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私的風景の電脳記録
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郊外の抜殻

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午後から「郊外の安楽死研究会」、通称サバケンのフィールドワークのため、神戸市須磨区の名谷駅に向かった。
メンバーが数人来る予定だったが、急用や連絡がつかないメンバーなどがいて、結局、僕と山崎氏の二人で歩き始めた。
名谷の駅前には商業施設を含めた複合センターがあって、休日ということも手伝ってにぎわっている。
ここだけ見ていると、郊外から人がいなくなるなんてことは想像できないが、人口は後数年後に確実に減少し始める。一方で、都心には大型のマンションが建ち始めている現状を考えると、確実に郊外から人が減っていくのだろう。
急に無人になった施設の抜殻が目に浮かんでくる。
そんな大きな流れに対して僕達に何ができるのだろうかを考えながら駅前から次第に離れていった。
名谷駅の周辺には立替が住んだ高層住宅もいくつかは見られるが、多くは一時に大量供給された公団住宅で、まるで工場か何かのように見事にずらっと並んでいる。
太陽をたくさん受けられるように南を向いて平行に配置された建物はベランダ越しに人の生活の様子が映し出されているのが普通である。
しかし駅からまだそれほど離れていない場所にも関わらず、南面したベランダには全体の3割ほど黒いビニールシートで覆われていた。
無人のしるしである。
駅前で最も便利な場所にある住宅でもこうして人が居なくなりはじめている現状の中、人口減少が進むとそれは加速されるだろう。
ますます危機感がつのる。
団地の中には当時は最新のデザインだったと思われるような遊具や、自転車置き場のシェルターなどがあちこちにある。
今は錆と汚れで古びてきているのは何ともいえない寂寥感に満ちていて、何とも物悲しい。
ひょっとすると今の若者には別の意味でかっこよく映るかもしれない。
コンクリートや石積みの間から生える雑草、日に焼けてはがれかけている案内板、腐りかけていて座るのをためらう木製スツールなど、30年ほどの年月がで既に廃墟化を進行させているようだ。
駅前から遠ざかるにつれて、戸建住宅が増えてくる。
造成だけされていて、家が建っていないような土地もあちこちにある。
そうした土地の多くは空き地として放置されているが、中には駐車場や畑として利用されているものもある。

僕達がサバケンで郊外について考えているのは、どうすれば郊外を安楽死させれるのかということである。もう少し具体的に言うとどうすれば自然に戻していけるのかということを考えている。
こんなことを言えば郊外に住む人に怒られるかもしれない。
しかし、確実に人口は減少し始める日が来る。
そして団塊の世代がこぞって郊外の住宅を購入してからもう30年近く経ち、その次の世代、いわゆる団塊ジュニアの世代が住宅を持つとなったときに再び郊外へ住みに戻ってくるとは必ずしも言えない。
今でも空き家が目立ち、人が減っていく郊外はある人口を切れば商業展開が難しくなりスーパーや病院なども開きにくくなる。
そしてそのことがさらに人口の流出に輪をかけ、遂にはバスなどの公共交通が回らなくなるかもしれない。
そして最後の一人になったとき、その人のためだけに電気やガス、大きな道路、上下水道などをメンテナンスし続けるのだろうか。
そこにリアリティを僕達は感じていないのが活動の理由でもある。
しかし郊外がどんどん抜殻に変わっていき、廃墟へと変化していく時に、資本を投下してまで自然へ戻さなければいけない強い理由を、まだ僕達は見出せていない。
今はまだそうしたビジョンについて根拠が薄いままであるが、抜殻になっていく郊外を自然に戻すためのもっと積極的な理由を探すことが必要である。
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by innerscape | 2005-05-29 21:24 | 崩壊のロジック

ジェットコースターな建築

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土曜日のアーキフォーラムは遠藤秀平さんをお招きして、色々とお話を伺った。
今日はプロジェクターとパソコンのコネクトがうまくいかずに30分ほど予定より押してしまったが、無事にフォーラムの方をスタートすることができた。
少し押した時間についても特に問題の無い口調で話し始めた遠藤氏はとても誠実な方だった。
CSCDのある万博記念境界ビルの1階にIMIというメディアデザインやアートの専門学校があるのだが、遠藤氏はこの春よりそこの講師として着任されたのでこれからも度々会う機会があるかもしれない。

遠藤氏は建築の内部と外部の境界をいかに曖昧にするかというテーマで建築を造っている。
素材としてはコルゲート版を用いて、非常に造形的な作品を作っておられるので、カタチに意味があるのかと思われがちであるが、話の中で度々そのような話題になるたびに決してそうではことを強調されていた。

