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私的風景の電脳記録
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柔らかい空間と厳しいプロセス

avcaap展覧会の展示会場デザインのため連日神戸アートビレッジセンターへ詰めている。
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ダムタイプなどのアーティストとの調整も含め様々な問題を一つづつ確認しながらも現場は進んでいるが、やはり遅々としている状態がもどかしい。

現場でのテストピースとして一つのブースを作成して天井から吊ってみる。
空間のバランスがどこかおかしいので、少しワイヤーの長さを調整して5センチ下げてみた。
今度は平行がおかしいので少し吊り方を変えてみる。
こうした作業が連日行われている。

1mmのディテールが全体の空気感を支えていることの意味がよく分かる。
特に今回のような純化されたデザインほどノイズを許さないからである。
それに加えて、展示された内容とだけじっくり向き合えるように、余計な突起を一切排除した空間を目指しているので、白い布に直接文字を印刷していく手法を選んだため、細心の注意を払って布を取り扱わないといけない。
布は当初考えていたよりもやっかいな代物である。
なにせ幅が2.3m、長さがトータルで80mの布である。
さすがに一回の印刷ミスで全てダメにするようなリスクは負えないため、8つのピースに分割して進めているが、それでも8m~14mが1ピースの長さと言うことになる。
第一に取り回しが半端ではない。
工房での印刷をあきらめ、やっとの思いでギャラリーいっぱいに広げて位置を出していくが、素材が布なので少し引っ張ると伸びてしまう。
平気で1センチや2センチのズレが生まれるので、よほど注意して行ってたとしても、水平や垂直のラインはいとも簡単に崩れる。

ディレクションは僕が行っているが実際に作業を進めているのは職人でもなんでもなく、kavcaapの実行委員会のメンバーとボランティアスタッフである。もちろんこうした製作や現場経験は全く無い。

作業を進めていくうちに少しづつ手法が開発されてきたが、やはり根本的な取り扱いの悪さは改善されず四苦八苦する毎日が続いてさすがに皆の顔に疲れが見えはじめる。
シルクスクリーン印刷も半端ではなく大変である。
布なので、印刷する際には固定する必要があり固定するための装置を14mの布の下へくぐらせるのである。
失敗すると今の布がアウトになるので緊張感がほとぼしる。
また全て真っ白の布なので一点の汚れも許されない。

出来上がる空間はとても優しく柔らかく包まれる空間を目指しているのだが、そこへ至るプロセスは緊張感に満ちた堅い手法で積み上げられている。
今は皆が関わって楽しく作っていけるような参加型の手法や、作っているプロセスそのものに意味があるようなものづくりの現場というのもたくさんある。
しかし、展覧会のような一瞬の輝きで決まるような局面では、たとえ優しい空間を生み出すためとはいえ、こうした厳しいアプローチが必要な時もあるのだと思う。
その環境が出来上がるまでの苦労や緊張感は見に来る人々にとってはあまり意味をなさないものなのだろうが、そうして緻密に練り上げられていった結果、出来た環境に人が訪れて何かを掴み取って帰れればそれでいいのだと思う。
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by innerscape | 2005-06-27 01:10 | 装置と風景

アンダーコントロール×アウトオブコントロール

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今日はアーキフォーラムの日。
昨年の11月、第一回目に隈研吾氏をお呼びしてから早いものでもう8回目になる。
今回のゲストは五十嵐太郎氏。
五十嵐さんとは、以前塚本由晴さんの会の時に朝まで飲んだのと、その後、名村造船所の跡地を利用したアートイベント『名村アートミーティング』の時にもお会いしているが、こういう形でお招きして話しを伺うのは初めてである。

ここ数日は神戸のアートビレッジセンターで行われるkavcaap2005展覧会の会場デザインのため現場に詰めているので、スケジュールの合間を縫ってギリギリやってきたら五十嵐氏はもうすでに到着されていた。

五十嵐氏は最近、取材で北朝鮮へ行ってきたらしく、タイトルは『「美しい」ランドスケープ ~過防備都市・景観法・北朝鮮~』ということになっている。
このタイトルの並びで今日の狙いが読める。

