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私的風景の電脳記録
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イメージをめぐる冒険

a0091712_114185.jpg哲学者の鷲田清一氏のお誘いで、今年度の後期に臨床哲学の授業を担当していたのだが今日で終了を迎えた。最終日の今日は様々な作品発表を学生にしてもらったのだが、これが色んな表現が出てきた面白かった。何ともよくやったと思う。
現象学の鷲田氏、メディアデザイナーの久保田氏、ランドスケープデザイナーの僕の3人で進めてきた授業だったが、あまり段取りも出来ず毎回ハチャメチャな授業の中、ついて来てくれた学生には本当に感謝したい。そして毎回しっかりと映像アーカイブをしていただいた阪大メディアラボの久保田ミオさんにも感謝したい。
イメージリテラシーという題目ではじめられたこのシリーズだったが、思えば本当に色んな実験をしてきた。少し長くはなるが一度ふりかえって様々なイメージの冒険を整理をしてみることで何かが見えないかと思う。
4月からの2006年度も同じ授業を行うがその際の参考にしたい。

第一回目は鷲田氏からこの授業の狙いを話される。人は何かを見るとき必ず見えない面や全体性をイメージで補いながら眺めていて、人はイメージの世界に生きているという問いかけがなされる。はっきりと何かをイメージすることの難しさ、あるいは人の顔などは非常にイメージしにくいものであるという話もされる。後半部分はアートが開く可能性とは何かを問いかける。言葉によらず感覚に訴えかけるもの。そこにどんな可能性があるのか、そしてそれを言葉や対話へと定着させていくにはどういう事が必要なのか。アーティスト束芋の映像作品などを紹介しながら、映像がもたらすイメージを感じてもらう。
a0091712_122773.jpg第二回目は僕がランドスケープデザインとイメージについて講義を行う。神様が創った世界に人が何をイメージしながら環境を作ってきたのかを歴史的に見せていくことで、イメージが環境創造をリードすることの意味を考える。また現代を生きる我々の日常風景に潜むイメージの断片をどう拾い集めるのか。そしてその断片を意識的に変化させることで風景のイメージはどう変わるのか。そんなことを過去のランドスケープ作品や風景デザインの変遷などのスライドを見せながら風景の読み取りと表現について講義をする。
第三回目は前半部分は僕がマゾヒスティック・ランドスケープの講義を行い、イメージのコントロールによって開かれる風景の可能性などについて話をする。後半はメディアデザイナーの久保田氏の作品「小さなおうち」の映像とその他のアーティストが行った都市空間を主題にした映像作品を見た後にそのイメージについてディスカッションを行った。

a0091712_13673.jpgこの3回の試みの中で僕が読み取ったことがある。
誤解を恐れずに言うと、自分の脳の中で選ばれたもので世界が構成されているというのが現象学のベーシックな考え方だとすると、3者の共通項は断片化した世界をどう再構成するかということなのではないかと理解している。
哲学は世界の裂け目を言葉や概念で提示することで、今までとは違う方法で世界観を再構成しようと試みる。(アートは言葉によらないもので提示しようとするが。)
久保田氏が見せてくれた2002年以降増えてきているという都市を俯瞰する映像作品に共通するのは、都市という雑多で多様で理解不能なものに、あるイメージを重ね合わせることでコンテクストを与えようという手法に見える。多様なコンテクストを与えることで多様な再構成のあり方を提示しているようにも読み取れる。
我々がマゾヒスティック・ランドスケープで問おうとしているのも、結局はその部分である。今までのデザインでは細部を構成するディテールや空間構成の美しさなどが問われてきたが、ここでは風景を読み替えるつまり頭の中で場所のイメージを再構成することで次の使われ方や行動を誘発する方法を目指している。
建物のスキマを赤く塗る提案や、場所にイワレを与えて意味を変質させるような提案が目指しているのは頭の中での風景への固定観念を変質させ再構成することを目的としている。
そんな事もあって、人それぞれがある概念や言葉に対してどんなイメージやコンテクストを持っているのかを把握することも含めてイメージを収集する課題を出してみた。

a0091712_13437.jpg第四回目にはその課題を発表してもらう。自己紹介的な意味合いも含めて、学生それぞれに「私の愛しているもの」/「私が愛していないもの」/「大学の象徴」/「大学の中での私の居場所」という4つのテーマで写真を一枚づつ選んでもらってそれをプレゼンテーションしてもらう形式をとった。同じテーマでも人によって様々なイメージがあることをディスカッションして体験してもらう。
第五回目はもう少しイメージの切り取りや捏造をテーマにしてみる。学生をグループに分けてグループ内でテーマを決めてメンバーそれぞれ互いにインタビューし合い1分間のインタビュー映像を記録させてみた。そしてカメラを向けることの持つ意味や、向けられた中での人の反応やコミュニケーションについて考えてみた。
カメラとマイクを向けられた人は、答えなければならない状況が生じてしまう。これはある種の暴力にも近いということも語られた。普段のコミュニケーションは問いと答えが一対一になっているとは限らないし、語りたくないことは黙することが出来るが、インタビューではその権利が行使されにくい。また映像は世界を映し出しているように見えるが、実は切り取られ断片化したイメージで容易に事実を捏造してしまうことにつながる。実際に参加して見てよく分かるのだが、映画というのはそういうイメージを捏造する手法で作られている。
第六回目は寺山修司氏が1960年代に行ったインタビュー映像と、障害者の遠藤氏がケアに来る学生やフリーターと対話するのを記録した「えんとこ」という作品を見せてドキュメンタリー映像が持っている意味や、期せずしてもってしまう意味についてディスカッションする。
寺山修司のインタビュー映像では、矢継ぎ早に答えにくい質問をするインタビュワーに対してたじろいでいる回答者の映像。社会的な事には借りてきた意見のような言葉で簡単に回答できてしまうのに、それが個人的な事へ落とし込まれると急に言葉を失してしまう状況。カメラに写されるということはその後にそれが多くの人の目にさらされる状況に陥ること、つまりパブリックを想定してしまうことをイメージしてしまっていることが浮き彫りになる。
「えんとこ」では障害者の遠藤さんの介助をするボランティアへのインタビューだが、生きることに理由が無いということを問いかける。何かのために生きるという事を強いられている我々に、遠藤さんは生きるために生きることを見せてくれる。遠藤さんの言葉の中で僕の印象に残っている言葉がある。悩める大学生が言った「生きていることに理由なんてないですね」という問いかけに対して「理由が無いから楽しいんじゃないか」と陽気に答える障害者の遠藤さん。
人生には正解がなく選択しかない。そして真実はなく解釈しかないということを教えてくれる。
この二つの映像を踏まえた上で、学生有志をその場で10人ほど募って2チームの映像班を作らせ、ディスコミュニケーションを主題とするインタビュー映像作品を作ってきてもらうことにする。