建築というのは元来、内と外を区切ってある状況とある状況に秩序立てをしようという行為であると遠藤氏は言う。この定義については「街並みの美学」を書いた芦原義信氏も『建築とは、通常、屋根や外壁によって切り取られた内部の空間を含む実体のことである。』と述べていることを初め、多くの人がそのような定義をしている。
遠藤氏はその定義にそぐわないような設計をしたいと言う。
インターネットや携帯電話の普及などにより、特定の建物の中に居なくても連絡が取れるようになる、つまり人の居方に内部と外部の区別がなくなりはじめているような状況にリンクする空間を作り出すことを考えていると。
そのテーマと後は様々な与条件さえ満たせれば、あとの形態についてはさほど意味はない、むしろ外部と内部の境界を融かしていく体験できる形態になればいいと言う。
形態を表現することで何かの象徴性を持たせようとしているかどうかの真意はともかく、説明を聞いていると、設計の意図はうなずけるものがある。

そうした意味から捉えると、彼の建築の作り方はジェットコースターに似ている。
ジェットコースターもその形態に意味があるわけではなく、どこで下って、どこで上り、どこで回転するのかという体験が形態に置き換えられているといえる。後は与条件としてある位置エネルギーと運動エネルギーの収支だけを合わせる設計をするとあのような不思議で美しいカタチが出来上がる。
僕はジェットコースターは体験しているから、形態を見ただけで体験が想像できるが、遠藤さんの建築は体験していないので、なかなか想像力がうまく働かないという側面はあるが、やはりカタチの美しさが目立って見える。

人が使いこなしてくれるような空間は、ひょっとするとどうとでも読み取れるような曖昧な空間ではなくて、かなりキャラクターの強い、強度を持ったカタチの方が達成しやすいのではないかという意見も出た。
そうすると遠藤さんの建築はかなりカタチに強度があって使いこなしたくなる建築であるということになる。
しかしこのあたりは難しくて、やはりカタチだけの判断ではいかず、テクスチュアや素材感、スケールなど様々な要因が合わさって使ってやろうという意図が働くような気がするし、何より使う必然性のある場所の距離感なのかどうかという問題が大きい。
少なくとも遠藤さんの作る建築を僕は使いこなしてやろうという気にはなれす、ただ美しいなぁと目を見張るばかりになるのだろう。
一度彼の設計した播磨のトイレに行って見なければいけない。
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by innerscape | 2005-05-28 21:32 | マゾヒスティックランドスケープ

ドラスティックな日常

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深夜、作業をしていると突然ハードディスクが動かなくなってしまった。3時間みっちりとやった作業は全てあの世へ行ってしまったのは言うまでもなく、たくさん保存していた大事なデータを全て失うはめになった。

僕たちは手に取ったり、見えるモノに囲まれて生きているので、それがなくなったり壊れたりすると、そのことが分かるのだが、データは見えないし手に取れないので、完全に失われてしまったのかそうでないのかが不明である。
バックアップを普段から取っていればよかったのであるが、そうしたリスクマネージメントの重要性は事が起こってから意識されることが多い。
非常時への想像力は日常的には意識しにくいのである。

結局、夜が明けてからも色々と手を尽くしたがハードディスクのデータは復旧せず、そのまま夕刻が来たのでランドスケープエクスプローラーで進めている「アーキフォーラム」の準備へ向かう。
ハードディスクの故障の話もあり、少し遅れて行ったのだが、会場も非日常な状態が起こっていた。
プロジェクターからパソコンの画面が投影されないのである。
色々と手を尽くすが原因は不明なままフォーラムの開始時間が過ぎてもうまく映し出されず、ゲストスピーカーの遠藤周平氏にご迷惑をおかけしてしまった。
結局コネクターを単純に変えることで解決したのだが、どの部分がどう作用しているかということが複雑で、我々が把握しにくい状況になっていることにも問題があるような気がする。

僕たちは視覚に圧倒的に依存して生きているが、目に見えない部分でコントロールが聞かない状況が起きるとパニックになる。
さっきまで幸せに流れていた日常が、突然不安と焦燥が入り混じる非日常へと変化する。

現代社会で過ごす僕たちがコントロールできるものなんて実はそれほどなく、その多くは誰かが把握している科学技術によって支えられている。
しかしそれは実は非常に不安定な状態で、一歩間違えば非日常な状況に陥ってしまう。

毎日乗っているJR西日本で起きた事故や毎日食べている食品の安全性の問題、毎日生活を支えている電気を生み出す原子力発電の問題など、僕たちが過ごしている日常はコントロールできないことで埋め尽くされている。
CSCDでも科学技術コミュニケーターやコンセンサス会議を始め試みられているが、そうしたリスクを誰がどうマネージメントしていくのかという事はとても大切なように思える。

実はこうした非日常な状態が常にあって、その間をすれすれに生きている今の状況を僕たちは日常と呼んでいるとするならば、日常こそが最もドラスティックなことなのかもしれない。
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by innerscape | 2005-05-27 21:33 | 日常

マゾヒスティックな日々

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夕刻よりランドスケープエクスプローラーのミーティングに出る。
僕が参加するワークショップ、ランドスケープエクスプローラーが昨年の7月末に行ったシンポジウム『獲得される場所を目指して』からもうすぐ一年を迎える。
ランドスケープエクスプローラーはもともと2000年から継続して行われてきた造園学会主催のワークショップだったのだが、今では僕たち13人の実行委員会で進めている自立的な研究会になっている。