五十嵐氏の話は、チェコスロバキアの作家、ミラン・クンデラの「笑いと忘却の書」からの引用から始まる。

『悪魔の笑いは物事が秩序を失い、不条理になると引き起こされ、恐るべき感染力を持つ。しかし、同時に厳しい真面目さがないことで人をほっとさせる。』
一方、天使の笑いは「この世の万事がきちんと秩序され、賢明に構想され、善良で意味に満ちていること」を喜ぶが、どこかひきつっている。』

これはコスモスとカオスと読み替えることも出来るかもしれないが、大きな秩序だった風景と、人々が勝手に利用している多様な風景の問題へと結びついていくことになる。

先日五十嵐氏が出版された過防備都市の中から、歩道橋の下とか、公園のベンチとかちょっとしたスキマのような場所にすぐに居つくホームレスを撃退しようと、妙なオブジェクトを置いたり、柵をつけたり、アタッチメントをつけたりと過剰に防衛している写真が映し出される。
五十嵐氏いわくストリートではこうした攻防戦が日夜繰り広げられていて、ほとんど戦場のようになってしまっているという。
僕らはランドスケープエクスプローラーを通じて都市の中の定義されない空間、あいまいな空間について色んな使い方を想定して、読み取りの仕方でこんな使い方があるじゃないかということを提案していたが、実際の行政が行っていることはそのまったく逆の行為で、使い方を限定する、排除するような方向を向いている。
確かにオブジェとしてみるとなかなか面白い形をしているかもしれないが、わざとアフォーダンスの幅を狭めるようなデザインがしてあるのにはむしろ滑稽ささえ覚える。
こうして美観の名の下に排除されるものに着目して話しは続く。

景観法が出来た流れからも、今日本の国は景観に異常に執着している。
まるで日本社会の活路は景観の再生にあるかのような口ぶりである。
だがこれを素直に喜んで良いのだろうか・・・?
五十嵐氏はこの状況を、「カタチを変えた公共事業ではないか」と言う。
そしてそれは国家が美を強制する構造がナショナリズムと結びついているという。

確かにそうである。かつてのナチスドイツは美について異様な関心を示していたし、それは一方である種エコロジカルな発想で国づくりを進めていたが、やはりその思想は結局は民族の純化と結びついている。
本来的に美の問題は極めて個人的な問題である。
誰かがトップダウン的に美しさを決めるところにうさんくささがある。

首都高速の地下化の話しとその問題を関係付けて五十嵐氏は話す。
日本橋の風情のある景観を首都高速が暴力的に交わることで汚しているらしい。
しかし性能上全く問題の無い首都高速を美の問題のためだけに5000億~1兆円かけて工事することは少し考えた方がいいのではないか。
ちなみに1兆円という額は愛知万博の施設費に相当するらしい。その資金があれば別の事が出来るのではないかと言う。

平壌はそういう意味では景観論者にとって見れば天国のような場所である。
完璧にそろった軸線、それを強調するように雁行して立つ建物郡。
整然と整った広場、質実剛健にかつ上品にまとめられた象徴的な建物。
もちろん、部外者が立ち入ることの出来る一部の町にのみかけられた魔法であるが、非常に端正でコントロールされた風景がそこにはある。
確かにミラン・クンデラの言うところである天使の笑いのように整然と秩序だって居るがどこかひきつっていて、すぐに飽きがきそうである。

その反対の風景を考えるときに、秩序を失って肥大化し、混沌と多様性に満ちた悪魔の風景として上げられていたのが東京である。
そうした混沌への虚しい反抗の一部が過防備都市で上げられていたような悪意に満ちたオブジェなのだ。

こうしたアウトオブコントロールな風景の魅力を考えるときに思いつくのがドン・キ●ーテをはじめとする激安ショップの店内である。
店内には山積みされた商品が所狭しと並び、見る人を飽きさせない。
実際には売れていない商品もたくさんあるのだろうが、多様なモノの集積に意味がある。
訪れる人々は買い物を目的にするばかりでなく、その選択肢の多さ自体を楽しみ、アウトオブコントロールな混沌に酔いしれるのではないかと思う。

