が吹くか光がさすかは我々人の手ではコントロール出来ないからだ。そのことを分かった上で何かを信じたり、期待を込めて眺めたりすることは、誰かに何か美しいものを与えられることよりも遥かに重要なことであるように僕には思える。
おそらく金さえかければ楽しませることは出来ると思う。しかし確実に成功することが分かっているような作品が必ずしも深い感動につながるとは限らないと思っている。
与える者と与えられる者がわかれることなく、誰も結果が分からず、誰もが成功を願う状況があるからこそ、それが成就出来た時に何か奇跡的な力や祈りの力を感じることが出来るのだ。
それは治療を施す者と治療を受ける者という区別を取り払う出来事だ。
そしてこうした取り組みを実施する者とそれを享受する者との区別を取り払う出来事なのだ。

だから明日は成功しないかもしれない。そして明後日や明々後日も成功しないかもしれない。そのまま成功を見ずに終えてしまうかもしれない。だがそれがどんなに無駄に終えることに見えようとも。奇跡を望むまなざしを捨ててはならない。その姿勢はまるで闘病や生きていることと同じではないのか。
奇跡を目にする人間はそれほど多くはない。しかし奇跡は目にした人の言葉を通じて目にしていない人の心に届けられる。この世のどこかに奇跡があると信じる心こそが人が生きる上で必要なことであり、それは誰かに仕組まれ、演出された風景とは似て非なるものだと感じる。
テレビメディアが数局来ているが、おそらくこの本質に気づいている局は無いのではないかと思っている。なぜならおそらく”病院の中にアートが必要だ”という局所的なメッセージとして報道されるだろうからだ。
本当に奇跡を待つのであればもっとじっくりとそこに身を浸す必要がある。その覚悟が予算的にも時間的にも限られているマスメディアにも問われるかもしれない。
だからそこで語られなかったことやプロセスを僕らは自分たちでちゃんと記録することにしている。
今回はその覚悟のある人たちと一緒に出来る事を心から感謝している。

僕はこの期間中に奇跡が起こる事を僕は信じている。
あなたはどうだろうか。
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by innerscape | 2014-03-24 23:59 | アート

想いの結果が奇跡的な風景を生む

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急性期病院の入院病棟で「霧はれて光きたる春」を行うためには膨大な調整が必要だ。
何しろ24時間稼働中の大規模病院の真ん中で行う空間アートだからだ。
絵を書いて飾ったり、彫刻を設置したりするのとは規模が違って、全ての入院病棟を貫く吹き抜け空間で行う芸術表現なので、膨大な調整毎ととんでもない問題が発生する。
今回は前2回に比べて一番吹き抜けの規模が大きい。
それと比例して、困難な状況がたくさん起こってくるのだ。

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毎回必ず本番を実施するまでの期間に現場テストを行うのだが、今回の一番の問題は屋上の柵の問題だった。
屋上の四周の片側にある柵が邪魔でシャボン玉を発生させる装置を設置する場所が取れずに居たのだ。
この柵は簡単に取れない上に、3mもあり、撤去するにも一部を切断するにも膨大な費用がかかる。
そしてこれをかわす形で足場を設定して吹き抜け内部に作業スペースを確保するのにも膨大な費用がかかるので八方ふさがりだった。

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それだけではない。
病院の吹き抜けには大体、大きな吸気口が穴をあけている。
前回の赤十字の時には13階に吸気口があったため、下から上げる霧の影響はほぼ無くなるのでそれはクリアしていた。
しかし今回は4階に院内への吸気口があるため、霧の発生が問題になる可能性があるという指摘もあった。
中央の吸気口なので手術室に霧が入っていき真っ白になるとオペに支障が出るからだ。
成分的には何の問題もないが、視界が遮られるのは問題だ。

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そうした問題を一つずつ丁寧にコミュニケーションをはかり、表現を微妙に変更しながらクリアしていく。
僕ら作り手だけでなく、病院の職員の方々も一緒になってその問題の解決に向けて調整をしていくのだ。
僕はこのプロセスに意味があると思っている。

最初は僕がイメージした風景なのだが、それが途中から全員が共有する未来の風景になるのだ。
僕が想像したことが僕だけの想像ではなく、職員やテクニカルスタッフ含めて全員が想像する未来の風景になるというこのプロセスの中に、共同である一つのランドスケープを作るという本質があるように思える。