その背景にはランドスケープデザインつまり風景のデザインということを標榜している職能として、オープンスペースのハード設計だけ終わるのではなく、設計された場所で行われる活動を仕掛けることも重要だし、実際に人々がどんな使い方をしているのかを知ることも大事ではないかという問題意識から始まり、街のなかでずっとフィールドワークをしている。

僕たちが主に扱っているのはパブリックスペースである。
時には庭なんかもやったりするけど、基本的には誰でも居ることの出来る場所を設計しようとしている。
誰でも居る場所を設計するのは難しい。なぜなら人それぞれ好みや意見が違うので、誰にターゲットを絞って設計すればいいかが見えなくなってしまう。
誰かに焦点をあてて設計すると、他の誰かから「私たちのことも考えてください」なんて苦情が出ることもある。
それに公園や広場なんかが良い例だが、もともと使い方なんてない場所なので「こう使ってください」というように設計すると、使い方の自由を束縛することにもなる。
では「ご自由に使ってください」というような設計にするとどうなるかというと、関わるきっかけが見えなくなって誰もが自分とは無関係だと思い始める。多目的ではなく無目的な場所になることも多い。

なかなか外部空間の設計は難しいものなのである。

しかし、街の中の外部空間を見てみると人々に気持ちよさそうに使われている場所はたくさん見つけることが出来る。
その多くは何の変哲もない場所なのだが、なぜか人々の愛着を誘うようで、ガンガン使われている場所になっている。こうして人が気持ちよさそうに使っている風景を見るのは楽しいものだと思う。

僕たちはこんな風に使われている場所を指して「マゾヒスティック」だと呼んでいる。いわば場所が人によって攻められている風景である。
言い方を変えると、それは人が積極的に場所に関わろうとする風景で、そこには関わる以上、誰のせいにも出来ず自分の行動に責任を持つことが要求される。
こうした責任ある利用の風景を、僕たちは「マゾヒスティックランドスケープ」と誇らしげに呼んでみたりしている。

そうしたマゾヒスティックな風景をめぐって、街の調査をしたり、色んな人と対談したり、それを生み出すための提案をするなど取り組んできた事を本にしようと今試みている。

当初はシンポジウムを終えてから一年後に出版に漕ぎ着ければと思っていたが、なかなか出版というのは大変で、色んなやりとりや編集等の作業の地道な積み上げが必要である。
今日のミーティングでスケジュールを確認すると、入稿の8月までびっしりとやることが埋まっている。
7月頭にある二つのイベント、そして7月末にある二つの出版、8月頭に販売される健康食品のパッケージデザイン。その他にも色んな動きが僕を取り巻いている。そして当然そこには責任を持った風景が要求されるのだ。

そんなことを考えながらスケジュール表を見てると、僕はなんてマゾヒスティックな日々を送っているんだと苦笑いがふと出てしまう。
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by innerscape | 2005-05-26 21:35 | マゾヒスティックランドスケープ

アートをめぐる問題

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毎週木曜日のCSCDはメンバー全員が集まる日である。
今までは各メンバーがどういうバックグラウンドを持っているのかをプレゼンテーションしてきたのだが、オープニングイベントが近づいてきたことや、各チームのプロジェクトを進めないといけないということもあり、一旦自己紹介は中座して、今日はミーティングをすることになった。

CSCDには三つの部門がある。
医療現場におけるコミュニケーションの問題に取り組む「臨床コミュニケーションデザイン」。
災害現場や科学技術の安全性についての問題に取り組む「安全コミュニケーションデザイン」。
そして僕が所属している「アート&フィールドコミュニケーションデザイン」である。
ぞれぞれの部門において、どんな問題意識のもと、どう取り組んでいくのかを見定めて進んでいかないといけないのだが、アートについては他の二つと比べて具体的な現場を持っていないため、問題意識の共有という最初の段階で速くも僕達の間でディスコミュニケーションが起こっていた。
僕自身はランドスケープという現場を持っているので、そこにおける具体的なディスコミュニケーションについては理解しているのだが、それをアートという一般化した形で語ることは、いささか違うのではないかと感じていた。

アート&フィールドには様々な人がいる。
美学・造形学/アートマネージメント/社会学/メディアデザイン/ランドスケープ/グラフィックデザインなど異なる領域の人々から構成されている僕達のチームでは「アート」という言葉の解釈と「アートの役割」について、各メンバーそれぞれの意見が違うのは無理の無いことだろう。その違いからコミュニケーションは出発するのである。
個人的に感じたのは、特にアートとメディアの関係性についての解釈が大きく異なっていることだ。これは各人がイメージしているアートが異なっていることとも関係している。
美学の領域では現代アートは解釈や定義が定まっていないため、研究の対象とされていないらしいのだが、メディアアートはほとんどが現代アートの領域になる。
アートとメディアは異なるものであるという意見、アートはメディアだという意見などをめぐる議論もされた。
その他には、
「アートは自己表現なのか、パブリックなものなのか」
「アートは人を幸せにするものなのか、違和感や痛みを与えるものなのか」
「アートは日常に偏在しているのか、非日常であるのか」
「アートは美術館の中で特権化しているべきなのか」
「アートは問題提起するものでデザインは問題解決するものなのか」
「アートは普遍的なものなのか、特別なものなのか」

