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私的風景の電脳記録
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カテゴリ:アート( 46 )

風景に出くわす

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カフェトークという会がある。これはアーティスト川俣正が色んな人と話しをするトークショーで、今回は53回目ということでCSCDの共催イベントとして哲学者の鷲田清一氏と話をされた。
鷲田さんと川俣さんの話の中で、興味深い話は色々とあったのだが、面白かった話題の一つに美術の二つの方向性というのがあった。
美術には大きく二つの方向性があったという。一つは全く意味を排除し、抽象化していく純粋芸術という方向性。これは箱しか作らないドナルド・ジャッドのようなミニマルアートなんかに見られるアプローチだ。
もう一方では社会と徹底的に関わっていくアプローチ。ヨーゼフ・ボイスやシチュオアシオニストなんかがそれにあたるんじゃないかと思う。
それを言い換えると何も書かないアートと何でもありのアートといえるのではないかという話しがあった。
鷲田氏はファッションでも同じことが言えるという。
意味やらしさを拒絶するファッション、意味づけ0のヨージヤマモトに対して 
何でもありのジャン・ポール・ゴルチェとなる。
しかしよく考えてみると0へのベクトルと、無限へのベクトルは正反対を向いているかのように見えるけど、実はそうではない。
それぞれの人が自分なりの解釈、多様な読み取りが出来るように、意味を排除して抽象化するという手法は、正解がないため実は何でもありの状況と同じなのではないだろうか。
意味がなさすぎるということと、意味にあふれすぎていることは、ともに僕たちの頭の中を判断停止の空白状態にしてしまう時があるような気がする。
情報過多の中で何かを信じることの出来る人と、抽象的なものを見て何らかの解釈をする人は似ていて、異常に何かに関心が高いか、読み取り能力が高いか、かなり自我の強い人間のような気がする。
たいていの人はそれほど高い関心や読み取り能力を持って作品や世の中を見ているわけではない。
僕達がよく設計しがちである、『何をしてもいい場所としての多目的広場』でも同じ状況が言える。みんなのために作りましたよ、なんでもしていいですよ目的で特徴なく設計された多目的広場は、実は誰も主体的に関わることが出来ない無目的広場に変わってしまうことが多い。
目的や対象が限定されている方が必ずしも良いとは限らないが、色んな人がその場所へ関わるためには、やはりどこかに誰かをつなぎとめる『引っかかり』が必要なのではないだろうかと思う。
それは空間的なひっかかりでも、モノによる引っかかりでも、意味づけを与えることによるひっかかりでもいいのだが、人をそこへ繋ぎ止めておくためのフックを設定することで、人の関わりが生まれてくるように感じる。

機能をカタチにするということでスタートしたモダニズムが結果的に意味を排除した抽象的な様式として世に送り出され、そうした様式への反動として出てきたポストモダンが意味100%の様式という極端なアンチだったが、実は僕達はその間で生きているんじゃないかなという実感がある。
意味や使い方を押し付けるわけでもなく、排除するわけでもなく、それぞれなりに読み取れるような、中間の方法はないだろうかという模索が我々マゾヒスティックランドスケープをはじめ、世の色んな所で試されようとしている。
アーティストの川俣正氏の試みもそうした動きの一つなのではないかと前々から注目していたが、話を聞いているうちにその確信は強まった。

自分の頭の中のみで考えたことの不毛さ。単純に感性だと言って表現したことのつまらなさがどこかにある。
それに気づいたのは大学院でデザインの勉強をしているときだった。
一つは自分の想像力の至らなさや、能力の限界と言うことももちろんそうなのだが、それ以上に既に結果が予想されてしまっていることを追いかけていくことにつまらなさを覚えたからだ。
だから川俣氏の言うことに共感できる。
彼も結果を想定して何かを製作するのではなく、結果に『出くわす』という言葉で説明していた。
サイトスペシフィックや現場性という言葉も使っているが、もうこれはほとんどランドスケープ教育の中で耳が痛くなるほど聞かされている言葉なので、僕は『出くわす』という言葉の方に反応した。
設定されたり意図されたりするのではなく、たまたま『出くわし』てしまう。そのことの刺激や気持ちのリアクションが新鮮に感じる。
鷲田氏はそれを身体性から捉えている。現場に行き、そこで感じることを通して体が理解するという言葉で語っていたのが印象的だった。