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これは何も現場で作っている人間だけではない。
今回はこの風景を作るための資金集めの段階から、多くの方々とともにしている。
毎日毎日、多くの方々がクラウドファンディングに支援して頂き、そしてクレジットカードを持っていない方は送金してくれる方もたくさん居た。
資金面で援助は出来ないけど、情報拡散にお手伝い頂いた方もたくさん居たし、応援メッセージもたくさん頂いた。
この数年の間、どんな小さな講演会や勉強会でも断らずに出向いて行って話をしていたが、そこで出会った心あるたくさんの方々から頂いたご協力の申し出は、みんなで一つの奇跡的な風景を作るプロセスなのだ。
風景というのは、ある日突然出来るわけではない。

僕の想い、そして皆さんの想いという原因があり、その結果として風景が表現されていくのだ。
この風景が出来る原因は僕も含めた多くの人々の想いだ。
形や表現は結果に過ぎない。

想いを形にするクラウドファンディングの仕組みはあと10日
10日の間にある一定の想いがそこに集まらなければ、皆が思い描いている風景は現れないかもしれない。
この仕組みでは、3月20日の23時までに目標金額に達成しないと決済が不成立になりこれまでのご支援も全て返却されることになるからだ。
だから今回は目指している総予算の半分以下としてクラウドファンディングの目標金額を設定している。
あまりに金額が高いと達成出来ない可能性があるからだ。

もしこうした風景に可能性を少しでも感じて頂けるのであれば、是非とも想いを風景に出来るようにご協力いただければと思う。
そしてそうした方々が増えていけば、いつか医療現場においてこうした芸術が見られることが当たり前の世の中になるのだと思う。
僕らがそうした未来を選択するかどうかは、僕らの想いにかかっているのだ。


医療の現場で空間アート「霧はれて光きたる春」を開催したい!
クラウドファンディングサイトREADY FOR?

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by innerscape | 2014-03-09 23:25 | アート

医療と芸術の未来を考える

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3月2日に「医療と芸術の未来を考える」というイベントを行った。
場所は大阪府の江之子島文化芸術創造センターの4階でそれほど大きな部屋ではない。
このイベントを開いたのは、今度大阪府下の急性期病院で実施しようといている拙作のインスタレーション「霧はれて光きたる春」を行う前に、この作品をなぜやるのか、そしてどこに向かうべきなのかという方向性について多くの人と共有や確認をしておきたかったというのが理由だ。

当日イベントの内容としては、18時からメディア向けに記者会見を行い、19時からは前回の大阪赤十字病院での同作品の取り組みの記録映画を上映した。
そして19時半からは大阪市立大学医学部付属病院に努める山口悦子先生との対談を1時間弱行った。
イベントの告知期間はおそらく1週間ぐらいしか無かったと思う。
でも50名近くの人々がやってきてくれて、会場は立ち見が出るほどの満員だった。
テレビメディアも含めて、こうして皆さんがご関心を寄せて頂いているという事実に驚いていると同時に、こうした取り組みの可能性について気づかされる事が多い。

元々僕はランドスケープデザインを専門にしていたため、他の多くのアーティストのようにアトリエの中で作ることがあんまり無い。むしろ様々な現場の中で問題を発見しながら、その場に応じた素材や手法で風景(ランドスケープ)として表現していくのが仕事だ。
だからどのような現場でもその表現を見つけて行く事は出来るし、逆に言えば一度した表現が他の現場で通用するとは限らない。
なぜならば現場ごとに“問い”が違うからだ。

この作品は元々は大阪市立大学医学部付属病院のために2010年に僕が作った作品だ。
その以前から、市大病院の依頼でアーティストとして院内でアート作品を作ることを依頼されていたが、3つ目に作った作品だ。
2007〜2008年は小児科病棟待ち合いで作った「タングラムスケープ」、2008〜2009年は入院病棟の患者さんが訪れる院内6階の空中庭園で作った「メッセージオブウインド」、そして2009〜2010年にこの「霧はれて光きたる春」という順番だ。
この作品は10階分ほどの吹き抜け空間に霧やシャボン玉という現象を出現させて、人々のコミュニケーションがある風景を作るという単純な手法だが、これはこれでなかなか試行錯誤を経て作っている。
元々は患者さんに向けて作っているというのが出発点なのだが、そこからずっと掘り下げる中で見えてくる問いがあるのだ。

