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私的風景の電脳記録
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月渡る夜

a0091712_094421.jpg姉が住む嵐山には渡月橋という橋がある。
全長250mの渡月橋は嵐山の観光名所のひとつで、桂川という川にかかっている。
いや、正確に言うと渡月橋を挟んで下流を桂川、上流を保津川あるいは大堰川というらしい。あの有名な保津川下りはこの渡月橋のところが終着点だ。
今夜はその渡月橋のそばで屋形船に乗り込み鵜飼を見る。
もちろん初めての体験である。

僕はこの渡月橋という名前が気に入っている。
なんとも風流な名前ではないかと思う。
渡月橋は、平安初期の承和3年(836)、空海の弟子の道昌僧正が大堰川を修築したおりに、現在の渡月橋より200mほど上流に橋を架けたのが最初であるといわれている。
その頃はまだ渡月橋という名前ではなく、葛野橋、あるいは法輪寺橋とも呼ばれていたらしい。
渡月橋と呼ばれたのは、今から700年ほど前に亀山上皇が雲ひとつ無い夜空を眺めていると、月がまるで橋を渡るように動いている様子を見て言った「くまなき月の渡るに似る」という言葉から、「渡月橋」と呼ばれるようになったらしい。


a0091712_010326.jpg昨晩が下弦の月で、今夜は月齢ほぼ23日。
ゆっくりと水面を進む船を包むように、下弦の月は暗い水面に優しい光を落としている。
僕達の乗り込む船は船頭の操縦で鵜がつながれている船へ近づいていく。
腰蓑と烏帽子を身につけた鵜飼の船はかがり火が炊かれていて、その側で休んでいる鵜たちを照らしている。
しばらくして鵜飼たちが棒で船の腹を叩き始めた。
そのリズムに合わせて鵜たちは水面に潜って魚を捕まえてくる。
次々に潜る鵜の姿はかがり火に照らされていて、シルエットが動く様子は影絵のように見える。
こうして千年前から綿々と続けられてきた鵜飼の姿と千年前と変わらずに僕達を包み込む月の夜は、かつてこの風景を愛した貴族達と会話をしているような気持ちにさせてくれる。
千年後にこの風景をつなげていけるのだろうかと、渡る月が問いかけてくる。
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by innerscape | 2005-07-29 00:08 | 自然について

街への愛/愛への街

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CSCDの共催イベント、「芸術と福祉」国際フォーラムに参加するため倉敷まで出かけた。
倉敷の中心地は江戸時代、幕府直轄地である「天領」として栄えた倉敷、その中心である倉敷川畔で、ここら一体は倉敷美観地区となっている。
僕は大学院の時に、橿原市の今井町という伝統的建築物保存地区へ行ったのだが、行ったときの天気が悪かったせいもあり、伝建地区にはあまりいい思い出を持っていない。
風流な細い路地を歩いている小学生や、きれいに揃った軒並みの二階で洗濯物を取り込んでいるおばさんたちを見て、何だか不自由な生活をさせられているなぁと感じたのだ。
今井町の事を僕は良く知らないので、ひょっとすると案外そんなことはなく、みんな楽しんで暮らしているのかもしれないが。

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by innerscape | 2005-07-28 01:46 | 景観

ルールとコミュニケーション

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天神祭りは大阪を代表する水の祭りで、多くの船が大阪の中心部を流れる大川(旧淀川)を下っていく船渡御は特に名物なのだが、今年の天神祭りに大阪大学も初めて船を出すことになった。
独立行政法人化したことや、僕の所属するコミュニケーションデザインセンターが出来たこともあって、大阪大学にもブランディングの必要性を感じるのだが、その一環として、まずはこの天神祭りに向けてグッズのデザインを依頼された。
CSCDを設立された鷲田清一氏が現大阪大学の副学長なのだが、彼からの直々のお願いされるとやはり引き受けないわけにはいかない。
僕と同僚のクボタ氏の二人で、乗船する方々に着てもらう法被とTシャツ、そして団扇と紙袋、船に取り付けるのぼりなどのデザインをすることになった。
7月の半ばの開催に向けて6月の終わりごろを目処に二人でせっせとデザインの詰めを進めていたのだが、kavcaapが多忙きわまる中、ようやく完成を見ることが出来た。
デザインに際しての条件はあの著名なグラフィックデザイナー田中一光氏のデザインによる、銀杏をシンボル化した大阪大学のロゴを入れることで、僕達はその形の持つシンプルさを活かしたデザインが出来ないかと考えていた。
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団扇はロゴ自体が丸い形をしていることから、ロゴの形をそのまま団扇に反映させるようにした。
法被は色々と考えたのだが、一枚一枚は到ってシンプルなしつらえにして、皆が法被を着て並んだときに最もインパクトのある風景となることを狙った。
出来上がってずらりと並んでいる風景はなかなか壮観になったんじゃないかと思う。
逆にTシャツの方は、若い女性に着てもらえるように、OSAKA UNIVERSITYのOとUを活かしたウインクをしつらえ、ワンポイントの可愛さを狙った。
そんな経緯で、ブランディングの功労を認められ我々は阪大船への乗船をご招待され船の旅に出ることになったのだが、僕自身は修士論文で大阪の堀川を扱い、その中では天神祭りの研究などもしていたので初めて乗る船にとても興奮した。
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天神祭りはやはり川の祭りなので、船に乗らないと祭りの意味が分かりにくいかもしれない。
名だたる企業が各自の宣伝の船を出していたり、太鼓を叩く元気な船や今年は大阪大学と同じく初出船の繁盛亭の船などが見られた。出船の時には大阪大学の隣にあった寄席場の宣伝船には、著名な落語家達の顔ぶれが見られる。
ずっと停泊していて、かがり火を炊いている船もあれば、能を演じている船もあり、陸では味わったことのない天神祭りが見えてくる。