現場で得た情報や条件に全てをゆだねる態度、現場での状況を整理すれば答えが出てくるという態度。
これは建築の分野でも、特に最近言われていることで、作家の恣意性や表現性だけで出来た建物のつまらなさに対してのアンチテーゼでもある。
その場所、その環境から導きだされた必然的な回答が形態に反映されて欲しいと願う建築家たちが増えてきているのは事実だ。
そのときの現場性という中にその地域に住む人々まで含めて捉えられる。
そこに住む人も含めて自分の製作行為にアートに関係ない人を巻き込むことに川俣氏は興味を覚えるという。
作品を制作するというよりはむしろ製作する行為そのものが作品であり、そこで起こるコミュニケーションこそが作品の中身であると言う考え方である。
これを一重にプロセス主義とくくってしまっていいのかどうかは分からないけれど、建築ではちょっと前からワークショップという手法が盛んに叫ばれている。しかしアートでは川俣氏をはじめ注目を集めだしたのは最近のような気がする。
偏見といわれるかも知れないが、やはり『作家性の呪縛』が大きいカテゴリーほどプロセス主義へ移行するのは時間がかかっているように見える。
アートの分野ではまだまだ作品主義と言うのが残っているからなんだろうか。形の残らないようなプロセス、あるいは写真に残らないような作品、そして自分が手をつけていないものをアート行為と呼べるのかどうかということに行き詰っているように見える。
アートや建築は図にあたる部分である。何かを作ったこと、自分が作成した証をこれ見よがしに提示することで成り立っている。つまり出来上がったものが全て、結果が全てという世界だった。作る過程に意味があるとか言ってこなかったし、自分が作ったものがプロセスだなどといって誰かに改変でもされようものならカンカンになって怒り出しただろう。
しかしランドスケープデザイナーは大きいスケールの作品を扱ってきたためもともと作家性が希薄で、本質的には地を作ってきた職業でもある。
作品が大きいが故に個人のエゴや表現だけでは成立せず、多くの人々との共同や参加のプロセスを経て風景を作り育てていくというのは古くからやってきたことでもある。
川俣氏のやっていることもまた、そこに風景を出現させることなのだと思う。場所と人がコミュニケーションを図る、人と人がコミュニケーションを図る風景を出現させることが彼の作品なのだと思う。
そうだとした場合に我々のしている事と、川俣氏がしていることには差はないのかもしれない。
もともと風景なんて誰かがデザインしてきたわけではないし今後だってそうなんだと思う。でもある時期に、やはり誰かが風景を違った方向に導かなければいけない時があると思う。
そんな時にアーティストやランドスケープデザイナーが出くわされる風景を設定する必要があるのではないだろうか。
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by innerscape | 2005-07-14 00:24 | アート

視覚に依存する我々

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昨日、東大情報学環で僕と共にプレゼンテーションされていた東京都写真美術館の森山さんからご招待をいただいたので『超(メタ)ビジュアル展』を見に行ってきた。
森山さんは日本でも数少ない映像のキュレーターで、建築家の森川嘉一郎氏とともに『オタク展』などを開催したこともある方で、昨日のプレゼンテーションの内容もとても面白くて大興奮してしまった。
4月30日から行ってきたこの展覧会は今日が最終日ということで、ご招待にあずかったのは本当にラッキーなことだと思う。
初めて訪れたのだが、東京都写真美術館は恵比寿ガーデンプレイス内にある。

さすがに最終日ということもあり、人がごったがえしていてなかなか前に進めずに居ると、どこかで見たことがあるような人たちを見かけた。
よく見ると、以前kavcaapの時にお会いしたダムタイプの高谷史郎氏と高谷桜子氏だった。
今度この東京都写真美術館でダムタイプの作品を展示するのだが、その打ち合わせにいらしていたらしい。お互い関西在住なので、東京のこんな場所で出会った事にしばしの間、驚きと喜びを分かち合った。