などなど焦点がなかなか定まらないまま時間が過ぎていく。

以前建築でも同じような議論がされたことがある。「建築とは何か」という定義の問題である。
その議論が行き詰ったときに、建築家の原広司氏は「建築とは何か」ではなく、「建築に何が可能か」を考えるべきだと述べたという。
色んな解釈がされるようになり本質が見えなくなってしまった時には、そのものが持っている可能性について述べることで逆に本質をあぶりだそうとする姿勢が重要なのだろうと感じる。
そういう意味で、「アートとは何か」ということを定義することから議論をスタートさせるとどんどん深みにはまっていくので、「アートに何が可能か」を考えることでぼんやりと全体像を描いていく方向へ転換した方がよさそうだと思う。
このあいだお会いした建築家の曽我部昌史氏は「建築に何が可能か」という言葉を受けて「建築家に何が可能か」という主体に置き換えた言葉を述べていた。

デジタル数字を使ったアーティストの宮島達夫氏は「Art in You」という言葉を使っている。
少し長くなるが、安東幸一氏との対談の中での彼の言葉を引用してみたい。

『大体、アートって見る人がいなければ成立しないわけですから。この点はけっこう誤解している人たちがたくさんいるんだけど、僕はそう考えている。70年ぐらい前に、アインシュタインとタゴールが対談していて、美とは何かという話題で、アインシュタインは「美とは個々の人間とは関係をもたず、絶対的に存在している」って言うんです。一方、タゴールは、「美は、それを見る人間を通してはじめて意識化され、実現化される。美だけが単独に存在しているわけではない」という考え方だった。「見る人がいなければ、アフロディテのヴィーナスだって、ただの石ころじゃないでしょうか」と。で、僕はどちらかというとタゴールの方の立場。見る人間がいて、はじめてリアルな作品になる、アートとして成り立つ。だから、ある意味で、観客は創造する側でもあるわけです。こういう考え方は、ここ3年ぐらい「Art inYou」という言葉で表現しています。』

なるほど。僕にはとても分かりやすい言葉である。
この考え方は観察者の存在抜きに考えることができない量子力学のスタンスや、経験されたことが世界を構築していくという哲学/現象学のスタンスとほとんど同じである。
このように対象物と観察者の関係性の中でアートを語っていくことで少し整理されるように思う。
さらに宮島氏はこう続ける。

『「Art in You」、つまりアートというのはあなたの中にあるということなんです。すべての人たちがもともとアート的なるものをもっているから、アートを感じることができる。本当は、見る人は、自分の中にあるアート的なるものを、作者や作品を借りて見ている。だから「アートは自分を発見すること」になるのだと思う。』

ここでアートはほとんど自分を発見するためのメディアというように受け取れる。アートを媒介にして自分と作者、あるいは自分と事物の関係性や差異を発見するのである。

『本来アートとは、そういうものじゃないかなと思います。セザンヌの絵を見て感動して、りんごに愛着を感じだしたりとか、何かひきずりますよね。その変容は、生活自体を豊かにする。今までアートの多くは、美術館というホワイトキューブの中だけで完結していた世界だったけれども、そうではなくて、人間と生活空間まで考えた作品づくりというのは可能なんじゃないかと思っています。』

アートに触れることで、良くも悪くも何らかの影響を受ける。
豊かになるかどうかは分からないが、今まで感じていた世界の見え方が少し変わる。それは個人的な体験なのかもしれないけれど、ひょっとすると誰もが考えていなかった見方を提示しているかもしれない。そうなると社会全体で共有しているような価値観が感覚的にゆさぶられる。そんな力を持っているのかもしれない。
彼は自然や風景に対してはこのように述べている。

『うーん、たとえば自然は、そのままでは膨大に広がっているカオスなんですね。宇宙空間にポンと放り出されて右も左もない、自分の位置すら分からないという。それに人間がフレームをつけることで、「自然」というふうに見えてくる。「自然」はもともとあったのではなく、人の努力で発見されて、美として意識できるんです。それで、その時々に、カオスをフレームづける人間がいたんですよ。』

この考え方は、自然が人に見られた瞬間に人工的なものになるという考え方や、あるいは「パンセ」に書いてあるように自然はその地域の文化が共有している習慣によって規定されるという話にもつながる。このあたりは大阪大学の副理事である哲学者鷲田清一氏が「モードの迷宮」でも引用されているので、少し話したいところだが。