最も大切なのは神様が乗る船である。
何度がその船と行き違うのだが、そばを通り過ぎるときは明かりを落として、声や音楽も潜めて厳かに通り過ぎなければならないのがルールだ。
陸の喧騒の中、そして船上でも騒ぐ中、神様の船が通りすぎる一瞬だけは静寂に包まれる感覚が、とても不思議で気持ちいい。

陸を歩いているときには感じることが出来ないような、川の上でのコミュニケーションのルールが祭りの時にはたくさんあることに驚く。
先ほどの神様の船との恭しいコミュニケーションもそのルールの一つだが、有名なのは『大阪締め』というルールである。
これは、手を三度ほど打ち合わせる動作なのだが、船と船が通り過ぎるときに、相手の船への挨拶として大阪締めを申し込み、お互いがそれを合わせてすることで祭りの喜びを分かち合うというもので、これがなかなか楽しい。
橋の上の人々と、船で下を通り過ぎる人々のコミュニケーション、船と船のコミュニケーション、陸と船のコミュニケーションなど、様々な形でコミュニケーションが繰り広げられる。

普段は静かに水を湛えている川がこうしたハレの日ににぎわい、コミュニケーションを円滑にするためのルールが伝統として残っていることは嬉しい限りである。
祭りの日は、皆が同じ空気感を共有している。大勢の人が何かを共有しているときにはコミュニケーションはいとも簡単に生まれるのだと思う。
ましてや祭りなどは見知らぬ人とのコミュニケーションを生み出す仕組みともいえる。
日常的なコミュニケーションの重要性を信じているが、皆が同じルールを共有し、皆が同じ非日常性を共有することでうまれてくるコミュニケーションの気持ちよさを川の上からよく見える花火を眺めながら味わっていた。
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by innerscape | 2005-07-25 00:18 | コミュニケーションデザイン

風景に出くわす

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カフェトークという会がある。これはアーティスト川俣正が色んな人と話しをするトークショーで、今回は53回目ということでCSCDの共催イベントとして哲学者の鷲田清一氏と話をされた。
鷲田さんと川俣さんの話の中で、興味深い話は色々とあったのだが、面白かった話題の一つに美術の二つの方向性というのがあった。
美術には大きく二つの方向性があったという。一つは全く意味を排除し、抽象化していく純粋芸術という方向性。これは箱しか作らないドナルド・ジャッドのようなミニマルアートなんかに見られるアプローチだ。
もう一方では社会と徹底的に関わっていくアプローチ。ヨーゼフ・ボイスやシチュオアシオニストなんかがそれにあたるんじゃないかと思う。
それを言い換えると何も書かないアートと何でもありのアートといえるのではないかという話しがあった。
鷲田氏はファッションでも同じことが言えるという。
意味やらしさを拒絶するファッション、意味づけ0のヨージヤマモトに対して 
何でもありのジャン・ポール・ゴルチェとなる。
しかしよく考えてみると0へのベクトルと、無限へのベクトルは正反対を向いているかのように見えるけど、実はそうではない。
それぞれの人が自分なりの解釈、多様な読み取りが出来るように、意味を排除して抽象化するという手法は、正解がないため実は何でもありの状況と同じなのではないだろうか。
意味がなさすぎるということと、意味にあふれすぎていることは、ともに僕たちの頭の中を判断停止の空白状態にしてしまう時があるような気がする。
情報過多の中で何かを信じることの出来る人と、抽象的なものを見て何らかの解釈をする人は似ていて、異常に何かに関心が高いか、読み取り能力が高いか、かなり自我の強い人間のような気がする。
たいていの人はそれほど高い関心や読み取り能力を持って作品や世の中を見ているわけではない。
僕達がよく設計しがちである、『何をしてもいい場所としての多目的広場』でも同じ状況が言える。みんなのために作りましたよ、なんでもしていいですよ目的で特徴なく設計された多目的広場は、実は誰も主体的に関わることが出来ない無目的広場に変わってしまうことが多い。
目的や対象が限定されている方が必ずしも良いとは限らないが、色んな人がその場所へ関わるためには、やはりどこかに誰かをつなぎとめる『引っかかり』が必要なのではないだろうかと思う。
それは空間的なひっかかりでも、モノによる引っかかりでも、意味づけを与えることによるひっかかりでもいいのだが、人をそこへ繋ぎ止めておくためのフックを設定することで、人の関わりが生まれてくるように感じる。