a0091712_10556.jpg第七回目は「音」とイメージをテーマに講義とワークショップを行う。前半にジョン・ケージのドキュメント映像を見せながら、彼が実験的に試みたピアノの前で演奏せずに過ごすことで発見された環境音の話をする。その後に我々を取り巻く様々な音を探しに大学内へ出てサウンドスケープを記録させた。後半はビジュアルイメージを音だけで伝える実験と、机をたたくリズムだけで2者の対話が成立するかどうかの実験を行った。
エッフェル塔の絵を見せられた学生は、音でそれを表現してビジュアルイメージを見ていない他の学生へ伝達する。ビジュアルのイメージをいかにして音のイメージへ変換するか。それをどうすればビジュアルのイメージへ共有できる形へ持って行けるかを実験して見る。
次第に人のイメージを音へと変換する実験へとスライドしていく。僕と久保田氏を学生が音で表現し始めた。僕達には結構意外な音が出てきたので、これは結構面白かったが学生同士では共有されているということは、客観的にビジュアルとサウンドの間にイメージの相関性があるということだろう。
この手法は可能性がありそうなので、もう少し改良を加えて開発できるような気がする。
もう一つの机をたたきながらリズムで会話をする実験も面白かった。ジャズのコールアンドレスポンスのようにリズムが弾むのかと思いきや、全く逆の現象が起こる。きっとそれは互いにイメージしているコミュニケーションが違うのではないだろうか。これも最後時間切れで十分なディスカッションが出来なかったが、異性同士や見知らぬ者同士、親しい友人同士、あるいは顔が見えない状況下などでコミュニケーションの図り方などが変わるのかということにも興味がある。
これもシチュエーションを設定した実験や、リズムから逆に2者の関係性をイメージするなどの実験も開発してみたい。

第八回目は「ディスコミュニケーション」をテーマに学生有志2グループが作成したインタビュー映像をプレゼンテーションしてもらいそれをもとにディスカッションを行った。
再びカメラを向けられることの意味が問いかけられる。
1班は寺山修司のインタビュー映像を元に、学生がインタビューを開発して街角で見知らぬ人にインタビューを行う。間をたっぷり取ってみたり、同じ質問を二回してみたり、口調を変えてみたりする。回答者はたいがい、質問に対してたじろいだ態度を示していて興味深い。ディスコミュニケーションが生じたかどうかは分からないが、普段、我々がどういうコミュニケーションを図っていて、何を自然なコミュニケーションとしているかが浮き彫りになる。
2班は二人が同時にインタビューしてみたり、犬に話しかけてみたりする。二人が同時に離しかけると回答者は当惑する。確かに普段の会話でも同時に離しかけられる状況は実はそんなに多くないような気がする。
犬に話しかけた場合は、飼い主が必ず犬を代弁するという構図は、犬が一種のコミュニケーション誘発ツールになっているのが良く分かる。
CSCDでも哲学者の本間氏が犬を連れているのだが、万国共通でコミュニケーションのツールとなっている。

この6~8回目ではイメージの読み解きから少し外れてコミュニケーションという方向へスライドしていったように思える。この両者の間が無関係だとは思えないが、もう少し分かりやすい形で関連性を持たせた手法を開発する必要がありそうだ。

第九回目は久保田氏によってコマ撮り撮影の手法でアニメーション映像を作成した。
切り取られた時間を積分していくと、連続したイメージが出来ることを学ぶ。映像イメージは静止画のイメージと違って、時間の流れの中で捉えられるので、我々が普段から脳の中で断片的に捉えているイメージに近いのだが、その反面想像の広がりを限定してしまっているように思える。写真などの静止したイメージは、イメージでもあり物体でもあるので、別のイメージを持ってしまうが、それ故に想像を広げるような気がしている。


a0091712_104195.jpg第十回目はCMの持つイメージを巡って議論する。
アワードを撮った世界各国のCM映像を見せながら、コマーシャルがどんな戦略を持ってメッセージとイメージを作ってきたのかを見る。
当初モノの機能・ファンクションをメッセージとして伝える役割であったCMが、消費社会が加速化していく中、次第に商品イメージや企業イメージといったイメージへと変遷していく。そして、完全にメディアを通じてあらゆるイメージが浸透した昨今ではそこにインテンシティ(あるいはインパクト)のあるイメージが好まれるという現象が起きつつあることが指摘される。
この回の後半部分では、最終成果として作品を制作してもらうミーティングへ移行する。
今までの写真や演劇的手法や、映像、サウンドなど、全てを駆使して『間』というテーマでグループ作品を制作発表してもらう課題を与える。
『間』という概念は空地を扱う我々ランドスケープにとっても非常に重要な概念である。空間的な『間』の意味合い、図と地の関係、コミュニケーションされる中での時間的な間の意味など、出来るだけ広がりを持たせた抽象的な言葉を設定した。