宮島氏はアーティストの役割についてはこう述べている。

『アーティストは、常にその時代時代における、日本再発見のフレームづくりを目指さないといけないんです。なぜなら、自然の状況は刻々と変わっていく。今の日本に雪舟的な風景や浮世絵的な世界なんてあり得ないわけです。だったら今、自分たちが暮らしている日本の風景、あるいは風土をもう一回フレームづけて再発見しなければならない。そのときの自然というのは、工業製品やプラスティック、インターネットも含まれた、日本の現実なんです。そのリアルなものを、どうフレームづけて出していくかということを考えていますね。』

ほとんど僕が考えるランドスケープアーキテクトの役割の一つと同じである。フレームづけの話は、僕達が場所に「云われ」を与えるだけで場所の意味合いや見え方を変えれないかと試みている「イワレ捏造開発機構」という提案と同じスタンスである。
アーティストはさることながら、ランドスケープアーキテクトも場所の物理的環境を改変する技術を磨くと同時に、一方でこうした環境の見方やフレームをどう設定するかということに目を向けなければならない。

宮島氏の言葉に補足して述べるのならば、発見のフレームを論理や言葉でデザインしていくのは、おそらく臨床や科学技術コミュニケーションで目指されているミッションと共通している問題で、それに加えてアートが独自性を持っているとすれば、それは感覚的にゆさぶることなのだというように理解している。
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by innerscape | 2005-05-26 21:35 | アート

エイズを考える空間

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6月の終わりから7月の頭にかけて、神戸国際会議場でエイズについての国際会議が行われる。それに合わせて6月30日から7月3日までの4日間、神戸アートビレッジセンターで『kavcaap2005』というアートイベントが行われる。

kavcaapは2003年から「アートの分野からエイズについての必要な情報とインパクトを伝えること、予防/治療/ケアへの理解と関心を深めること」をテーマに、関西在住のアーティストやNGO活動家、専門家と共に、アートマネジメントを学ぶインターンの学生が中心となって企画・運営し、開催に向けて活動しているイベントなのだが、今年のkavcaap2005で3年目になる。
国際会議に合わせて、こちらのイベントも国際的な内容になっていて、地元日本のアートはもちろん、エイズについてのインドの映画、タイの映画、ウガンダ、ブラジルの映像など様々な国からの出品がされる。

映像作品が主なのだが、イベントの開催期間はアジア屋台が出たり、トークイベントがあったり、ステージでショーがあったりと、内容的には盛りだくさんなので是非皆さん足を運んでいただければと思う。

CSCDの方も共催という形で関わっていて、神戸アートビレッジセンターの木ノ下氏はもちろん、看護学の西川氏がトークイベントに参加したり、本間氏の主催する哲学カフェがプログラムの中に組み込まれていたりと盛りだくさんである。
そんな中で、展示空間のデザインをまかされることになった。
国も言語も違う6組のアーティストによる7つの展示をどうまとめていくのか。

今まで、エイズについて考えたこともなかった僕は展示空間の風景をどう考えるべきかを、アーティストの方や実行委員会の方々と対話を重ねていく中で拾い集めている。

エイズは一人一人が向き合わなければならないとてもプライベートな問題であると同時に、誰かとの関係性の中で感染する病気でもあるため、誰もが当事者となる可能性を帯びている。
つまり個人の問題と、全体の問題がつながっていると言える。

そうした意味を考えながら今回の展示を見てみると、それぞれの展示で伝えられるメッセージは一つ一つが強い個性を持っているが、一つの大きな問題意識でつながれていることが見えてくる。
そのことを空間の上でも表現するべきだろうと考えている。
同時に、情緒や感情的な抑揚を持った空間演出はエイズについての誤解を招く可能性がある。

淡々と情報と内容だけが見えてくる風景を目指す事が、訪れる人々にとってメッセージをよりリアルに伝えれる可能性があるのではないかと感じている。
当日、展示ギャラリーの横ではカフェスペースやステージがあって、かなり騒々しい状態が予想されるが、一方でギャラリーの方では作品や自分の問題と静かに向き合う時間が求められる。

しかし固いパーティションを用いて賑やかな空間から隔離すること、そしてギャラリーで自己と向き合う時間を隠蔽する事が、エイズの問題と向き合うときに果たして正しい姿なのかという疑問が僕の中で生じている。

社会から隠蔽されないこと、隔離されないこと、他者の気配をどこかで感じている中で自分とじっくり向き合うこと。
そんな区切られながらも緩やかにつながれているような空間が生み出せないかと考えている。
そんな想いから、今回は一枚の長い布によって空間を大きく一つにつなぎながら分割していく方法を考えている。

布というプライベートな素材。
病室のカーテンやシーツといった看護や病気と関係の深い素材。
清潔感を持った抽象的な素材。
そんな素材で空間を包んでいく。

展示はその空間に「貼られる」のではなく、空間そのものに「刷り込まれ」ていくことでメッセージとしての純粋さが保てないかと、色々とスタディを始めている。

今後アーティストとの調整や実現に向けての様々な課題が出てくることになるが、そのことも含めてブレークスルーしていくプロセスが、僕達自身がエイズという状況に対してどう向き合うのかが問われているような感覚を覚えながら、実現に向けて色んな思索を巡らせている日々である。