機能をカタチにするということでスタートしたモダニズムが結果的に意味を排除した抽象的な様式として世に送り出され、そうした様式への反動として出てきたポストモダンが意味100%の様式という極端なアンチだったが、実は僕達はその間で生きているんじゃないかなという実感がある。
意味や使い方を押し付けるわけでもなく、排除するわけでもなく、それぞれなりに読み取れるような、中間の方法はないだろうかという模索が我々マゾヒスティックランドスケープをはじめ、世の色んな所で試されようとしている。
アーティストの川俣正氏の試みもそうした動きの一つなのではないかと前々から注目していたが、話を聞いているうちにその確信は強まった。

自分の頭の中のみで考えたことの不毛さ。単純に感性だと言って表現したことのつまらなさがどこかにある。
それに気づいたのは大学院でデザインの勉強をしているときだった。
一つは自分の想像力の至らなさや、能力の限界と言うことももちろんそうなのだが、それ以上に既に結果が予想されてしまっていることを追いかけていくことにつまらなさを覚えたからだ。
だから川俣氏の言うことに共感できる。
彼も結果を想定して何かを製作するのではなく、結果に『出くわす』という言葉で説明していた。
サイトスペシフィックや現場性という言葉も使っているが、もうこれはほとんどランドスケープ教育の中で耳が痛くなるほど聞かされている言葉なので、僕は『出くわす』という言葉の方に反応した。
設定されたり意図されたりするのではなく、たまたま『出くわし』てしまう。そのことの刺激や気持ちのリアクションが新鮮に感じる。
鷲田氏はそれを身体性から捉えている。現場に行き、そこで感じることを通して体が理解するという言葉で語っていたのが印象的だった。

現場で得た情報や条件に全てをゆだねる態度、現場での状況を整理すれば答えが出てくるという態度。
これは建築の分野でも、特に最近言われていることで、作家の恣意性や表現性だけで出来た建物のつまらなさに対してのアンチテーゼでもある。
その場所、その環境から導きだされた必然的な回答が形態に反映されて欲しいと願う建築家たちが増えてきているのは事実だ。
そのときの現場性という中にその地域に住む人々まで含めて捉えられる。
そこに住む人も含めて自分の製作行為にアートに関係ない人を巻き込むことに川俣氏は興味を覚えるという。
作品を制作するというよりはむしろ製作する行為そのものが作品であり、そこで起こるコミュニケーションこそが作品の中身であると言う考え方である。
これを一重にプロセス主義とくくってしまっていいのかどうかは分からないけれど、建築ではちょっと前からワークショップという手法が盛んに叫ばれている。しかしアートでは川俣氏をはじめ注目を集めだしたのは最近のような気がする。
偏見といわれるかも知れないが、やはり『作家性の呪縛』が大きいカテゴリーほどプロセス主義へ移行するのは時間がかかっているように見える。
アートの分野ではまだまだ作品主義と言うのが残っているからなんだろうか。形の残らないようなプロセス、あるいは写真に残らないような作品、そして自分が手をつけていないものをアート行為と呼べるのかどうかということに行き詰っているように見える。
アートや建築は図にあたる部分である。何かを作ったこと、自分が作成した証をこれ見よがしに提示することで成り立っている。つまり出来上がったものが全て、結果が全てという世界だった。作る過程に意味があるとか言ってこなかったし、自分が作ったものがプロセスだなどといって誰かに改変でもされようものならカンカンになって怒り出しただろう。
しかしランドスケープデザイナーは大きいスケールの作品を扱ってきたためもともと作家性が希薄で、本質的には地を作ってきた職業でもある。
作品が大きいが故に個人のエゴや表現だけでは成立せず、多くの人々との共同や参加のプロセスを経て風景を作り育てていくというのは古くからやってきたことでもある。
川俣氏のやっていることもまた、そこに風景を出現させることなのだと思う。場所と人がコミュニケーションを図る、人と人がコミュニケーションを図る風景を出現させることが彼の作品なのだと思う。
そうだとした場合に我々のしている事と、川俣氏がしていることには差はないのかもしれない。
もともと風景なんて誰かがデザインしてきたわけではないし今後だってそうなんだと思う。でもある時期に、やはり誰かが風景を違った方向に導かなければいけない時があると思う。
そんな時にアーティストやランドスケープデザイナーが出くわされる風景を設定する必要があるのではないだろうか。
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by innerscape | 2005-07-14 00:24 | アート