第十一回で、『間』についての作品を発表してもらう。
6グループに分かれたが、多様な作品が出てくる。
1班 リレー形式でメンバーに間のイメージを渡していく。最初に柔道の間合いを撮影した写真を受けて次の人が、向き合ったぬいぐるみの間合いを撮影する。それを受けて3番目の人が水族館の魚と人間の間合いを撮影。そしてその3枚に言葉をつける人とそれらを映像として編集する人。それぞれの間ではコミュニケーションは図られていない。
2班 サザエさんのキャラクターの人形を作って、街の色んなシーンで物語を展開させる映像。代表的な家族イメージを使って、そのキャラクター間の関係性の変化などを作品化する。
3班 コマ撮りのアニメーション作品。おたまやレンコンやドーナツや行間など様々な間を埋めていく映像を作ることで逆に間を浮き彫りにする。床に手を置いてその周りを何がで満たした状態で手をどけるとそこに間が出来る。図と地の関係性に着目している。
4班 テレビの人気番組『クイズミリオネア』を使った作品。司会のみのもんた氏が醸し出す間を全てカットする事で番組がいかにつまらなくなるかを表現。逆に言うと答えを待っているあの『間』が番組の本質でもあることを指摘。
5班 我々の講義映像の編集、歌の演奏、風船を割るパフォーマンスなど様々な表現を全て1分という切り口でまとめる。表現されるものによって、客観的な尺度である時間が長くも短くも感じたりすることを表現。
6班 紙芝居に音響をつけるパフォーマンス作品。知り合ったばかりのメンバーのぎこちない間をそのまま表現できるように深く打ち合わせせずにパフォーマンスに臨む。


このシリーズの講義全体としては、我々と学生が共同で行う実験という感じがしている。
本来大学は単に知識を身につけるという目的以上に、こうした可能性を広げる実験をもっとして見てもいいと思う。
知識を与える講義と体験を与えるワークショップが鳥の双翼のごとく必要なのだろうという気がしている。
しかし今回は初年度ということで実験的な試みも面白いが、次は少し落としどころを見ながらシリーズを進めていかないといけないだろうと思う。
それに、毎回行われたことが一体どういうことで何が学び取れたのかを確認しながら進んでいけるようなシステムへと持っていく必要があるように思える。
平田オリザ氏が開発した演劇ワークショップも当初は様々な実験的な試みだったはずである。その中からメソッドとして練り上げて開発されていったように思える。そういう意味では今は我々の個人プレーに頼っているこの講義も、ゆくゆくは誰でも出来るメソッドととなることを見据えて進めていかないといけないと思う。そのためにはもう少しイメージをめぐって冒険してみても良いのだとは思うが。
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by innerscape | 2006-01-27 00:41 | 未来の自分との対話

未来の地となる明日の図

a0091712_193286.jpg午前中に京都造形芸術大学での演習指導を終えてセンターへ戻り、その後豊中キャンパスの方で今日開かれるキャンパスデザイン室のワークショップに少し顔を出してみる。
キャンパスデザイン室はCSCDと同じようにこの4月に新しく出来た組織である。
建築学科の先生から1人、民間の実務者から1人、事務局本部の施設部から1人という3人の構成になっている小さな組織だが、これからキャンパス全体のマスタープランを作成して実行していこうという目的を持っている。
今までの大学のキャンパスは場当たり的に整備していったという経緯があって、建設時期もバラバラだし、設えやデザインも各部局ごとにバラバラで大阪大学全体としてのブランディングやトータルな戦略がおよそ見当たらないような事になっていたが、こうした組織の成立を機に、トータルにキャンパスを見ることの重要性が考えられ始めるのは良いことだと思う。
しかし考え方の方向性で多少気になることもある。


a0091712_195353.jpg話は少し戻るが、少し前に基礎工学部の研究科長から看板の設計をして欲しいと頼まれたことがある。
看板の設計だけをするのは容易いが、その看板が設置される周辺はツツジがびっしりと植え込まれていて人の立ち入りも出来ない狭い前庭になっている。その中にいくら綺麗にデザインされた看板を置いても本質からははずれているのではという思いを消せなかった。
それでどうせならと周辺のランドスケープと一体化するカタチで看板を提案をした。
幸い前庭と接する一階部分は、実験室系の部屋が多く人の出入りが前から無いどころか、窓もオープンにならないような部屋ばかりである。歩道もそれほど広くはなく、現状では植え込み中に隠すようにゴミが大量に捨てられたりしている有様である。将来構想としてこの建物の前の道路にバスローターリーが整備されることを考えれば少しでも使える空間を広げておくことが重要に思えたので、周辺の低木の植え込みを取り去り、歩道と連続する芝生法面を幾何学的に設えたデザインをした。その斜面の一部を切り込んだ断面が看板と一体化しているというデザインである。
しかしキャンパスデザイン室の方々と少しディスカッションをしている中で見えてきたことがある。このストリート部分の将来構想となる下地が決まっていない状態で先に僕が構想したようなデザインが出来てしまうと、後々の計画との調和がうまくいくかという事を危惧しているのである。それはきっと僕の提案が調和性を持った地としてではなく、象徴性をもった図のみとして捉えられているからだと感じた。

確かに象徴性を持たせているデザインをしたので、その感覚は理解できないこともない。
地となる空間を整備することが、街づくりやキャンパス整備の中では今までは唱えられてこなかったし、そもそも全体性を見ているセクションが大学の中にはなかった。だからその重要性は地を作る事を職能としているランドスケープデザイナーの僕としてはなおさら意識しているつもりである。
しかしそれはきっちりとこの場所の地のあり方が既に検討されていた上での話である。
この場所の将来計画はどうなっているのかと尋ねてみると、まだそれは決定されていないという。整備時期についてもまだ決定されていないという。ではいつ決定されるのかと効いてみるとそれもまだ分からないという返事が返ってきた。

