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私的風景の電脳記録
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象徴の賞味期限って?

a0091712_273835.jpg『〈建築)とは有り体に言ってしまえば、太陽の塔の形をした大屋根みたいなものである。建築の中の建築である西洋の大聖堂を思い浮かべれば、このことは容易に了解できる。宗教的権力が、空間を覆う架構の形態によって表現されている。ところが近代以降に宗教や君主に代わって建築表現に力を供給し続けてきた国家、制度、公共性、地域、大企業資本、社会階層、マス・イメージなどが衰退・細分化・流動化したことによって、かつてのような一枚岩の長期的な社会的価値を形成するものがなくなった。つまり、そのような観念を大きく永く表象するという建築の特質に合致する対象が失われたのである。
その結果、建築はシェルターとしての機能だけを残し、ある種の高級さを持った建物を〈建築〉として区別せしめていた諸所の表象機能を建築から分離して、よりフレキシブルで訴求力のある媒体に移した方が効率がよくなったのである。「お祭り広場」と「太陽の塔」はシェルターと表象機能のこの分離を、すなわち建築デザインの失効を見事に描き出していた。』(趣都の誕生 森川嘉一郎)


a0091712_28743.jpgなるほどなるほど。
とすると、建築は象徴と機能に分離してしまったということでもあるよね。

工場なんかを考えてみると、そこには象徴性を持たせようなんて考えは一切見られない。
そこには機能や必要性しかなくて、必要に応じて継ぎ足していったコラージュのような形態が工場建築だと言えるんじゃないだろうか。
しかし、ガスワークスパークやエムシャーパーク、ナムラの前の工場なんかに見られるように、象徴を排除して機能だけを追い求めて出来たはずの建物に対して象徴としての眼差しが向けられているのは一体どういうことなんだろうね。


一つにはポストモダンの時に象徴が作られすぎたということなんだろう。
アヒルの形をした建物やモスクのようなラブホテル、ハイテクを象徴するパチンコ屋、ゴリラを乗せたジーンズ屋などが巷に溢れすぎていた時代があった。今でもそれは続いているんだけどね(笑)。

a0091712_283343.jpgそういった作られた象徴性、誰かに演出され、誰かの手の平で踊らされているという感覚に対してどこか辟易しているんじゃないだろうか。
その演出家が国家だって状況はおんなじだよね。
モダニズムの時は、戦後復興だ、オリンピックだ、万博だと国家が演出した壮大な象徴に僕たちは踊らされていた。
その次にやってきたポストモダンやバブルでは民間巨大資本が演出する数々の象徴、ブランドスーツ、ボジョレヌーボー、AOR、ディスコに僕たちは文字通り踊らされていた。
今だっておんなじだよ。
商業やメディアがファッションとして演出するライフスタイルに踊らされている。
カフェやデザインやアート、ゲームや携帯やパソコン、ipod・・・。
確かにだんだん規模は小さくなってるし、象徴性も多様化した。スーラが描く『グランドジャッドの日曜日』のようにみんな近くに居るけれど、同じ方向を向いているわけではない。


でもやはり僕たちが手にするモノは誰かに演出され、その演出によって僕たちは一喜一憂させられている。
資本主義が続く限り、僕たちは毎年新しい水着を買わされ続けるんだよ(笑)。
そのことに対して、みんな少し飽き飽きしてるんじゃないだろうか。

だから演出されていない、つまり象徴性がないような工場に感動するんだろうね。

でも気をつけないといけないよ。
僕たちが感動している象徴性を失っている工場も、アートとして演出され象徴になっているということを忘れてはいけないよ。

やっぱり結局そうなのかなぁ。
宗教が持っている象徴は、まだまだ力を持っているんだろうけど今の時代での象徴っていうのはとっても移ろいやすいんだろうね。
それに簡単に陳腐化してしまう。

何かの象徴でも自分で発見しない限り、誰かによって発見されて演出されないと僕たちには届かないだろうからね。
そうして共有された小さな価値や象徴は、やがて大きな資本やシステムの中に取り込まれていってまた金儲けの手段として使われる。
そして消費されていくんだよ。

消費され尽くされないものって、一体何なのかなぁ・・・。
どう思う?