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by innerscape | 2005-05-23 21:42 | 装置と風景

地形とコミュニケーション

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今、イベントの会場構成デザインを二つしている。

一つはCSCDのオープニングイベントで、阪大の総長以下学内の教授が100人ばかり集まる儀礼的なイベント。もう一つは神戸で行われるエイズの国際会議と合わせて神戸アートビレッジセンターで行われるエイズについてのアートイベントだ。

これが、運の悪いことにほとんど同じ7月頭に集中していて、どちらもボリュームがありそうなイベントなのでどうしようかと連日頭を悩ませているが、なぜか大変な状況に巻き込まれている自分に少しワクワクしている。

それに加えて阪大のニュースレターの今回の特集がCSCDということで、執筆の方をお願いされていて、それも同じ時期ぐらいの締め切りになりそうだ。こちらも紙面ワークショップなどの変わった事をしようと思いついてしまったので、ほとんど忙しくなりたい病気のようなものだ

毎週木曜日はCSCDに教員が一同に介する日なのだが、今週は平田オリザ氏が久しぶりに来られた。
有名な劇作家・演出家の平田オリザ氏もこの4月にCSCDの教授に就任したのだが、オープニングイベントで彼の演劇ワークショップを行うプログラムを組んだので、それに必要な面積などを確認しに一緒に会場の方へ出向いた。

大学のオープニングイベントつまり固い言い方をすると開所式典は、通常は会場に権威的に椅子がズラっと並べられていて、主賓の祝辞や所長の挨拶などの堅苦しい式になりそうだが、それを少し崩してやろうかと思い、映像と音楽、ワークショップなどを盛り込んだプログラムやスタッフのドレスコード、変わった会場構成を組んでみようと考えている。
会場の方はホテルのホールなのだが、床面が15のパーツに分かれていて、そのパーツ一つ一つが20cmの単位で上下に動かすことができるので、会場の内部に『地形』を生み出してやろうと思いながら2日ほど前から模型で空間のスタディをしていた。

一つ一つの床パーツをバラバラのレベルに設定して、そのまとまり毎に椅子を配置することで、同じ床面レベルに座る人同士のコミュニケーションが発生すると同時に、床面レベルの異なった上下で会話やコミュニケーションが発生する。

また40cmや60cmの段差がある場所は行き来がしにくいので、20cm段差の場所を通って移動することになるが、その際にコミュニケーションが発生することを狙っている。

ステージと最低部のレベル差1mのスリバチ状の地形を設けて、内側を向いて見下ろすような会場構成で、ワークショップを行うときはその一番底のレベルが上へせりあがってきてステージの面積が2倍になるように演出することにした。

平田オリザ氏とも当日の動き方などを確認しながら、床を模型どおりに動かしていく作業はなかなか楽しかった。

通常の式典では前で話す人と座っている観客という単純なコミュニケーションしか発生しないが、こうしてレベルを様々に設定するだけで多様なコミュニケーションが発生する風景が生み出せるのではないかと思う。

コミュニケーションデザインセンターは、滞っているコミュニケーションのあり方に風穴を開けようと目論んでいるセンターである。
コミュニケーションの発生する会場構成や、映像を使ったセンター趣旨の紹介、ワークショップなどで実際に身体を動かし対話するようなプログラムなど、開所式典のあり方そのものも多様なコミュニケーションのあり方を示すメッセージに変えていけたらと思う。

まだコンテンツの無い我々が発することのできるメッセージはそういったシンプルな事から始められるべきかもしれない。
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by innerscape | 2005-05-19 21:45 | ランドスケープデザイン

風景の問題

確かに風景は一つの場所の問題ではなく、スケールを広げて見ないといけない。

土地を持っている人が自分の好き勝手で建物を建てて開発を進めていくことで、隣の建物や後ろの山並みと違和感を持ったものになってしまうことは問題なのかもしれない。
そうした積みあがる開発が生み出す風景の問題に対して何か手を打たないといけないということは以前より命題としてあったのだが、この6月上旬に成立する予定の景観緑三法はその解決策と成り得るのだろうか。

14日に東京大学で開催中の造園学会ではこの景観緑三法についてのシンポジウムが行われた。
対象地としては滋賀県を取り上げていたが、近江八幡市の取り組み、滋賀県の取り組み、国土交通省の景観法に向けた取り組み、文化庁の取り組みがそれぞれ紹介される。
滋賀県のような場所は琵琶湖を介した対岸の風景まで視野に入ってくるため、市レベルの取り組みと県レベルの取り組みが結びついてうまく機能していないと、ちぐはぐな風景になってしまうこともよく理解できる。

話を聞いていると、景観法は景観保全のための基本法として政府が提出した景観法案と景観法施行関係整備法案、都市緑地保全法等改正案の「景観緑三法案」から成り立っているようだ。