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将来構想が出来上がっていないし、いつ出来上がるかも分からないような場所だからこそ、将来的に様々な変化に耐えられるデザインが必要だと思うし、同時にそのイメージが、今後行われる周辺の開発イメージを引き起こしていく第一歩になる必要がある。
そんなデザインを目指してこれを考えている。
植え込みを取り去り改変しやすい芝生敷きにすることで今後の改変への要求に耐えうる形態を取るのと同時に、この芝生敷きを広げていこうと思えばストリート全体に地として広がってけるように両端部をオープンエンドにしたデザインが有効であると思う。
それと同時に芝生面をあまりに平らにしすぎると自転車置き場として利用されてしまうため、芝生面に角度をつけるというルールのみを固定して、後は芝生部分を出来るだけ様々な使い勝手が出来るような斜面の振り方をしている。
ポイントはその斜面のあり方に出来るだけ図としての象徴性を持たせることである。
地を作っていくのに意外だと思うだろうが、実はこのポイントが重要なのだと思う。


a0091712_111757.jpg地が地として有効性を持ちうるのは、地が一気に整備された時である。
整備時期がバラバラで、いつ完成するかはおろかいつ決定されるかも分からないような地の形成に向かって進めていく間に時間は過ぎ去っていく。ではその間その場所を一体どうするのだろうか。
今あちこちでマスタープラン型の開発の限界が言われている。

将来的に町はこうなりますという未来像を描いて、その姿へ向かって20年あまりの歳月を費やして進んでいく。
その20年間はいつも完成されていない中途半端な状態ので過ごさなければいけない。20年後に出来上がったときには最初につくったものと最近出来たものとの間には、同じ設えなだけにその時間の違いだけが目立つようなちぐはぐな風景が出来上がる。
そうしたマスタープラン型の開発にはもはや限界が来ているんじゃないだろうか。
一気に全てを開発できず小さな場所をコツコツと作り上げていく場合、地を生み出すことには敷地に限界がある。そして新たに生み出されたものが地として機能しない以上、図としても機能していなければ、毒にも薬にもならないものを作っていることになってしまい、将来の地へとつながっていく可能性は薄い。
20年先、50年先の将来には地となることを見据えながら、明日の段階でも図として完成していること。そのためにはいつの断面でも常に図として完成していることと、そしてそれが集積していったときに地になっていることが仕組まれていること。それはクラシック音楽のように楽譜とメロディによって展開が定められている演奏ではなく、ジャズのようにコードによって統一が定められている中で広がる演奏の多様性のようなデザインなのかもしれない。
そういう考え方が重要なのではないかと思うのだが、キャンパスデザイン室の方々にはいくら説明しても意味不明のようである。
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by innerscape | 2006-01-19 01:06 | ランドスケープデザイン

役立たずロボットの教え

a0091712_1192292.jpg21世紀に入ってしまってからもう5年も経ったが、一向にアトムやドラえもんのようなロボットが開発される気配を感じない。果たしてロボットは僕達とコミュニケーションを図ることの出来る友人となり得るのだろうか…?
CSCDでは科学技術コミュニケーションプロジェクトの一環で、興味深い取り組みをされている研究者や実践者を定期的にお招きしてお話を聞いているのだが、本日の科学技術カフェでお呼びしたのはATRネットワーク情報学研究所の岡田美智男氏である。
岡田氏は万博やシーグラフなどでも好評を博したロボット「Muu」を開発した研究者である。
岡田氏はもともとロボットの開発を主体にしていたわけではなく、コミュニケーションの研究をしていて、そこからコミュニケーションを図るロボットへシフトしていった研究者である。

a0091712_1194410.jpgシフトするきっかけとなったのが20年ほど前に起こったある体験だという。
自動販売機でジュースを買ったときに、販売機から音声で「ありがとうございます」の言葉が聞こえてきた。しかしそこにはお礼の気持ちをこれっぽっちも感じることが出来なかったという。

なぜ自販機からの「ありがとう」にお礼の気持ちを感じることが出来なかったのだろうか。この機械は「ありがとう」という言葉を発して、我々に一見コミュニケーションを図っているように見える。しかしそれは特にコミュニケーションを図る相手を想定し言葉を発している訳ではなく、一方的・機械的に応答反応しているだけであることを我々は知っている。自販機の「ありがとう」に対して「どういたしまして」と答えたところで、自販機は特に何も反応を示さないことを知っているため我々はいちいちその言葉に反応しない。つまりこの「ありがとう」は機械からの一方的な投げかけで完結しているのである。完結しているが故に、我々側にはコミュニケーションを図る余地は当然無い。
そんな体験をした岡田氏の中で、コミュニケーションが図れる存在としてのロボットには何が必要なのだろうかという問いが生まれた。それが今のMuuを開発するに至った動機だという。

a0091712_12097.jpgMuuは大きな目と触角のような突起物を持っているが、手足が無いロボットで、ひとりでは何一つできない。ただ哀願するように「キューキュー」と泣くことしか出来ない存在として設計されている。
岡田氏はこれを開発する際に『他力本願型のロボット』を目指していると話している。