また意見聞かせてくれると嬉しいな。
ではでは。
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by innerscape | 2005-09-29 02:06 | 未来の自分との対話

空間のポテンシャル×装置のポテンシャル

a0091712_4472849.jpgNTTデータと共同で今進めている地域配慮型アセスメントの一環で千里ニュータウンの佐竹台という街を歩いた。
事前に聞いた話では千里の中でもかなり古くて、ポツポツと空き家が見られる場所と言うこともあって、安楽死への期待も含めて歩いていたのだが、歩いているうちにこの時代に作られたものは、何だかしっかりとしたつくりのものが多いように思えてきた。
住宅も決して派手ではないが質実なものがあるし、公園にしても風景の骨格がきっちりと作られているように感じる。
年月を経ているので樹木がしっかりと空間をつくっているし、水面越しの風景もなかなか絵になるような構成をしていて豊かな空間が出来ているなというポテンシャルを読み取っていたのだが、一緒に歩いていたワーキングメンバーの方々の何人かからは公園を見てベンチもボロボロだし、遊び場も少ないというような意見が聞こえてきた。
確かにそうである。
ベンチはボロボロだし、水面には柵がついていて到底水辺には近づけない。遊具らしきものも見当たらない。
やはり普通に散策するという以外に使い勝手が思いつかないのだろう思う。

a0091712_4475460.jpg特に大きな場所なんかではそうなのだが、人が場所に関わるためには、そこに何らかのきっかけや装置が必要なんだと前から僕も感じている。
以前会った建築家の藤本壮介氏もそんな事を言っていて、せんだいメディアテークに行ったときに、家具の回りに人があつまっていた、つまり家具を中心に人のレイアウトが起こっていたのを見て、家具と建築の中間のような建物を設計できないかと考えたそうだ。
同じく建築家の塚本由晴氏も人をレイアウトするための治具(ジグ:加工するときに、特定の角度や位置に材を固定するもの)のような役割を果たす装置として自転車なんかの装置の可能性を考えている。
自転車の後ろが椅子やテーブルなんかの家具になっていて、それが何台か集まってくると路上にカフェが出現する装置を提案しているのだが、こうしたある装置が風景や状況を作ることに可能性を感じる。

こうした装置の可能性については僕自身もテーマにしていきたいところで、携帯するものとそれが挿入されることで、何でもなかった場所に何らかの状況が起きれば面白いと考えている。
とはいえ、それが無いからといってその場所のポテンシャルが低いかというと決してそうではない。
a0091712_44825100.jpgそれを支える空間のポテンシャルが高ければどこをどう改変すればもっと豊かな状況が獲得できるのかはおのずと見えてくるような気がする。
この街歩きの最初に少し映像を流して、一緒に歩くメンバーの頭を刺激しようとしていたのだが、その中で掲げたシャーマンの視点というのは、その場所の意味や関わり方などを全て取り払い、感覚的に気持ちいいかどうかを感じる視点として提示した。
それは空間のポテンシャルを発見するという視点でもあり、その次に示した演出家の視点はそこをどうすればもっと効果的に演出できるかという視点でもあった。
素直に感じることで発見できる空間のポテンシャル、そしてそのポテンシャルを効果的に演出する装置の両方が見えるときにその場所の可能性が少し開けて見える。
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by innerscape | 2005-09-09 04:43 | 装置と風景