僕はその場所で風景を作っているという表現の性格上、同じ作品を別の場所で再び試みるという機会はほとんど無い。
しかしこの作品は継続してもう気がつけば3回目を行おうとしている。
なぜ継続するのかというと、どこの医療現場を見てみても、その風景には同じような課題を抱えていることが現れているからだ。
その問題をずっと考え続けている。
そして今回はそれを多くの人と一緒に考えたいと思っている。

今回はクラウドファンディングという形で多くの方にサポートして頂いている。
それは単に資金としてサポート頂いているということ以上の意味合いを持っている。
こうしたサポーター達は、この作品を通して「医療と芸術との未来」を考えている一人の主体なのだ。

僕らは全員が入院患者なる可能性を持っている。
そして、自分の家族が入院患者になる可能性もある。
そんな大変な状況になった時に、どういう風景と出会いたいのだろうか。
どういう風景が救いになるのだろうか。
そうした風景をつくることに芸術からどのような手を差し伸べられるだろうか。

この取り組みを通じて、そんなことを一緒になって考えてくれる主体として僕はサポートしてくれる人を捉えている。
あと2週間ほどで、このクラウドファンディングの仕組みを利用したサポートは終了する。
システム上、定められた3月20日という期間内に目標金額まで達しない場合には、このサイトでのプロジェクトは不成立ということになる。
そうなれば実施は非常に厳しい状況に陥る事になる。

あと2週間を前に、ようやく半分まで来て、現在88名の方々がメッセージとともに具体的な形でこうした未来を選択している。
その事実に僕は感動している。
ひょっとすると期日内に目標金額に達せずにいて、このプロジェクトは二度と日の目を見る事はないかもしれない。
しかし、こうして具体的にサポートすることを通じて多くの方々と繋がれたという事実は消えない。

この取り組みを今回僕は自分だけの表現行為ということから、こうしてサポートしてくれる方々と一緒になって作って行く風景に変えたいと考えている。
だからこのプロジェクトがもし実現すれば、サポーターの皆さんは胸を張って自分が生み出した風景だと思ってもらいたい。
あと2週間、この仕組みを通じて仲間が増えてくれる事を願っている。

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by innerscape | 2014-03-02 19:00 | アート

想いと表現

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何かの想いを人に伝えるというのは本当に難しい。
人の心の中は直接見えるものではないし、自分の心の中も誰かに触ってもらうことも出来ないからだ。
だから人は言葉や言葉ではないものや身体を使ってあらゆる方法で自分の想いを伝えようとする。
その表現行為そのものが文化と呼ばれるものだろうし、その表現が誰かの心をふるわせるのであればそれは芸術と呼ばれるのかも知れない。
しかしそれが芸術たりえるかどうかというのは結果であって、それを目的にすることは本質から外れた行為だと本当は思う。
人と人とは心を直接交換することが出来ないから、そこに断絶と大きな哀しみが横たわっている。
だからほんの一瞬でも誰かと心が繋がった瞬間に人は幸福を感じるのだろう。
そういう風景を僕は美しいと思う。
それが芸術と呼ばれようとそうでなかろうと、そこには尊い何かが流れているのだ。
僕は表現の力がその尊い何かを生み出すのではないかと信じているし、その表現というのは何も自分だけで出来るとは全く思っていない。
表現というのはその人が心の中に抱いている想いの結果であって、心の中が貧しければその表現は結果として貧しいものになるのだろう。
だから何かを表現する人にとって心の中を常に磨いておくことはとても大切なことだと思っている。
今僕は大きなことにチャレンジしようとしている。
それは自分の想いだけでは出来ず、多くの人々の想いを共にすることで実現する。
だからこそみんなが寄り添える想いとして自分の心の中を磨いていくことがとても大切だ。
何かの想いを人に伝えるというのは本当に難しい。
でも多くの人が同じ方向にまなざしを向けた時に、その想いは他の多くの人々の伝わるのではないかと信じている。

もしその想いに共感して頂けるようであればどうぞよろしくお願い致します。



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by innerscape | 2014-02-22 11:17 | アート

私“flw moon”が日々の生活の中で感じた事を見つめ直し記録します。
心のフィルターを通して見た日々のシーンをひとつづつ電脳に記憶させることで、果たしてどんな風景が見えてくるだろうか・・・?

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