景観行政団体になりますという意思表示をした地方自治体は、一定区域内で建築物の色彩やデザインを規制する権限を付与すると同時に、大規模開発の際には敷地面積の25%を上限に緑化を義務づけるということになっている。

今までの景観規制は自主的な条例等で、ある程度コントロールを図ろうとする取り組みが主に行われ、強制力は無かったため有効に機能していなかったのが現状である。しかし今回の法律化では違反者に罰則や着工が認められないなどの強制力があり、そうした観点でもうまく景観を育てていけるのではないかという期待が寄せられているようだ。

もう一つの特色に、政省令の制定に当たって地方自治体の自主的な取り組みを阻害しないように配慮することになっていて、地方自治体は景観法を条例レベルでカスタマイズすることが出来るということらしい。
さらに実際にそこに住んでいる人々の意見が適切に反映されるように、住民やNPOから「こんな街にしたい」と提案された計画に対して法律がバックアップできるように機能させるようである。
と、話を聞いているだけだと良いところばかりのように聞こえるが、本当に有効に機能するかどうかは疑問な所もたくさんある。

文化性や景観的にはそれほど優れていなくても、住民が大事にしているような場所を守っていける仕組みが有効に機能するのか。今まで登録文化財等に指定されるには、造られてから50年以上を経ないと申請できなかったが、昨日できたような新しい景観は文化的景観に含まれないのか。景観法が単なるノスタルジアに作用しないか。電線のある風景を共同溝に入れてしまうべき「悪い風景」としているが、本当にその価値観だけでいいのか。こうした住民同士の価値観のコンセンサスは取れるのか。そもそも行政内部で各省庁のコンセンサスが図れるのか。

景観は法律を作ったからといって、1年や2年で帰ってくるものではなく、最低でも10年から20年を経てその効果が分かるものだと思うので是非を問うことはまだできないのだが、具体的な内容や方策が見えてこない中で法律化だけが進むことに少し不安を抱いている。

こうした法律を受けて、実際の現場に携わる僕達は考えないといけない。どうすればその土地に住む人々が自分達の環境や景観に関心を持つのか。またその価値観や未来のイメージをどうすり合わせていくのか。誰がその景観を守り育てていくのか、また誰が改変していいと言えるのか。

景観法が成立するとはいえ、依然として景観・風景の問題は大きい。
そしてランドスケープに携わる職業が、以前よりも風景とどう向き合うのかはより突きつけられることになるだろう。
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by innerscape | 2005-05-14 21:47 | 景観

13日の金曜日の都市計画話

午前中は、CSCDで環境アセスのスコーピングについての打ち合わせに出る。

環境省とNTTデータがここ2年ばかり行っていたのだが、今年はCSCDの協力も交えて進めていくことになった。地元千里のNPOの方も来られて話し合いをした。

環境アセスは開発の後押しのために行われることが多く、地域の意思がどこまで反映されるのかというところがいつも問われる。

こうした取り組みは開発があって始めて行うのではなく、常に地域の人々が自分の住む環境の事を意識して、それを何らかの形で表現しておく努力が必要だろう。

それをポテンシャルマップとして表現する方法をこれを機に考えればと思う。

会議後、伊丹空港より羽田へ飛び、東大で行われている造園学会へ出向く。
造園学会も80周年ということで、「ランドスケープの開発と保全」と銘打って開かれたシンポジウムには、日本の風土研究で有名なオギュスタン・ベルクも来ていた。
さすがに和辻哲郎などを研究するだけあって、日本語はとても堪能だった。

シンポジウム自体は、最後の1時間しか出席することが出来ず、内容はほとんど分からなかったが、会の終了後、3年ほど前に大阪の町を案内したことのあるMITの教授アン・スパーン女史を見つけたので、挨拶して少し話をした。

その後、シアトルから戻ってきていたランドスケープアーキテクトの小林氏を見つけたので、二人で市浦都市開発の事務所へ向かう。
市浦建築都市開発は市浦ハウジング&プランニングという名前に変更したようだが、個人的には変更前の固い名前の方が気に入っていたのだが。

事務所を後にして、本郷三丁目の交差点を歩いていると、以前中国の都市計画の仕事を一緒にしたことがある建築家・都市計画家の内藤氏に偶然出くわした。
どうやら内藤氏は大阪府立大学の加我先生と待ち合わせしていたようなので、そのままご一緒することにした。

その後、仕事を終えた市浦の方々が続々と合流してきて、都市計画話で大いに盛り上がる変な夜になった。
前々から聞いてみたかった彩都の開発や京阪奈の開発の是非について聞いてみた。

開発の計画を立てた当初ではリアリティのあったこれらの開発も、今の時代の必然性から言うとなかなか難しい事情があるようで、実務について開発を進めている彼らの中でも開発の是非については複雑な思いがあることを共有できた。
確かに、京阪奈で掲げられているように、日本の科学技術の発展のためには技術についての研究機関や企業、大学などの知が集積する必要があることに異論はない。
しかし、時代に応じた適正な規模があるのではないかと思う。
人口が減少の方向へ向かおうとする中、赤字を抱える財政の中、開発による環境破壊が叫ばれる中、コンパクトシティが唱えられる中、科学技術の集積という目的のために莫大な土地をさらに開発することに僕自身はそこまでリアリティが持てない。