自分動けないのであれば誰かに動かしてもらえばいい。モノを取れないのであれば、誰かに取ってもらえばいい。表情が乏しいなら誰かに積極的に解釈してもらえばいい。これらは全て不完全なゆえに他者との関係性を引き起こす戦略である。
例えばMuuを子供と一緒に積み木遊びさせてみる。Muuは手足が無いので積み木を積むことが出来ない。だからMuuは「キューキュー」という音で積み木を積むように子供に哀願する。子供は色んな色がある積み木の中から緑のモノを取って積み上げてみる。そうするとMuuは激しく「キューキュー」と言って、その色の積み木を積んでほしいわけでは無いことを子供に訴えかえる。今度は黄色の積み木を手に取って積んでみると、Muuはさっきよりも優しく「キューキュー」と音を発して、喜んでいることを訴える…。
こちらの動作に対して音の使い分けでしか反応を表現できない役立たずロボットであるが、しかし自分がしてあげた事でロボットが喜ぶ様子を見るのが楽しくて、ついつい手を出してしまう。
ある意味ヒトの乳児もこの戦略を取っていると捉えれば、弱い立場であることの積極的な意味がそこに見出せる。
何かの機能や目的をかなえるための装置やカタチをそぎ落とした引き算のデザインで作られているのがMuuだとすれば、何かの役に立つような「目的」や「役割」を作りこんでしまうロボットは足し算、自力本願的なデザインと言える。それは完結性が高いが故に、コミュニケーションを拒絶している可能性が高い。
こうしたロボットは役に立つのだが人間との関わりの中で「目的」や「役割」がずれてしまうと、それは「役にたたないゴミ」になってしまい排除される。それはそれでロボットの一つのあり方であるが、コミュニケーションそのものが目指されている場合には、「何も役にたたないけれど、いないとなんだか寂しい」そうした存在感や関係性を手がかりに出来ないかというように岡田氏は語っていた。

a0091712_1203263.jpg分野は違うがこの話をずっと聞きながら同じモノづくりという側面において、その考え方が我々のマゾヒスティック・ランドスケープのアプローチと非常に似ているということに僕は非常に驚いた。
我々が「獲得される場所」に求めていたのはヒトと場所との豊かなコミュニケーションのある風景である。非常に完成度は高いが一方的に完結してしまう場所ではなく、人々がつい手を出してしまいたくなるような場所。
何も機能していないけれども、無ければなんだか寂しいという存在感を持った場所。こうした場所を作っていく手がかりを役立たずロボットは教えてくれているような気がする。
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by innerscape | 2006-01-17 01:16 | マゾヒスティックランドスケープ

ディスカバラブルシティ

a0091712_1273157.jpg今日は地理情報システム学会のシンポジウムにパネラーとして参加してきた。
以前ここでも紹介したが僕が考案した「老人クエスト」というゲームと、その他、地理情報を使った街の使い方の可能性について紹介してきたのだが、なかなか反応が良かったようである。
なぜこんな事になったかというと、あるプロジェクトに参加しているからである。
実は大阪市立大学が船場に新しい拠点を作ろうとしている。その名前も「船場藝術カフェ」。藝術を中心に街の中に新しい文化を創造していこうとする試みである。我々CSCDもこのプロジェクトに関係していて哲学者の本間氏が中心的に関わっているのだが、僕も本間氏のお誘いでいつのまにか参加することになり、ディレクターの定例会に参加している。
11月頃の定例会の時に、こんな事をしてみてはどうだろうかということで「老人クエスト」も含めてアートやメディアやランドスケープなどジャンルを問わず8つほどプロジェクトの提案をしてみた。それが面白かったようでディレクターの一人の森洋久氏から学会シンポジウムのパネラーとして参加して欲しいという要請があった。
そういう経緯で今日の発表に至ったのだった。

a0091712_1275122.jpg地理情報システム学会では通常は僕のような空間デザインやアートに関わる人間に発表してもらうことは珍しいという。森氏は今回このシンポのディレクターをしていてちょっと変わった会にしたかったようで、僕以外にも変わったメンバーにお声をかけていたようである。船場藝術カフェのディレクターでもありアジア音楽に精通している大阪市立大学の中川氏や大阪の浮浪者の研究をしている同じく大阪市立大学の都市地理学の水内氏など個性的なメンバー構成で、セッション3「表現する都市---GISの新しい可能性」の発表を行った。僕の中ではランドスケープエクスプローラーの頃からイワレ捏造技術開発機構などで考えてきた「情報と環境」の考察を深める良い機会になるかと思い、簡単に引き受けてしまったが、結構苦労してプレゼンテーションを用意しなければならなくなった。
地理情報というテーマから風景や街の見方にどうアプローチが出来るのかと考えてみる。
地図を見ていると思うのだが、ずっと連続してつながっている地図の状態が地上での断片的な空間体験や都市空間の質のようなものを伝えていないことが多いと感じる。もちろん都市の中で僕達はずっと連続的に生活しているのだが、地下鉄御堂筋線に乗っている時に地上のイチョウ並木をイメージできていないし、地下からそこまでたどり着くのも記憶の中では断片的な空間体験しか描けないというのが普通で、それは現代の都市がそれほど複雑で多重化しコントロールが利かないようになってきている実感がある。