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『超(メタ)ビジュアル展』は
可視テクノロジーが高度化した今の時代らしい展覧会で、「視覚」に徹底的にこだわった展覧会となっている。
「ヴィジュアライズすること=視覚への欲求」が私たちをいかにつき動かしてきたか』ということを5つのサブテーマを通して紹介していて、視覚とそれを超えるメタビジュアルの可能性を広げる作品が新旧問わず集められている。実にパラパラマンガから最新のハイテク映像までラインナップは多種多様である。
5つのサブテーマの分類とその手法がとても面白く、ランドスケープデザインを初め、色んなデザインにも応用できそうなので書いてみる。
[ イリュージョン系 ]
歪める/変容させる/コラージュする/映す・照らす/繰り返す
[ アニメーション系 ]
動かす/止める/ずらす/色を変える/つかまえる
[ 3Dバーチャル系 ]
とりまく/飛び出す/触れる/リアルにする/出現させる
[ サイエンティフィック系 ]
拡大する/縮小する/探索する/高精細にする/音をさぐる
[ アーカイブ系 ]
写す/タイムスライスする/記憶する/蓄積する/伝える

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ジブリ三鷹の森美術館の映像装置なども担当されているメディアアーティスト岩井俊雄氏などの作品もたくさんあってとても面白かった。
じっと扇風機の羽を眺めていると、羽がある一定の速度を超えたときにゆっくりと回っているように見えることがあるが、その錯覚を使った作品などもあった。
色んな作品があったのだが、中でも僕が感動したのは、触れると影が飛び出す作品だ。
丸い台の上にフォークや、ナイフやライターなどの小物が置いてあって、それに光をあてている作品なんだが、先端に触れると光に照らされて落ちている影から人の影が飛び出したり、小鳥の影が飛び出したりする仕組みになっている。

この展覧会は本当によく出来ていて、我々の知覚がいかに視覚に依存しているかがよく分かる。
その視覚を支えるシステムがあって、それが巧妙に隠されているということを知りながらも、あるいはその仕組みが実はとても単純で錯覚に依存しているということを知りながらも、我々は目の前で展開されるビジュアルに感動し陶酔してしまうのだ。
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by innerscape | 2005-07-10 00:31 | アート

日常と非日常の接点

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4日間神戸アートビレッジセンターで行われたKavcaap2005未来のドキュメントが終了した。
最終日には、『S/N』の公演をダイジェストにまとめた作品の上映とトークセッション、そして『木村さん』の上映とトークセッションがあった。
『S/N』の方は総合プロデューサーのブブ・ド・ラ・マドレーヌ氏を中心に浅田彰氏、ダムタイプ高谷史郎氏、ジェンダー論の溝口彰子氏が語り合う。
僕は今回のこの仕事に関わるまでは『S/N』と言う作品もダムタイプというアーティストグループも知らなかった。
これは後になってブブさんから聞いた話しなのだが、実行委員会側からは逆に『s/n』やダムタイプについて何の偏見も予備知識もないような僕のようなクリエイターが今回の展示に関わることを重要に感じていたようである。
ダムタイプは様々なパフォーマンスを行っているが、その中でもこの『S/N』に関しては世間での扱いが特別に感じる。
それは単なるショーや表現としての価値を超えて、エイズやジェンダーやセクシュアリティやマイノリティの問題を問い直したからだと言われている。
通常のショーは見ている分には安全である。
全てが演出であることを前提に見ていて、自分のアイデンティティが脅かされることはない。しかし『S/N』はHIV感染者や障害者、外国人、ホモセクシュアルなどが演出の中で本当のカミングアウトを行うので、見ている側からすると、どこから現実で、どこからが演出なのか分からずに翻弄される。
カミングアウトするということはアイデンティティの問題にもつながるが、彼らは問いかける。観客として座っているあなたは何なのかと。
そんな現実を突きつけられる怖さを持った作品だと思う。
しかし純粋にショーとして楽しめないかというと決してそんなことはなく、幻想的なステージで繰り広げられるパフォーマンスは僕たちを日常から連れ出してくれる。
舞台には高くそびえる横長の壁が立っている。その壁の上で次々とスピーディに出来事は展開され、壁は演じるためのステージであると同時に、映像を映し出すスクリーンにもなっている。
ハイテクなイメージの音と光の中、演者が次々と壁の反対側へ倒れていくパフォーマンスは10年たった今見ても色あせることはない。
非日常なショーを出発点に日常の僕達の問題を照らし出している作品だと感じた。