情報と感覚

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哲学者の鷲田清一は講義や著書の中で『知識に依存せず自分の感覚で語ること』の大事さをよく口にされる。
絵画でも何でも、歴史的位置付けや価値付けで語っている誰かの口を借りずに自分の言葉で語ることの大切さを言っている。
情報を眼鏡にして作品を見てしまうことの不毛さ、ジャズのライナーノーツを呼んで、インプロビゼーションに感動するつまらなさ…。
確かに自分の感覚で語ることは大事なことである。自分自身への反省も含め、知識を借りて語られる言葉が何と多いことか。
自分の意見はどこにあって、どういう意思をもっているのかをなぜ話せないのかと自責の念に駆られたりする。
しかしそういう時はたいてい、自分の感覚に自身がもてなくなっていることから来ている場合が多い。特に最近色んな情報にさらされすぎていて、判断できない状況に陥っているような気がする。
このあいだ保険に入ろうとしたときも、数多くある保険のどれを選ぶべきなのか情報が多すぎて分からない状況に陥った。何が一番自分に合っていて、どれが一番適切なのかの判断が出来ない。
インターネットで調べて見ても、色んな立場で色んな意見が書いてある。読んでいるとどれももっともらしく感じる。人に話しを聞いても意見も様々だ。そうなったときに一体なにを手がかりに判断すればいいのか。
確かに自分の感覚をよりどころに判断といえば簡単そうだが、それだけでは
心もとない時がある。
そもそも自分の感覚だけで語ることが出来る人は、相当な自信家か自我の強い人か金か権力を持っている人が多い。
けっこう自分の感覚は移ろいやすくて、一瞬前に感じていたことがすぐに何かの影響で変化したりする。そういう意味では自分の感覚が信じられないという人も案外多くいるんじゃないだろうか。
そんな時に誰かが指針を示してくれればいいと思うときがある。
誰かが示した最初のひっかかりさえあれば、何とかそれに付け足したり、差し引いたり、変形したりと料理は出来そうなのに・・・。

そんな考えはいけないのだろうか。

そもそも僕たちの頭のなかは、知識や誰かの追体験や情報でいっぱいだ。どこまでが本当の自分の感覚で、どこからがドラマで見たことや読んだ本や、聞いた話といった他人の感覚の追体験なのかの区別は結構難しい。他の人はどうか知らないが、僕にはとても難しい。
僕はジャズのライナーノーツを読んでもいいと思う。知識に依存してもいいと思う。大切なのはライナーノーツを読んだとき、知識を得たとき、その時に自分の中にそれの意見に賛同できる感覚があるかどうかをチェック出来ることなんだろうと思う。
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by innerscape | 2005-07-12 00:28 | 情報デザインと風景

視覚に依存する我々

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昨日、東大情報学環で僕と共にプレゼンテーションされていた東京都写真美術館の森山さんからご招待をいただいたので『超(メタ)ビジュアル展』を見に行ってきた。
森山さんは日本でも数少ない映像のキュレーターで、建築家の森川嘉一郎氏とともに『オタク展』などを開催したこともある方で、昨日のプレゼンテーションの内容もとても面白くて大興奮してしまった。
4月30日から行ってきたこの展覧会は今日が最終日ということで、ご招待にあずかったのは本当にラッキーなことだと思う。
初めて訪れたのだが、東京都写真美術館は恵比寿ガーデンプレイス内にある。

さすがに最終日ということもあり、人がごったがえしていてなかなか前に進めずに居ると、どこかで見たことがあるような人たちを見かけた。
よく見ると、以前kavcaapの時にお会いしたダムタイプの高谷史郎氏と高谷桜子氏だった。
今度この東京都写真美術館でダムタイプの作品を展示するのだが、その打ち合わせにいらしていたらしい。お互い関西在住なので、東京のこんな場所で出会った事にしばしの間、驚きと喜びを分かち合った。

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『超(メタ)ビジュアル展』は
可視テクノロジーが高度化した今の時代らしい展覧会で、「視覚」に徹底的にこだわった展覧会となっている。
「ヴィジュアライズすること=視覚への欲求」が私たちをいかにつき動かしてきたか』ということを5つのサブテーマを通して紹介していて、視覚とそれを超えるメタビジュアルの可能性を広げる作品が新旧問わず集められている。実にパラパラマンガから最新のハイテク映像までラインナップは多種多様である。
5つのサブテーマの分類とその手法がとても面白く、ランドスケープデザインを初め、色んなデザインにも応用できそうなので書いてみる。
[ イリュージョン系 ]
歪める/変容させる/コラージュする/映す・照らす/繰り返す
[ アニメーション系 ]
動かす/止める/ずらす/色を変える/つかまえる
[ 3Dバーチャル系 ]
とりまく/飛び出す/触れる/リアルにする/出現させる
[ サイエンティフィック系 ]
拡大する/縮小する/探索する/高精細にする/音をさぐる
[ アーカイブ系 ]
写す/タイムスライスする/記憶する/蓄積する/伝える