演技とコミュニケーション

a0091712_451126.jpg映画に出ることになった。
実は1年ほど前からずっと出演のオファーがあって脚本の完成を待っていたのだが、ついに完成して撮影がこれから本格的にスタートすることになった。
第一回目のスタッフの顔合わせは既に一部済ませていたのだが、今日はメインキャストが集まって台本合わせを行った。
今回の映画の監督の細川氏とは前作からのお付き合いである。
前作の『ベイシティコップin KOBE』は主演の十一十三氏のプロデュースのもと細川監督が手がけた作品で、第10回ガンアクションムービーコンペティションで東宝賞を受賞した。ちなみにこのコンペティションの審査員の中にはアニメーション映画『イノセンス』などの脚本を手がけた押井守氏の名前もある。
その作品で僕のバンドが一部楽曲提供をした時の縁からお付き合いが始まったのだが、映画の打ち上げの時に『被写体として興味があるんで次回作出てくれない?』の一言から今回の作品では役者と音楽の両方から参加することになった運びである。 
うーん、役者は初めてなのでこれは結構気合がいるかもと最初は構えていたのだが、監督から脚本を書く際に僕をイメージしながら書いているキャラクターがあるなどと言われてしまうと、ついつい乗せられてしまう困ったタイプなのだなぁと自分を再発見したりした。
以前から映像を自分で作ったりしていたし、映画にも少なからず興味もあったので、せっかくだからこうした映画製作の現場に参加して色々と考えてみようと思う。
脚本に目を通したがこれが非常に面白く、各キャラクターの個性が暴れまわるバイオレンスアクションになっている(仮にも大学の教員がこんなことしていいんかなぁ…っていう内容だが…)。

a0091712_4514432.jpgストーリーの詳細は書くことが出来ないが、しかし僕が演じる荒川という男はなかなかのくせものである。元凄腕の殺し屋だったのだが何かのきっかけで片足を不自由にして、今は女子高生を使って代わりに殺しをさせているエージェントである。その思考形式や行動パターンには独特のものがあり、台本に書かれていない彼の生活を色々と考えると想像力が膨らんで楽しい。
僕は今回ではアクションシーンとしてはそれほど多くはないのだが、他の役者さんはアクション満載で前作と同じく武術指導の小松氏のもとアクショントレーニングが日々行われるようだ。
うーむ。他は芸歴の長い役者さんばかりなので、かすんでしまわないように頑張らねば…と思いながらCSCDにて台本読みに入る。
やはり他の役者さんはセリフ回しもうまくて流石だなぁと思う反面、実は日常会話っていうのは結構支離滅裂なことが多いし、しどろもどろになりながら話すこともあるんじゃないかなと、ついつい分析的に演技を見てしまうのは悪い癖かもしれない。
役者さん各自がそれぞれの考えで役を解釈し読み上げたセリフを、監督が演出として修正するのを見ていると、そこにコミュニケーションデザインにつながる可能性があることを感じとってしまう。
平田オリザ氏のワークショップでも気づいたことだが、役者が台本から感じ取っている役のコンテクストと、監督がキャラクターに思い描いているコンテクストにはズレがあることが多い。それを調整していく作業がずっと続く。
実は役者がその役のコンテクストさえ理解できれば、セリフの些末な部分は気にならずキャラクターがダイナミックに動き始める。『ここはもっと子供っぽく』とか、『ここは大人の押し付け方をして』などと演技を調整していくのを見て、逆にキャラクター同士の関係性を自然にかつ個性的に浮き彫りにするのが演出の仕事なんだなぁと思う。
僕たちは日常ではそんな事をあまり意識しないで生きているのだが、それは自分の中のコンテクストと会話をする相手のコンテクストを理解しているからだ。その事はそれまでの時間の中で築き上げてきたお互いの関係性を知っているからこそ自然な動作や言葉づかいが生まれる。
しかし演技というのはそうではなく、ある切り出された時間の中でいきなり経験したことのない人になって、しかも素性の分からない相手と会話をしないといけない。
セリフはもちろん重要な要素なのだが、そこで発せられるセリフだけでは意味を伝えはするが、キャラクター同士の関係性まで伝えないことが多い。それを感覚的に伝えようと思うと、その人が何を感じ何を愛し何を憎んでいるのかという事を理解することが大切なのだと思う。
自分が誰かになるということで得られるこういう理解って実はコミュニケーションにとって重要な要素なのではないだろうか。
うまく言語化できていないけれど(平田さんがあちこちでされていると思うが…)、今回の映画出演をきっかけにこうした事も考えていければと思う。
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by innerscape | 2005-09-04 04:49 | 映画と演劇

私“flw moon”が日々の生活の中で感じた事を見つめ直し記録します。
心のフィルターを通して見た日々のシーンをひとつづつ電脳に記憶させることで、果たしてどんな風景が見えてくるだろうか・・・?

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