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一方で『木村さん』の方は木村さんという個人とアーティストの高峰氏の間にある日常を映し出しているが、それは非日常でドラスティックな問いかけを含んでいる。
『木村さん』は森永砒素ミルク事件で障害者となった方への性的介護の話である。
アーティストである高峰氏は障害者の木村さんを介護するのだが、彼の性的介護まで引き受けている。その一部始終を記録した映像を使ってパフォーマンスをする作品である。作品では背後に二つのスクリーンがあり、そこに木村さんと高峰氏の手や眼が映し出されている。その映像を前に時折、高峰氏が頭でガラスを割っていくというパフォーマンスである。
この作品は内容がドラスティックなだけに色んな見解が飛んでいるが、僕自身はこの作品について自分の中でうまく整理できていないので、書きながら整理していければと思う。
まずこれは高嶺氏が木村さんを普段のように介護している中で、たまたま切り取られて作品化されたものである。
高峰さんがこのビデオを撮影したのはほんの偶然で、そこに映し出された映像が彼にとって何ともいえない良い感じだったことにこの作品の出発点はある。
彼がこのビデオを撮影してから世間に発表するまでの間、3年の期間を置いているのだが、きっとそこには色んな想いがあったに違いない。
たとえ最初の動機がビデオの持つ空気感を多くの人と共有したいという想いであったにせよ、障害者である木村さんをネタに、高峰氏が作品を作って発表することは、ある種の搾取と受け取ることも出来る。

彼はパフォーマンスの中で映像を硬質な感じにしようと述べているがどうしてなのだろうか。
生々しいリアルな現実では作品にならないからなのだろうか。それとも世間への言い訳や木村さんへの罪悪感が、作品の質感をクールにすることで果たされると、そう感じたからだろうか。頭でガラスを割るパフォーマンスは彼への贖罪なのだろうか。

木村さんはこのビデオを公開することを快く認めてくれたと作品の最後で述べられている。
何となくそれが僕は分かる気がした。
高峰氏と木村さんの間には二人にしか分からないプライベートな気持ちのやり取りがあるのかどうかは僕には知る術がない。しかしひょっとすると高嶺氏と木村さんの間に流れているのは、二人が過ごしている日常とは少し違う空気があるのかも知れない。
高峰氏は“ただの手”の役目を担わされているだけの可能性があるからだ。
木村さんにとっては、自分の感覚を刺激してくれるのは別段、高峰氏の手でなくても良かったのではないかという理解である。

無名の手__________________________________。
奉仕してくれる手としてあればいい。
それは『木村さん』の最後の高笑いにそれは象徴されている。
ラストシーンで高らかに笑う木村さんの顔には、高峰氏の心中などを気遣う様子などみじんも見えないように僕には感じられた。それはただ絶頂を楽しむエゴイスティックな欲望が漂うだけである。
もしそうだとするなら、高峰氏が『木村さん』を公表し、木村さんをネタに搾取することの何がいけないのだろうか。
互いにエゴイスティックな欲望でつながっている二人の関係をプライベートと呼べないのだろうか。
木村さんはそれを知っていたから許してくれたのではないだろうかと僕は思う。
いつも繰り返される日常的な事柄の背後には実は非日常な関係性がとぐろを巻いている可能性が垣間見える。

非日常を出発点とした日常への問いかけと、日常を出発点とした非日常の覗き見。
二つの作品から感じるのは日常と非日常の接点は実に危ういということで、その接点にこそアートの可能性があるように思う。
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by innerscape | 2005-07-03 00:46 | アート