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ジブリ三鷹の森美術館の映像装置なども担当されているメディアアーティスト岩井俊雄氏などの作品もたくさんあってとても面白かった。
じっと扇風機の羽を眺めていると、羽がある一定の速度を超えたときにゆっくりと回っているように見えることがあるが、その錯覚を使った作品などもあった。
色んな作品があったのだが、中でも僕が感動したのは、触れると影が飛び出す作品だ。
丸い台の上にフォークや、ナイフやライターなどの小物が置いてあって、それに光をあてている作品なんだが、先端に触れると光に照らされて落ちている影から人の影が飛び出したり、小鳥の影が飛び出したりする仕組みになっている。

この展覧会は本当によく出来ていて、我々の知覚がいかに視覚に依存しているかがよく分かる。
その視覚を支えるシステムがあって、それが巧妙に隠されているということを知りながらも、あるいはその仕組みが実はとても単純で錯覚に依存しているということを知りながらも、我々は目の前で展開されるビジュアルに感動し陶酔してしまうのだ。
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by innerscape | 2005-07-10 00:31 | アート

作り手と使い手の問題

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久しぶりに東京へ行った。
前回、訪れたのは5月の造園学会の時だったが、またそのときと同じように東大へやってきてしまった。
東大には平成12年から情報学環という組織が出来ている。テレビにも良く出るアジア地域主義論の姜 尚中氏やユビキタス・電脳建築論の坂村健氏、アフォーダンスの佐々木正人氏などが居られるところである。
今その情報学環とCSCDで何か共同研究を始めようという話になっている。

4月に阪大のセンターが立ち上がってすぐのころに、ソシオ・メディア論の水越氏はじめとする情報学環の方々が来られて、情報学環についていくつか発表を行ったのだが、今回は我々が東大へ出向いてプレゼンテーションを行う番である。
それで、CSCDからは八木さんと僕がプレゼンテーションを行うことになった。
そんな経緯でこうして東大までやってきたということなのだ。

ここんところkavcaapやオープニングイベントと連日のように飛び回っていたので、さすがに断ろうかと思っていたが、以前センターで僕がプレゼンテーションした内容がなかなか面白かったということで、センター長と副センター長から公共性と都市空間について是非プレゼンテーションしてほしいという話があった。
そう言われると何だか活動が認められた気がして嬉しいのでつい引き受けてしまう自分は何て単純なんだと思いつつも、以前からランドスケープエクスプローラーで行っていたワークショップ『マゾヒスティックランドスケープ』の話をすることにした。

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今回のプレゼンテーションは扱っているフィールドがそれぞれバラバラだったため、このラインナップを見たときに僕がこの場で発表するのはなんだか場違いな気がしていたが、いざ発表が始まり他の方々の話を聞いているうちに大きな共通点があることに気づく。
それは発し手と受け手、あるいは作り手と使い手、あるいはスペシャリストと非スペシャリストの関係性の問題ではないかと。

大阪大学は今年の4月に独立行政法人化してCSCDも出来たのだが、東大は一足先の昨年にすでに済ませており、色んな面で変わろうとしている。
会の前半でプレゼンテーションされた情報学環の竹原副理事は民間企業から東大へリクルートされた方で、東大のブランディングも含めたプロモーションをされている。
大学の中にはちゃんと発信されておらず埋もれているがかなり面白いリソースはたくさんあるはずで、僕も大阪大学で実現できたらと思って進めようとしているプロジェクトがあるのだが、民間からこうした人材を起用して大学の知識や技術、リソースをコミュニケーションできるカタチヘ変換して発信するのは大学と社会の架け橋になる可能性が高い。CSCDも大阪大学の中でこうした実験を積極的に行う施設となるべきだと感じる。

会の後半では各大学からプレゼンテーションが行われた。
CSCDからは、原子力発電の専門家と発電所が立地する地域住民との間のコミュニケーションの場について実践・研究されていた八木さんからのプレゼンテーションである。
次に東京大学の方から前回も阪大へ来られた佐倉さんのプレゼンテーション。
その次は今回、プレゼンテーションされた中では唯一大学所属ではないが、東京都写真美術館で映像作品のキュレーションを行っている森山さんが、以前森川嘉一郎氏が行ったオタク展や今開催中の『超ビジュアル展』の話をされた。
少し休憩を挟んで東大でワークショップを通じてメディアについて専門家と非専門家とのコミュニケーションの実践をされている長谷川さんからメディアについての専門家と非専門家が一緒になってメディアのあり方について考えるワークショップについての報告があった。
最後に僕がマゾヒスティック・ランドスケープのプレゼンテーションを行う。

今回のプレゼンテーションは扱っているフィールドがそれぞれバラバラだったため、このラインナップを見たときに僕がこの場で発表するのはなんだか場違いな気がしていたが、いざ発表が始まり他の方々の話を聞いているうちに大きな共通点があることに気づく。
それは発し手と受け手、あるいは作り手と使い手、あるいはスペシャリストと非スペシャリストの関係性の問題ではないかと。