a0091712_1304055.jpg実はそうした都市の全体像が把握しきれないような状況を1960年の終わりごろから1970年の頭にかけて、建築家の磯崎新は地図を眺めているだけでも街を歩いているだけでも都市が見えなくなってしまった状況を指して「見えない都市」と指摘している。
今回はその「見えない都市」のその後を考えるという事にチャレンジするつもりでタイトルを「見えない都市から見出される都市へ」という事で少し発表してみることにした。
磯崎新は同じ時期に都市デザインの4つの発展的段階というのを唱えている。
都市デザインへの取り組み方が歴史的にどのような思考を経て発展してきたかを実体論的段階、機能論的段階、構造論的段階、象徴論的段階の4つの段階として整理していて、今でも非常に示唆に富む概念である。
詳しい話は後に発行されるであろう冊子にゆずるが、その考え方で行くと今の都市デザインの取り組みは象徴論的段階であるという。
この考え方は正確な地図で描かれる地図に対して人間が感覚的に捉えている認識が必ずしも一致しないという実感から、極めて主観的で個人的な都市の把握を集合させることで都市デザインを考えられないかというアプローチがその根幹にある。
僕達も生活していてそう感じるのだが、自分が知らない場所や認識していない場所は自分の中ではその都市の地図にカウントされない。逆に言うと選択されたものだけが自分の頭の中での都市を構成していると言うことも出来る。僕達が動き回りながら拾い集めた都市空間のイメージがシンボル化され、そのシンボルや記号が逆に都市空間を組織し構成しているとするならば物理的な状況だけを記した地図や地理情報は、都市を捉える上では不十分で、地図にどんなコンテクストが与えられるかによって都市の見え方は変化すると考えられる。

a0091712_1284749.jpg反対に手法論的に考えると、今捉えられているシンボルや風景のイメージを選択し地図や地理情報に配置することで都市にある種のコンテクストを与えて都市を再編集出来る可能性があるのではないか。そこに地理情報システムと風景の接点があるのではないかと思い、「見出される都市」ということで情報を与えて環境の見方を変化するベクトルと「見出されるパラレルワールド」という事でナマの都市環境を逆に情報化することで違った風景の見え方がないかというベクトルの二つで話をしてみる。
「見出される都市」の方では都市を垂直方向に切って地図に示した“ヴァーティカルシティマップ”、時間帯と居場所の関係を地理情報に示した“時間差パブリックスペースマップ”、都市空間の中でも特定の質やサブカルチャーにこだわって情報化した“ミリオンマップ”や猫にGPSをつけて街をスキマからあぶりだす“猫道マップ”などを提案してみた。「見出されるパラレルワールド」の方では宝探しの“老人クエスト”、鬼ごっこの“インヴィジブルヴァンパイア”、お絵かきの“ヴァーチャルナスカ”と主にGPSを浸かったゲームを3種類提案してみた。

学会ではかなりふざけた提案をしてしまったのではと心配していたが、シンポが終わってから会場の方々がずらりと並んでお話に来られたのは物珍しさも手伝っているだろうが、会場の反応がかなり良かったと思いたい。
情報と環境というテーマは大阪大学の方で進めているデータハンダイプロジェクトでも試しているが、今後も風景デザインを進める上で重要になってきそうだと改めて実感した。
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by innerscape | 2006-01-14 01:23 | 情報デザインと風景

コマーシャルの行く末

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哲学者の鷲田清一と一緒に毎週金曜日の3-4限にイメージリテラシーの授業をしている。
この授業は講義というよりも毎回小さなワークショップを行い、その中で様々なイメージの読み取りや対話などを通じてリテラシーを高めていくという狙いである。
僕自身は鷲田氏から10月に急に声をかけられてスタートしたものなので、毎回授業の組み立てがあやふやで学生には申し訳ない思いがあるが、その反面毎回40名ほどの学生と一緒に授業を造っていっている感覚があって楽しい。
今日はコマーシャル映像を巡って色々とディスカッションを行った。
広告批評で特集されたコマーシャル映像を使って、アワードに選ばれた世界各国のコマーシャル映像を見る。毎回センスが面白いNIKEのCMやゲームソフトのCM、ジーンズのCMから交通事故防止キャンペーンのCMまで幅広い作品を取り上げ、最近のCM映像の動向についてコメントをする。
その中で面白かったのは鷲田氏が読み取ったCMの変遷である。

a0091712_23472763.gif1960年代は商品の機能についてプレゼンテーションするのがコマーシャルの役割だった。その商品がどんな機能と性能を持っていて、それが我々の生活にどう役立てるかということを映像の中で必死に伝えようとしている。つまりfunctionがメッセージになっているという事である。
その後バブル前後になるとそれが変化してきて商品の機能をあまり説明しなくなったという。その代わりに何をメッセージとしてこめ始めたかというとそこで出てくるのがイメージである。その商品がどんなライフスタイルを標榜しているのか、それを生産している企業がどのような思想を持っているのかというimageを伝えるためのメディアとしてCMが利用されるようになったと読み解いている。
今日の世界各国のCM映像を見ていて鷲田氏はすでにimageすらも今のCMは通り越しているという。二人の人間がビルの壁を次々とぶち抜いて進んでいくCM映像などがあったが、そこにはもはや商品のfunctionも企業のimageもなくintensityしか無いという。
僕はこのintensityという言葉をimpactと変えても説明しても良いと思っている。

a0091712_2347578.jpgこれほど情報過多になってしまった中で何か目をひこうとすると、普通のことをしているとその他の情報の中に埋もれてしまう。だからまずは見ている人に衝撃を与える映像でなければ情報が伝わらないという戦略を取らざるを得ないのだろう。
それが加速していくと商品の内容や価値はおろか、イメージとも関係なく映像だけが一人歩きする。資本主義が進んでいくと他との差異化が戦略上非常に重要になることは分かるが、メディアは本来の媒介という本質から離れてしまい何も媒介せずにインパクトを与えるだけの存在になってしまっているような気がする。
アートやデザインはその事に加担して共謀するだけで良いのかという問いかけは未だ漂っているのではないだろうか。
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by innerscape | 2006-01-13 23:44 | 情報デザインと風景