ハイテクを支える優しい時間

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Kavcaap2005の展示のイメージをプレゼンテーションするためにダムタイプの初期からのメンバーである高谷史郎氏へ会いにいってきた。

ダムタイプは1984年の京都市立芸術大学の学生を中心に結成されたアーティスト集団で、美術、音楽、映像、デザイン、建築、ダンスなどの枠を超え、ハイテクなパフォーマンス芸術を創っている。
彼らが繰り広げるパフォーミングアートの中でも、今回kavcaap2005で展示する作品は最も有名なS/Nという1994年のパフォーマンス作品だが、事前に見た映像では今でもその新鮮さは全く衰えないほどのクオリティを感じた。

映像で作品を見ていたので、どんなハイテクなオフィスなのかと興味深々でいたがダムタイプオフィスは京都今出川の街中に溶け込むようにあり、廊下のつくりや階段などもいい感じに古びて時間が蓄めこまれているようだった。

海外から戻ってきたばかりと聞いている高谷氏は、切っ先の尖った作品から、緊張感あふれる人柄を想像していたのだが、とても気さくな方で、メディアで見たときとは少し違う印象を受ける。
高谷氏は1999年に坂本龍一のオリジナルオペラ『life』で製作した映像を初め、数々の映像作品を手がけるアーティストである。今度も京都造形芸術大学の特別講義で坂本氏とライブパフォーマンスを行う予定なのだが、プラハから戻ってきてバルセロナへ行くまでの瞬間を狙って訪問した我々をこころよく迎えてくれた。
今回は白い布で包まれ、つながれた空間を作りたいというコンセプトを伝えながら少し高谷氏と会話を続ける。
興味深そうに模型を眺めながら頷く高谷氏を見ながら、今までもこのオフィスでものを創っていく際にこうしたやりとりが幾度と無くなされたのだろうとふと思った。
昼下がりと言うこともあって、大きな窓からは午後の光が差し込んでいるのだが、とても柔らかい。
プレゼンテーションを無事に終え、オフィスを後にした僕は、ダムタイプのハイテクなパフォーマンスはきっと色んな切磋琢磨があったにせよ、結局はこうした優しい時間が支えていたんだなと、ふいに何の根拠もなく納得していた。
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by innerscape | 2005-06-10 21:20 | アート

アートをシンプルに考えてみた

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アートが街にあふれているという表現は誤解を招きそうだ。
まるでアートというものが街の到る所に存在しているかのようである。
しかしあるかないかという事ではないのではないのかね。
感じる、感じないの問題なのでは。
街にあるのはアートではなく、絶え間なく移ろっていく事物と、それを感じている人間の感性なのだと思う。
ものに触れて感じる。出来事に驚いたり感動したりする。
今まで注意を払わなかったものを意識するようになる。
何かに出会い、たまたま感性がそこに開かれる。
その積み重ねで少しづつ自分の感性や考え方が変化していく。
それは僕達が多かれ少なかれ毎日していることなのだろう。

アートにもし何かできるとしたら、いや、正確に言うとアートと呼ばれる行為が何を目的にしているかというと、そうした感性を開いたり、思考の幅を広げたりすることなのだろうと思う。
ある事物にクロースアップしてみる。
ある事物とある事物を出会わせてみる。
ある事物を強めてみる、弱めてみる。
ある事物を隠してみる、際立たせてみる。
ある事物を集めてみる、離してみる。

そういう行為をすることで、見えてくるものや感じるものがあるかもしれない。
アートをシンプルに考えてみると、そうやって様々な方向に感性と思考を開くきっかけを与えることなのかも知れない。
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by innerscape | 2005-06-02 21:24 | アート

アートをめぐる問題

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毎週木曜日のCSCDはメンバー全員が集まる日である。
今までは各メンバーがどういうバックグラウンドを持っているのかをプレゼンテーションしてきたのだが、オープニングイベントが近づいてきたことや、各チームのプロジェクトを進めないといけないということもあり、一旦自己紹介は中座して、今日はミーティングをすることになった。