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八木氏は、安全で安定した電力を供給しようと懸命にがんばる専門家たちがいる一方で、安全性について不安と不満の声を上げる地域住民たちがいる現状を見て、どちらももっともなことを言っているのにどうしてこんな軋轢があるのか疑問に思うところから活動を始めたという。市民と専門家の間でのコミュニケーション不足や理解不足を解消するために話し合うフラットテーブルを設け、その会の運営モデルを模索している内容がプレゼンテーションされた。
確かに専門家は、その分野についての知識や技術について他の人々よりもよく知っているし、市民を困らせようと思って原子力開発をしているわけではない。
一方で市民側は技術や知識についての理解はないが、自分達にとってそれが有益か有害か、あるいはどういうメリットとデメリットがあるのかを本質的に知りたがっている。
専門家はスペシャリストとしてだけではなく、ジェネラリストとしての能力が求められていると同時に、市民は陳情や反発を示すだけではなく意思決定の自由とそれに見合う責任ある態度が望まれていると言えるのではないか。
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同じことがメディアにも言える。
マスメディアのように大きな力が発する情報を一方的に受け取るという構造だけではなく、インターネットに見られるように、中央の大きな構造を介さずに部分同士でインタラクティブな情報のやりとりが行われるモデルがないかと模索され始めている。誰もが発し手であり受け手にもなる構造を成り立たせようとすると、やはりそこにも公共に対して責任ある態度が求められる。

もちろん、その問題は僕のプレゼンテーションで扱った都市空間にも起こっていることである。
作り手が一方的にこれで満足しなさいと言って与えた空間ではなく、使い手にとってこれが欲しいと自ら求める空間を生み出すにはどうすればいいのか。
その時に我々に求められるのは自らのエゴのみで要求を主張する態度ではなく、公共性に対して責任ある態度で臨むことである。
マゾヒスティック・ランドスケープで試みているのは、そんな責任ある市民が都市空間を自由に使いこなし、獲得される場所を増やしていく方法の模索である。

そうなった時に、作り手と使い手の境界線はかなりぼやけてくるのではないかと思う。
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by innerscape | 2005-07-09 00:37 | 居場所の獲得

積分されるアイデンティティ

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Kavcaapが終了したかと思いきや、CSCDの最初の共同プロジェクトでもあるオープニングイベントの日が間髪入れずにやって来た。
Kavcaapの方と平行してこちらもイベントマネージメントと会場構成をしていたため、目が回りそうである。しかしこちらの方は形式的な式典の要素をまだまだ引きずっているイベントなので、おおまかな空間構成は立地環境のカスタマイズにとどめて、小物を中心にイベントのアイデンティティを高めることにした。
会場のオービットホールの床は15個のパーツに分かれて昇降が可能なため、イベント内部を地形の中で行うと面白いのではと考えて以前から色々と模型スタディをしていた。
その際に会場をかなり暗くするため、段差が見えずに転ぶ人がでないように床には小さな照明を置いて段差を照らすことにした。これがなかなか美しくて、ホタルのようにポツポツと会場全体を不思議な感じに包んでくれる。
用意した品物は実は100円均一の商品なのだが、およそそうは見えない優れものである。同じ色のものを30ばかり用意するのは少々てこずったが、何とか当日には間に合った。

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当初、アイデンティティを高めるために揃いのTシャツを作ろうという意見が高まってきていたのだが、何となく野暮ったいなと思ったので別の方法を検討することにした。
スタッフ証でもなくTシャツでもない小物として、今回は60センチ×60センチのオレンジのスカーフを用意して、そこにテクスチュアのなるようにCSCDのロゴを並べてデザインした。
このオレンジのスカーフを全員が身体のどこかにそれを身につけるようにすることでゲストなのかスタッフなのかを区別する。
(余談だが、なぜかCSCDのテーマカラーはオレンジである。
これは設立者である鷲田清一氏の好みなのか、それともたまたまオフィスに入れた椅子の色がオレンジだったからか、様々な説が飛び交っているが、とりあえずオレンジである。)
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イベントの会場案内の立て看板も通常は業者に用意させるらしいのだが、オレンジをベースにこちらでデザインしたものを貼り付ける。
ゲストの名札も、スタッフとゲストが分かりやすいように色を分けてデザインした。
受付と会計の部分は普通は張り紙をして示すのだが、今回はボックスをデザインして、それに文字を印刷する方法をとった。なかなか可愛いサインが出来上がったと思う。
その他には、通常はこうした式典では横断幕で式典名を示すのだが、それも面白くないし紙ももったいないと考えたので、映像を作ってスクリーンで音楽とともに映し出すことにした。