自力本願型デザインと他力本願型デザイン

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昨年度から京都造形芸術大学の環境デザイン学科で演習の指導をしている。
毎週水曜と木曜に出向いて色々と学生と話をしながら設計を詰めていくのだが、なかなか皆個性的で毎回こちらも楽しませていただいている。
今年の演習課題はアトリエの設計である。
四方を壁で囲まれた10m×21mほどの敷地の中央に10m×7mの屋根がかかっていて、南北に10m×7mの屋外空間が二つあるという条件で自由に場所を設計していくという内容である。
昨年度の演習がギャラリーの設計とその周囲のメモリアルパークの設計だったのだが、演習時期を少しずらして建築設計課題を終えてからランドスケープの課題を進めるというように、教員も分かれて指導していたのだが、今年は最初から渾然一体となって指導するスタイルで進めてみることになったようだ。
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課題の設定については全く関与していないのだが、今回の条件で難しいと感じるのは最初から敷地の周囲に壁が設定されていることと、場所の設定が仮想的であるということだ。この設定自体に建築とランドスケープのデザインに対するアプローチの違いが見え隠れしているように思えた。
周囲の条件が無いということはランドスケープの設計にとって致命的である。ランドスケープの設計は敷地の読み取りがその設計作業の半分以上を占めているので、抽象的に設定された空間では読み取られるべきポテンシャルが限定されてしまうということである。
敷地の周囲に壁を立てるということは周囲から隔絶された環境を作るという意思であり、自分の頭の中からしかデザインのボキャブラリーが出てこない。そこの立地環境に依存したデザインが場所のリアリティを生んでいくと思うのだが、建築の教員が課題設定をするとどうもそうは捉えていないようである。壁を立てて、屋根を作って、木を植えれば空間を作っていけるという自力本願型の思想が伺える。

それに対してランドスケープの設計は自分の頭で設計しているように見えても、実は目に見えない色んなことで選択させられてしまっている感覚を覚える。どんな気温でどんな湿度で、どんな風が吹いていて、どんな人が暮らしていて、どんな生活様式で、どんな考え方をしていて、どんな風景が広がっているのか。そのことが場所のデザインにとっての生命線になる。
学生個人の考え方の差異ももちろん面白かったのだが、課題設定のあり方が出自や専門性を表しているのが見えて面白い。
庭のデザインと風景のデザインは違うものだと思う。庭のデザインは建築家の仕事に近いが風景のデザインは演出家の仕事に近いのかもしれない。周辺環境にどんな俳優が潜んでいるのかを見極めてそれにコンテクストを与えていく姿勢は、同時にその環境がどんなコンテクストを持っているかということにある種依存した、他力本願型のデザインなのかも知れない。
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by innerscape | 2006-01-11 23:51 | マゾヒスティックランドスケープ

空間の重さ

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来年度非常勤講師として大阪大学の建築学科で特別講義を行うということで建築学科から直々に新年会に招待された。
会場は大阪市中央区にある綿業会館という場所で行われたのが、これが建築学科らしいチョイスである。
綿業会館は昭和6年(1931年)に日本綿業倶楽部の建物として竣工したのだが、設計は渡辺節、ヘッドドラフトマンに村野藤吾という顔ぶれの建物だけあって、ディテールがとても極細やかだった。レッドカーペットの敷かれた会談、豪華なシャンデリア、大きな暖炉に細かい模様が刻まれた壁のタイルなど豪華絢爛そのもの。映画監督が見れば涙を流して喜びそうな演劇的空間である。
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当時はリットン卿らの率いる英・米・仏などからなる国際連盟満州事変調査団が来館したこともあり、各国の要人たちの国際会議の場としてよく利用されていたようである。
会議室へも行ってみたが、長いテーブルに白いクロスが広げられ、ずらりと椅子が並べられている。こんな場所で会議すると間違ったことを言うと銃殺されそうな勢いだ。
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バチカンの大聖堂などにも通じるが、ディテールや作りこみの密度がここまで高いと空間は軽薄さを消し、異様に重々しい静謐な空気が流れ始めるようだ。
美術館のホワイトキューブのように極限にシンプルにしていくことで出来る抽象的空間の静謐さがある一方で、作りこみの密度を高めていくことで出来る重々しいリアルな静謐さがあることをしばらく忘れていた気がする。
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最近流行のガラスやルーバーで構成される軽い空間性の建築も嫌いではない。
もちろん時代背景に伴って素材の選択などが反映されるのであるが、きっと建ててから100年先まで残っていく建築はある種の「重さ」がそこに必要かもしれないと改めて気づかされた夜だった。
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by innerscape | 2006-01-06 23:57 | 景観

空間のマゾヒズム

a0091712_035115.jpgPLUGというフリーペーパーをご存知だろうか。

これは大阪府現代美術センターとCSCDが共同で発行している地域情報誌で、大阪府下6万部発行されている。フリーペーパーなので主な地下鉄駅などで手に入れて欲しい。
以前はCP(カルチャーポケット)という名前で発行されていたのだが、リニューアル版からはCSCDが参入して発行していく。一番最後のページには現代美術センターの活動情報と並んで、CSCDの活動情報も載せているので、また手に入れてご覧になっていただけると嬉しい。
実はこのPLUG、まだ二回目の発行だが、二回目は「新・大阪的住まい方」という特集で進めた。大阪で個性的な住まい方をしている方々を取材してそれを特集にしている。
改造長屋で暮らす人々や、自宅をカフェにして人を招く暮らし方、自分の家と生活模様をまるごと美術館へ出張して展示物してしまう人など、どれも個性的な住み方をしている事例ばかりである。
今回そういう特集を組むということもあって、僕も一部コラムを担当することになった。
タイトルは「プライベートがもたらす風景」ということで、今回の特集で取材された3つの事例と、僕自身がランドスケープエクスプローラー始め各所で行ってきたフィールドワークの事例との類似点を考えた文章になっている。
詳しくはPLUGに書いたのでそちらにゆずるとして、ここでもう少し深く考えたいのは僕の中で第二のタイトル候補に上がっていたテーマ、つまり今回のタイトルの方である。
a0091712_055368.jpg自分の居場所というのは自分の体の延長にあるというのはPLUGでも書いた。人も犬と同じで自分のテリトリーを持って生活している。自分の衣服、自分の部屋、自分の家、自分の街、自分の国などなど。自分に帰属しているという場合に何が特徴かというと、自分の意のままに改変できるということである。あるいは意のままに改変出来るモノが置かれているということではないか。
自分の身体を考えてみる。髪をカットする、眉を調える、タトゥを入れる、ピアスを開ける。自分の意のままに出来る身体は自分に帰属しているといえる。
自分の部屋だってそうである。自分の部屋は自分が好きに出来るモノに囲まれているので、自分のテリトリーだといえるだろう。モノを捨てるのも増やすのも、整理するのも、模様替えするのも自由だ。
しかし、そのテリトリーへ敢えて誰かを踏み込ませることで得られる快楽の存在を我々は知っている。その一つをマゾヒズムという言葉に置き換えるとドラスティックすぎるだろうか。今執筆中の書物のタイトルも「マゾヒスティック・ランドスケープ」というのだが、マゾヒズム/サディズムという概念は関係性を語る上で非常に興味深い。