CSCDには三つの部門がある。
医療現場におけるコミュニケーションの問題に取り組む「臨床コミュニケーションデザイン」。
災害現場や科学技術の安全性についての問題に取り組む「安全コミュニケーションデザイン」。
そして僕が所属している「アート&フィールドコミュニケーションデザイン」である。
ぞれぞれの部門において、どんな問題意識のもと、どう取り組んでいくのかを見定めて進んでいかないといけないのだが、アートについては他の二つと比べて具体的な現場を持っていないため、問題意識の共有という最初の段階で速くも僕達の間でディスコミュニケーションが起こっていた。
僕自身はランドスケープという現場を持っているので、そこにおける具体的なディスコミュニケーションについては理解しているのだが、それをアートという一般化した形で語ることは、いささか違うのではないかと感じていた。

アート&フィールドには様々な人がいる。
美学・造形学/アートマネージメント/社会学/メディアデザイン/ランドスケープ/グラフィックデザインなど異なる領域の人々から構成されている僕達のチームでは「アート」という言葉の解釈と「アートの役割」について、各メンバーそれぞれの意見が違うのは無理の無いことだろう。その違いからコミュニケーションは出発するのである。
個人的に感じたのは、特にアートとメディアの関係性についての解釈が大きく異なっていることだ。これは各人がイメージしているアートが異なっていることとも関係している。
美学の領域では現代アートは解釈や定義が定まっていないため、研究の対象とされていないらしいのだが、メディアアートはほとんどが現代アートの領域になる。
アートとメディアは異なるものであるという意見、アートはメディアだという意見などをめぐる議論もされた。
その他には、
「アートは自己表現なのか、パブリックなものなのか」
「アートは人を幸せにするものなのか、違和感や痛みを与えるものなのか」
「アートは日常に偏在しているのか、非日常であるのか」
「アートは美術館の中で特権化しているべきなのか」
「アートは問題提起するものでデザインは問題解決するものなのか」
「アートは普遍的なものなのか、特別なものなのか」

などなど焦点がなかなか定まらないまま時間が過ぎていく。

以前建築でも同じような議論がされたことがある。「建築とは何か」という定義の問題である。
その議論が行き詰ったときに、建築家の原広司氏は「建築とは何か」ではなく、「建築に何が可能か」を考えるべきだと述べたという。
色んな解釈がされるようになり本質が見えなくなってしまった時には、そのものが持っている可能性について述べることで逆に本質をあぶりだそうとする姿勢が重要なのだろうと感じる。
そういう意味で、「アートとは何か」ということを定義することから議論をスタートさせるとどんどん深みにはまっていくので、「アートに何が可能か」を考えることでぼんやりと全体像を描いていく方向へ転換した方がよさそうだと思う。
このあいだお会いした建築家の曽我部昌史氏は「建築に何が可能か」という言葉を受けて「建築家に何が可能か」という主体に置き換えた言葉を述べていた。

デジタル数字を使ったアーティストの宮島達夫氏は「Art in You」という言葉を使っている。
少し長くなるが、安東幸一氏との対談の中での彼の言葉を引用してみたい。

『大体、アートって見る人がいなければ成立しないわけですから。この点はけっこう誤解している人たちがたくさんいるんだけど、僕はそう考えている。70年ぐらい前に、アインシュタインとタゴールが対談していて、美とは何かという話題で、アインシュタインは「美とは個々の人間とは関係をもたず、絶対的に存在している」って言うんです。一方、タゴールは、「美は、それを見る人間を通してはじめて意識化され、実現化される。美だけが単独に存在しているわけではない」という考え方だった。「見る人がいなければ、アフロディテのヴィーナスだって、ただの石ころじゃないでしょうか」と。で、僕はどちらかというとタゴールの方の立場。見る人間がいて、はじめてリアルな作品になる、アートとして成り立つ。だから、ある意味で、観客は創造する側でもあるわけです。こういう考え方は、ここ3年ぐらい「Art inYou」という言葉で表現しています。』