イベントは二部構成になっている。前半はセンターの設立趣旨や概要説明を行い、後半は平田オリザ氏の演劇ワークショップである。
この演劇ワークショップもほとんど何も用意しなくてもすぐに出来るもので、いきなり出会ったばかりの人々にコミュニケーションを図りやすい状況を生み出す手法は流石である。
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大阪大学では今まで記念式典ではこんな試みがされたことがなかったので、来られた先生方の中には驚かれている方も少なくはなかった。
実際に社会で実務をしていた人間が中心になってやっているのでクオリティも悪いものではない。
僕がやった会場構成とマネージメントや映像デザインの久保田氏、グラフィックの清水氏、平田オリザ氏など外注するとなると相当な予算が必要になるだろう。
しかし、実はそれほど予算をかけなくても、時間や労力をかけなくても、ちょっとした工夫やデザインが積み重なるだけで、それを受け取る人の頭の中で次第にイベント自体のイメージは出来上がっていく。
『イメージはアイデンティティを確認する場として作用する。』とロンドンA.Aスクールの建築家ニール・リーチも言うように、こうした小さなイメージの積分がアイデンティティを描き出していくのではないか。
ブランディングとはそういうものなのである。
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by innerscape | 2005-07-05 00:42 | コミュニケーションデザイン

日常と非日常の接点

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4日間神戸アートビレッジセンターで行われたKavcaap2005未来のドキュメントが終了した。
最終日には、『S/N』の公演をダイジェストにまとめた作品の上映とトークセッション、そして『木村さん』の上映とトークセッションがあった。
『S/N』の方は総合プロデューサーのブブ・ド・ラ・マドレーヌ氏を中心に浅田彰氏、ダムタイプ高谷史郎氏、ジェンダー論の溝口彰子氏が語り合う。
僕は今回のこの仕事に関わるまでは『S/N』と言う作品もダムタイプというアーティストグループも知らなかった。
これは後になってブブさんから聞いた話しなのだが、実行委員会側からは逆に『s/n』やダムタイプについて何の偏見も予備知識もないような僕のようなクリエイターが今回の展示に関わることを重要に感じていたようである。
ダムタイプは様々なパフォーマンスを行っているが、その中でもこの『S/N』に関しては世間での扱いが特別に感じる。
それは単なるショーや表現としての価値を超えて、エイズやジェンダーやセクシュアリティやマイノリティの問題を問い直したからだと言われている。
通常のショーは見ている分には安全である。
全てが演出であることを前提に見ていて、自分のアイデンティティが脅かされることはない。しかし『S/N』はHIV感染者や障害者、外国人、ホモセクシュアルなどが演出の中で本当のカミングアウトを行うので、見ている側からすると、どこから現実で、どこからが演出なのか分からずに翻弄される。
カミングアウトするということはアイデンティティの問題にもつながるが、彼らは問いかける。観客として座っているあなたは何なのかと。
そんな現実を突きつけられる怖さを持った作品だと思う。
しかし純粋にショーとして楽しめないかというと決してそんなことはなく、幻想的なステージで繰り広げられるパフォーマンスは僕たちを日常から連れ出してくれる。
舞台には高くそびえる横長の壁が立っている。その壁の上で次々とスピーディに出来事は展開され、壁は演じるためのステージであると同時に、映像を映し出すスクリーンにもなっている。
ハイテクなイメージの音と光の中、演者が次々と壁の反対側へ倒れていくパフォーマンスは10年たった今見ても色あせることはない。
非日常なショーを出発点に日常の僕達の問題を照らし出している作品だと感じた。

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一方で『木村さん』の方は木村さんという個人とアーティストの高峰氏の間にある日常を映し出しているが、それは非日常でドラスティックな問いかけを含んでいる。
『木村さん』は森永砒素ミルク事件で障害者となった方への性的介護の話である。
アーティストである高峰氏は障害者の木村さんを介護するのだが、彼の性的介護まで引き受けている。その一部始終を記録した映像を使ってパフォーマンスをする作品である。作品では背後に二つのスクリーンがあり、そこに木村さんと高峰氏の手や眼が映し出されている。その映像を前に時折、高峰氏が頭でガラスを割っていくというパフォーマンスである。
この作品は内容がドラスティックなだけに色んな見解が飛んでいるが、僕自身はこの作品について自分の中でうまく整理できていないので、書きながら整理していければと思う。
まずこれは高嶺氏が木村さんを普段のように介護している中で、たまたま切り取られて作品化されたものである。
高峰さんがこのビデオを撮影したのはほんの偶然で、そこに映し出された映像が彼にとって何ともいえない良い感じだったことにこの作品の出発点はある。
彼がこのビデオを撮影してから世間に発表するまでの間、3年の期間を置いているのだが、きっとそこには色んな想いがあったに違いない。
たとえ最初の動機がビデオの持つ空気感を多くの人と共有したいという想いであったにせよ、障害者である木村さんをネタに、高峰氏が作品を作って発表することは、ある種の搾取と受け取ることも出来る。