自分の身体を誰かに触れさせる。自分の部屋へ誰かを侵入させる。
自分の身体を誰かに触れられるように、自分のテリトリーへ誰かを入れるというのは奇妙な感覚だが、相手との距離がぐっと縮まる親密な感覚を覚える。自分の部屋をカフェにして知らない人を迎え入れる。自分の好きなものや自分のイメージを形作るものに囲まれた空間を見られることは、見ている人が自分を深く理解するようになると錯覚する。こうした空間のマゾヒズム的な楽しみ方は自分のテリトリーだと了解されている場所では可能である。
PLUGで事例紹介されている『出張マイハウス』などはまさにその楽しみ方の極みで、公衆の面前にわざわざ自分のテリトリーを作ってそこへ人を迎え入れることで親密なコミュニケーションを図っている。
ここに我々が街の中で見つけてきた事例との接点があるような気がしている。
街の中で自分で買った置物を道路に出す、あるいは自分の植木鉢を出す人は、ここは自分のテリトリーだという印をつけているようにも見える。
街は“誰かの場所”であり、そこへ自分が場所を得にいこうとするのだから、これは行為側からすると場所を攻めているサディスティックな行為だと捉えられがちである。
しかし往来の中へ自分のテリトリーを拡張子、自分の生活の一部をさらけ出して表現するという意味では露出めいたマゾヒズムを感じる。もちろんそれはコントロールされたものではあるが、自分の生活の一部を表現したいあるいは共有したいと言う願望が潜んでいるように思える。
もう少し拡張して考えると、コンビニや巨大資本によってチェーン展開するような店の場合は少し事情が変わってくると思うが、生活空間だけではなく商業空間も元来は自分のテリトリーへ人を入れることで成立する空間である。そしてそこには店主の個人的な嗜好や趣味が色濃く出ているはずである。
そういった意味では建築研究家の森川嘉一郎氏が秋葉原などの成立を趣味の構造から論じているのは非常に興味深い。

空間のマゾヒズム。個人的な愛。共有願望。
こういったキーワードは都市風景を考える上で無視できないようになってきているような気がする。もう少し研究してみる必要があるかもしれない。
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by innerscape | 2006-01-04 00:01 | 居場所の獲得

365分の80

一年が過ぎた。
実験的に一年間を電子脳に記憶させ、それを積分してみようというこの試みで、2005年にはじめたこのブログ。
とうとう一年が過ぎ、約束の日が来てしまった。
紐解いてみるとなかなか遅々として進まず、結局電子脳に記憶されたのは80日分の思い出だけということになった。
しかしそれを読み返すだけでも目まぐるしい一年だった。
その間ここに記されていない事でも僕の周辺で大事件がたくさん起こっている。

このプロジェクトを進めて気づいたことがある。

最初は自分の記憶が薄れていくので記憶させようということではじめていたのだが、途中から意識が変化してきたことである。
自分の周辺で起こる出来事をよく観察するようになったのだ。
今まで見過ごしていたような日常の小さな出来事から、今まで見えなかったような大きな出来事まで、自分個人の問題として引き寄せて考えるようになった。
これは大きな進歩だったのではないかと思う。
鷲田氏がよく言っているように、仮に自分の頭で考えることが哲学だとするならば、哲学をするようになったということなのだろうか。

もうひとつ。
この試みを通じて仲間が広がったということである。
こうして起こった出来事を誰かと共有することは、決して自己満足的な日記をつけていることではなくコミュニケーションの手段の一つであるという確信が生まれている。
どんなに親しい友人であっても、考えていることや起こった出来事を具に交換することなど不可能である。こうした日々の積み重ねを共有できる形で記していくことで、最初は一方通行であるかもしれないが、そこに個人の行動や考え方への理解や読み取りが生まれてくるんだなぁと感じる。

直接会って会話するよりも電話で、電話するよりもメールでというように段々とコミュニケーションの図り方が部分的に切り出されてきている今の世の中。
特に恥ずかしがりやの日本人はそうしたコミュニケーションを得意としているが、そんな時代にはこうしてプチ露出的に出来事を記し、覗き見するように情報を得るというのは案外マッチしているような気もしている。
こうした試みはたとえ遅々としていても表現活動の一環として今後もやっていけたらと切に願う。
さて、今年一年はどこでどんなことをしてやろうかな。
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by innerscape | 2006-01-01 00:09 | 未来の自分との対話

私“flw moon”が日々の生活の中で感じた事を見つめ直し記録します。
心のフィルターを通して見た日々のシーンをひとつづつ電脳に記憶させることで、果たしてどんな風景が見えてくるだろうか・・・?

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