なるほど。僕にはとても分かりやすい言葉である。
この考え方は観察者の存在抜きに考えることができない量子力学のスタンスや、経験されたことが世界を構築していくという哲学/現象学のスタンスとほとんど同じである。
このように対象物と観察者の関係性の中でアートを語っていくことで少し整理されるように思う。
さらに宮島氏はこう続ける。

『「Art in You」、つまりアートというのはあなたの中にあるということなんです。すべての人たちがもともとアート的なるものをもっているから、アートを感じることができる。本当は、見る人は、自分の中にあるアート的なるものを、作者や作品を借りて見ている。だから「アートは自分を発見すること」になるのだと思う。』

ここでアートはほとんど自分を発見するためのメディアというように受け取れる。アートを媒介にして自分と作者、あるいは自分と事物の関係性や差異を発見するのである。

『本来アートとは、そういうものじゃないかなと思います。セザンヌの絵を見て感動して、りんごに愛着を感じだしたりとか、何かひきずりますよね。その変容は、生活自体を豊かにする。今までアートの多くは、美術館というホワイトキューブの中だけで完結していた世界だったけれども、そうではなくて、人間と生活空間まで考えた作品づくりというのは可能なんじゃないかと思っています。』

アートに触れることで、良くも悪くも何らかの影響を受ける。
豊かになるかどうかは分からないが、今まで感じていた世界の見え方が少し変わる。それは個人的な体験なのかもしれないけれど、ひょっとすると誰もが考えていなかった見方を提示しているかもしれない。そうなると社会全体で共有しているような価値観が感覚的にゆさぶられる。そんな力を持っているのかもしれない。
彼は自然や風景に対してはこのように述べている。

『うーん、たとえば自然は、そのままでは膨大に広がっているカオスなんですね。宇宙空間にポンと放り出されて右も左もない、自分の位置すら分からないという。それに人間がフレームをつけることで、「自然」というふうに見えてくる。「自然」はもともとあったのではなく、人の努力で発見されて、美として意識できるんです。それで、その時々に、カオスをフレームづける人間がいたんですよ。』

この考え方は、自然が人に見られた瞬間に人工的なものになるという考え方や、あるいは「パンセ」に書いてあるように自然はその地域の文化が共有している習慣によって規定されるという話にもつながる。このあたりは大阪大学の副理事である哲学者鷲田清一氏が「モードの迷宮」でも引用されているので、少し話したいところだが。

宮島氏はアーティストの役割についてはこう述べている。

『アーティストは、常にその時代時代における、日本再発見のフレームづくりを目指さないといけないんです。なぜなら、自然の状況は刻々と変わっていく。今の日本に雪舟的な風景や浮世絵的な世界なんてあり得ないわけです。だったら今、自分たちが暮らしている日本の風景、あるいは風土をもう一回フレームづけて再発見しなければならない。そのときの自然というのは、工業製品やプラスティック、インターネットも含まれた、日本の現実なんです。そのリアルなものを、どうフレームづけて出していくかということを考えていますね。』

ほとんど僕が考えるランドスケープアーキテクトの役割の一つと同じである。フレームづけの話は、僕達が場所に「云われ」を与えるだけで場所の意味合いや見え方を変えれないかと試みている「イワレ捏造開発機構」という提案と同じスタンスである。
アーティストはさることながら、ランドスケープアーキテクトも場所の物理的環境を改変する技術を磨くと同時に、一方でこうした環境の見方やフレームをどう設定するかということに目を向けなければならない。

宮島氏の言葉に補足して述べるのならば、発見のフレームを論理や言葉でデザインしていくのは、おそらく臨床や科学技術コミュニケーションで目指されているミッションと共通している問題で、それに加えてアートが独自性を持っているとすれば、それは感覚的にゆさぶることなのだというように理解している。
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by innerscape | 2005-05-26 21:35 | アート

私“flw moon”が日々の生活の中で感じた事を見つめ直し記録します。
心のフィルターを通して見た日々のシーンをひとつづつ電脳に記憶させることで、果たしてどんな風景が見えてくるだろうか・・・?

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