アンダーコントロールな風景とアウトオブコントロールな風景のどちらが正しいと言うつもりは全くない。ただアウトオブコントロールな風景をコントロールして創ることへの矛盾は常に感じる。
僕達がマゾヒスティックランドスケープという言葉に込めるのはこうしたアウトオブコントロールな状況を創るのでは引き起こせないかということである。
いわば天使の手によって悪魔の笑いを生み出す手法である。
それはどことなくその間に立つ人間の風景であるような気がしている。
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by innerscape | 2005-06-25 12:13 | マゾヒスティックランドスケープ

寡黙な日常風景の蓄積

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ここのところ忙しさが慢性的になってきているが、何とか時間を作って平田オリザ氏演出の演劇「その河をこえて、5月」を見に行ってきた。
というより、このために他のスケジュールを切り詰めて作業に割り当てていたと言う方が正確かもしれない。
平田オリザ氏はCSCDの教授に就任されて、何度かお会いしているが、とても不思議な雰囲気を持った方である。
著名な劇作家だが、とても親しみ易い空気をまとう気さくな方で、今回の公演もCSCDの教員をこころよくご招待下さった。僕などは母までご招待にあずかってしまい感謝の嵐である。

感想から述べようとするとどうもうまく言い表せないのだが、不思議な平田さんが演出されたからか、終わった後にとても不思議な感動があった。

舞台は今の韓国。そこへ様々な理由で暮らす日本人が居て、それぞれの接点は韓国語を教えてくれる語学堂の生徒だと言うこと。そしてその韓国語の先生とその家族達。皆で揃って花見をするという設定である。

ステージはソウルを流れる大河、漢河の岸辺で大きな橋脚のふもとという設定。橋脚のコンクリートの柱が数本と、河の護岸を表すコンクリートブロックと階段。そして散り始めの頃の一本の桜の樹である。
職業病だろうか、この舞台設定がまずはとても興味深かった。

そうした背景の中で演じられているのは、切り取られた日常である。
少なくとも、僕達がイメージの中で共有している日常のかけらがそこには散りばめられている。
日本で目標を見出せずに、あてもなく韓国へ来る青年。母国語が出来ない在日韓国人。5歳まで韓国で暮らしたが日本へ帰国し、また夫の仕事の都合で韓国で暮らす初老の女性。世界中を旅するフリーターの若い女性。仕事で赴任しているサラリーマン。日本のサブカルチャーに興味を持つ韓国の女性。結婚もせず小説家になることを夢見る語学堂の先生。韓国での経済事情への不安からカナダへの移住を考える若い夫婦。幼い頃、日本による植民地時代の体験を持ち、民族の風習やルーツにこだわる年配の女性。

それぞれがそれぞれなりの日常を持っていて、その中には楽しさや苦悩や問題が垣間見えるが、それはどこかで僕達の日常の一部を代弁しているようにも見える。
物語は進んで次第にそれぞれのアイデンティティの問題に近づいていく。
韓国に住む日本人。
日本に住む韓国人。
韓国から出たがる韓国人。
韓国にこだわる韓国人。
日本にこだわる韓国人。
韓国にこだわる日本人。
片言の韓国語と日本語、逆に片言の日本語と韓国語が飛び交う中、コミュニケーションのおけることばの重要性と同時に、ことばを越えた共有感の意味が問い直されているように僕は感じた。
どこに自分にアイデンティティはあるのか。これは日本と韓国とアメリカの三つのカルチャーにまたがる僕にとっても大きな問題である。
同時にアイデンティティは積み重ねてきた体験の記憶が詰まっている自分の頭の中にしかないのかも知れないとも思う。
そうした意味で無意識に自分の記憶を形作る日常風景の体験は大きな問題である。

舞台で演出された風景はあくまで背景であって、主役は人である。そこで繰り広げられる出来事が主役であることは現実の世界でも同じで、そこでランドスケープは背景でいい。

何の変哲も無い河の護岸の風景。確かにこの中で桜はひときわ存在感を持っているが、全体的に土木風景が持つ寡黙さが漂う舞台である。
しかし逆にこの寡黙な風景が僕達の日常性を表す記号になっていることに気づく。
誰もが初めて見るステージであるにも関わらず、誰もがどこかで見たことのある風景。それは自分のアイデンティティであると同時に、僕達が共有しているアイデンティティなるものなのかもしれない。