環境アセスについて議論した朝から、大規模郊外開発の是非について議論した夜半まで13日の金曜日の都市計画話に程よく疲れながら過ごした一日だった。
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by innerscape | 2005-05-13 21:50 | 景観

GPS携帯が普及すると孤独死するお年寄りは減少するか

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CSCDの臨床コミュニケーショングループの活動の表を見ながら考えていた。
そういえば今まで『医療や介護と風景』というテーマについて考えたことはあまりなかったように思える。

テーマを見てみる。

高齢者・障害者支援ネットワークデザイン
医療におけるメディエーション
多文化共生医療コミュニケーター養成プログラム
身体知とコミュニケーション
身体障害者と健常者をつなぐ演劇ワークショップ
老いの問題についての言語化
医療や看護における倫理やコミュニケーション

などである。

こうした医療の問題について風景という側面から何が出来るだろうか。
誰だって健康を望んでいるし、医療は全ての人にとって必要なサービスだ。

誰もが望んでいるようなことは既にパブリックな事柄である。
そうした時にどんな環境が、どんな風景像がそこに目指されるべきなのだろうか。
医療や看護の中で地域社会が出来ることは実は結構ある。
特定の障害を持った人々と、そうでない人々が交流を図れる場があれば、ケアや看護の面でも随分とやりやすくなるはずである。

屋外空間の設計などでよく問題にされるのはバリアフリーの問題である。スロープの勾配や段差、障害物の設置など色んな側面から配慮した設計が求められる。
それはそれで確かに必要な事である。
しかしそうした設計さえ守っていれば障害者や高齢者などがハッピーに過ごせるかというと決してそんな事はない。

例えば車椅子の方や足元がおぼつかないような高齢者が高低差のある場所を行き来したいときに、スロープがなくとも、段差があろうとも、周りに手を貸してくれる人が居るということで解消できることもある。
そうしたコミュニケーションのある風景像が目指されることがやはり大切な事なのだろう。

以前、ワークショップの一環で高齢者と子供が交流する風景を生み出せないかと思って『老人クエスト』という提案したことがある。これは一斉風靡したエニックスのゲーム「ドラゴンクエスト」にちなんでつけた名前で、子供がするゲームである。

結局アイデアとしては没になってしまったが、こうした臨床コミュニケーショングループの活動表を見ていると、再び考えてみてもいい可能性の一つではないかと思えてきた。

アイデアの元になったのは実際に東京の方で発売されているGPSを使ったゲームである。
そのゲームではプレイヤーは実際にGPS携帯を持って街を移動しながら、特定の場所にたどり着き、そこでヴァーチャルに設定されたアイテムをダウンロードしていくというゲームである。

ここではアイテムは特定の場所に設定されているのだが、それを地域に住む高齢者にしてみてはどうかというのが提案の内容である。
高齢者は宝物を守るガーディアンとして機能する。そして子供達は実際に街をウロウロしている高齢者たちに話しかけてアイテムをダウンロードさせてくれるように交渉しなければならない。
二つ返事でダウンロードさせてくれる人も居るだろうし、中には何か用事をしないとダウンロードさせてくれない頑固なおじいさんが居るかも知れない。
そこには高度なコミュニケーションが必要である。
もしこうしたゲームが普及するなら、子供達が高齢者を見る目つきが随分と変わりそうだ。
街ゆくおじいさんを発見すると子供達には宝物に見えるだろう。こぞっておじいさんによってたかってアイテムをお願いするかもしれない。
ひょんなことから地域のゲートボール大会などに出くわすと大変である。
あちらこちらで子供がおじいさん、おばあさんに集まりゲートボールどころではなくなるかもしれない。
中にはなかなかダウンロードさせてくれないことで伝説になるおじいさんなどが出てくるかも知れない。
コミュニケーションの経験値を積んでから再びチャレンジなんてこともあるかもしれない。

そしてそうやって高齢者はこぞって街を歩くようになったり、子供とコミュニケーションを図ることを通じて新たな生きがいなどを見つけられないだろうか。
きっと高齢者が子供の人気者になっている風景が出来上がるだろう。

アイテムガーディアンとして設定されるのは障害者であってもかまわない。外国人であってもかまわない。もちろん誰であってもかまわない。目的はコミュニケーションのある風景を生み出すことなのである。

医療や介護に対してランドスケープデザイナーがアプローチできることの一つに、こうしたコミュニケーションのある風景を目指してゲームの提案をしてもいいはずだというように思っている。
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by innerscape | 2005-05-11 21:52 | 装置と風景

私“flw moon”が日々の生活の中で感じた事を見つめ直し記録します。
心のフィルターを通して見た日々のシーンをひとつづつ電脳に記憶させることで、果たしてどんな風景が見えてくるだろうか・・・?

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