彼はパフォーマンスの中で映像を硬質な感じにしようと述べているがどうしてなのだろうか。
生々しいリアルな現実では作品にならないからなのだろうか。それとも世間への言い訳や木村さんへの罪悪感が、作品の質感をクールにすることで果たされると、そう感じたからだろうか。頭でガラスを割るパフォーマンスは彼への贖罪なのだろうか。

木村さんはこのビデオを公開することを快く認めてくれたと作品の最後で述べられている。
何となくそれが僕は分かる気がした。
高峰氏と木村さんの間には二人にしか分からないプライベートな気持ちのやり取りがあるのかどうかは僕には知る術がない。しかしひょっとすると高嶺氏と木村さんの間に流れているのは、二人が過ごしている日常とは少し違う空気があるのかも知れない。
高峰氏は“ただの手”の役目を担わされているだけの可能性があるからだ。
木村さんにとっては、自分の感覚を刺激してくれるのは別段、高峰氏の手でなくても良かったのではないかという理解である。

無名の手__________________________________。
奉仕してくれる手としてあればいい。
それは『木村さん』の最後の高笑いにそれは象徴されている。
ラストシーンで高らかに笑う木村さんの顔には、高峰氏の心中などを気遣う様子などみじんも見えないように僕には感じられた。それはただ絶頂を楽しむエゴイスティックな欲望が漂うだけである。
もしそうだとするなら、高峰氏が『木村さん』を公表し、木村さんをネタに搾取することの何がいけないのだろうか。
互いにエゴイスティックな欲望でつながっている二人の関係をプライベートと呼べないのだろうか。
木村さんはそれを知っていたから許してくれたのではないだろうかと僕は思う。
いつも繰り返される日常的な事柄の背後には実は非日常な関係性がとぐろを巻いている可能性が垣間見える。

非日常を出発点とした日常への問いかけと、日常を出発点とした非日常の覗き見。
二つの作品から感じるのは日常と非日常の接点は実に危ういということで、その接点にこそアートの可能性があるように思う。
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by innerscape | 2005-07-03 00:46 | アート

緩やかなコミュニケーション

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6月30日から遂に神戸アートビレッジセンターで『kavcaap2005未来のドキュメント』が始まった。
このイベントはかつてダムタイプのメンバーであったアーティスト、ブブ・ド・ラ・マドレーヌ氏が総合プロデュースを勤めているのだが、ダムタイプの作品『S/N』や同じくダムタイプのメンバーであった高峰格氏の作品『木村さん』などの国内作品ばかりではなく、インドやタイなどの映像作品も出品されている国際展である。
今回は集大成ということで前年、前々年と異なり、プレスへの反響もかなり大きかったようで、人の入りも半端ではないようである。
僕らが担当していたギャラリーも、現場での作業がかなり難航していたが、なんとか無事に完成した。

最初に立てたコンセプトとイメージがそのまま立ち上がった空間を造れたので少し満足しているが、思わぬ効果もいくつかあった。
今回目指していたのは柔らかく区切られた空間を作ることである。
隣接するカフェの喧騒から少し距離を置きつつも、完全に遮断した内省的な空間を作るのではなく、緩やかにつながれている状態。7つの展示は独立しつつも関係性を持った状態を生み出したかったので、布という素材を選んだのだが、これがどうやら病室の空気感を持っているようである。
意図したわけではないが、何人からも病室のような印象を受けたという意見を聞いているし、エイズの問題を考える上でギャラリーが病室のデジャビュを覚えるという意見が出たのはとても面白い結果になったと思っている。

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つながれて一枚になった80mの布は、どこか一部分を引っ張ると全体に影響が及ぶようにデザインしてある。そのことは個人的な関係から感染したエイズの問題が、実は誰もが当事者になりうる可能性を秘めていて、今の社会全体の価値観を揺さぶる可能性があることを示唆するメタファーでもある。
布で作られたパーティションは、人が通ると風で少し揺れ、後ろに人が立つと影がうっすらと見えるというように、展示情報を乗せた壁そのものがインターフェイスとなって、裏側に立つ人と姿を見せないコミュニケーションが図れることも狙っている。
面白かったのは、ギャラリーの床面がきっちりとワックスがけしてあるので、そこに人の影が反射してはっきりとは見えない人の存在が感じられる空間になったことである。
これも布を地上から浮かして、床面を全て一つのフロアーとしてつなげたことが功を奏している。
社会を見渡しても直接的には見えにくいエイズの問題。
そしてエイズに向き合う人の存在が直接的なすがた形ではなくて、何かの媒介を通じた気配として感じられる緩やかなコミュニケーションのあり方を、何となく表現してみるとこんな雰囲気を持つのではないだろうかと思う。
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by innerscape | 2005-07-02 01:02 | 装置と風景

私“flw moon”が日々の生活の中で感じた事を見つめ直し記録します。
心のフィルターを通して見た日々のシーンをひとつづつ電脳に記憶させることで、果たしてどんな風景が見えてくるだろうか・・・?

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