とかく僕らは現実の空間に演出された風景を作りがちである。しかし、僕達を取り巻くランドスケープは、そこで起こる出来事をしっかりと受け止め、僕達の中に穏やかに蓄積されていくような寡黙さがあれば、それでいいのだと思う。
そんな事を考えさせられる公演を見た夜だった。
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by innerscape | 2005-06-15 21:18 | 映画と演劇

ハイテクを支える優しい時間

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Kavcaap2005の展示のイメージをプレゼンテーションするためにダムタイプの初期からのメンバーである高谷史郎氏へ会いにいってきた。

ダムタイプは1984年の京都市立芸術大学の学生を中心に結成されたアーティスト集団で、美術、音楽、映像、デザイン、建築、ダンスなどの枠を超え、ハイテクなパフォーマンス芸術を創っている。
彼らが繰り広げるパフォーミングアートの中でも、今回kavcaap2005で展示する作品は最も有名なS/Nという1994年のパフォーマンス作品だが、事前に見た映像では今でもその新鮮さは全く衰えないほどのクオリティを感じた。

映像で作品を見ていたので、どんなハイテクなオフィスなのかと興味深々でいたがダムタイプオフィスは京都今出川の街中に溶け込むようにあり、廊下のつくりや階段などもいい感じに古びて時間が蓄めこまれているようだった。

海外から戻ってきたばかりと聞いている高谷氏は、切っ先の尖った作品から、緊張感あふれる人柄を想像していたのだが、とても気さくな方で、メディアで見たときとは少し違う印象を受ける。
高谷氏は1999年に坂本龍一のオリジナルオペラ『life』で製作した映像を初め、数々の映像作品を手がけるアーティストである。今度も京都造形芸術大学の特別講義で坂本氏とライブパフォーマンスを行う予定なのだが、プラハから戻ってきてバルセロナへ行くまでの瞬間を狙って訪問した我々をこころよく迎えてくれた。
今回は白い布で包まれ、つながれた空間を作りたいというコンセプトを伝えながら少し高谷氏と会話を続ける。
興味深そうに模型を眺めながら頷く高谷氏を見ながら、今までもこのオフィスでものを創っていく際にこうしたやりとりが幾度と無くなされたのだろうとふと思った。
昼下がりと言うこともあって、大きな窓からは午後の光が差し込んでいるのだが、とても柔らかい。
プレゼンテーションを無事に終え、オフィスを後にした僕は、ダムタイプのハイテクなパフォーマンスはきっと色んな切磋琢磨があったにせよ、結局はこうした優しい時間が支えていたんだなと、ふいに何の根拠もなく納得していた。
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by innerscape | 2005-06-10 21:20 | アート

アートをシンプルに考えてみた

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アートが街にあふれているという表現は誤解を招きそうだ。
まるでアートというものが街の到る所に存在しているかのようである。
しかしあるかないかという事ではないのではないのかね。
感じる、感じないの問題なのでは。
街にあるのはアートではなく、絶え間なく移ろっていく事物と、それを感じている人間の感性なのだと思う。
ものに触れて感じる。出来事に驚いたり感動したりする。
今まで注意を払わなかったものを意識するようになる。
何かに出会い、たまたま感性がそこに開かれる。
その積み重ねで少しづつ自分の感性や考え方が変化していく。
それは僕達が多かれ少なかれ毎日していることなのだろう。

アートにもし何かできるとしたら、いや、正確に言うとアートと呼ばれる行為が何を目的にしているかというと、そうした感性を開いたり、思考の幅を広げたりすることなのだろうと思う。
ある事物にクロースアップしてみる。
ある事物とある事物を出会わせてみる。
ある事物を強めてみる、弱めてみる。
ある事物を隠してみる、際立たせてみる。
ある事物を集めてみる、離してみる。

そういう行為をすることで、見えてくるものや感じるものがあるかもしれない。
アートをシンプルに考えてみると、そうやって様々な方向に感性と思考を開くきっかけを与えることなのかも知れない。
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by innerscape | 2005-06-02 21:24 | アート

私“flw moon”が日々の生活の中で感じた事を見つめ直し記録します。
心のフィルターを通して見た日々のシーンをひとつづつ電脳に記憶させることで、果たしてどんな風景が見えてくるだろうか・・・?

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