flw moon innerscape
S | M | T | W | T | F | S |
1 | 2 | |||||
3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 |
10 | 11 | 12 | 13 | 14 | 15 | 16 |
17 | 18 | 19 | 20 | 21 | 22 | 23 |
24 | 25 | 26 | 27 | 28 | 29 | 30 |
31 |
今日は実は僕の父の命日になる。
もう亡くなってから干支が2周した。
昨年は7つ年下の弟も亡くなったので、今頃はあっちで会っているかもしれない。
僕はいつも遺骨を二つ胸にぶら下げているので、今日の「霧はれて光きたる春」も二人は見ているだろう。
さて昨日の風景があまりに幻想的だったので、余韻に浸りたい所だがまた今日は今日の風が吹いている。
実際に今日は風が若干強い日だった。
この作品はやはり少し雲がかかっていて湿度があった方が豊かな風景になることが3回目にしてようやく分かって来た。
何も晴れ渡った空だけが風景を美しくするわけではないのだ。
夕方になって風が少し強くなり始めたので、今日はそれほどたくさんのシャボン玉は降り注がなかった。
しかしそれはそれで意味のあることだと思う。
一回しか起こらない出来事に意味があるのだ。
そしてそれは記録されようとそうでなかろうとその場に居た人が何か感じるものになるのだ。
毎回サポーターの皆さんにお越し頂いて目撃した風景を語ってもらうが、30分の間に繰り広げられる様々なドラマの内容が本当に興味深い。
サポーターの方々は本番中に様々な風景を目にするが、ほとんどの人は患者さんと会話して帰って来る。
その内容はかなり個人的なことにまで及ぶことが多い。
見ず知らずの人同士がそこまで深く個人的な話をするのかというような内容も時々耳にする。
風景異化には、異化された人々同士でコミュニケーションを行うという特徴があるのだ。
今日サポーターから聞いた中で僕が一番印象的だったのは8階のドラマだ。
母親の付き添いで点滴をした男の子が談話室へやってきてシャボン玉が落ちて来る窓辺の側で笑い声を上げながらニコニコと楽しげに立っていたそうだ。
途中でその母親が「あんた見えてんの?」と聞いたが、男の子は「見えていない」と答えた。
この様子を見ていたサポーターの方は、その言葉で男の子の目が見えていないことに気づいたという。
男の子が本当に見えていなかったのかどうかはサポーターには判断出来なかったようだが、それでもライトコートから聴こえて来る音楽であるとか、その場の他の人の空気などをその男の子は敏感に感じ取っていたのかもしれないと語っていた。
人の病が癒えるということについて、医学的な観点だけでは説明出来ないことというのはあるという。
結局は自分の身体は自分が癒していくのであり、医療はその自らを癒す力に手を貸すということなのだと思う。
そしてそれは薬物的なことや手術といったことに留まらず、その場の環境や風景、そして人の祈りや想いがそれに力を与えるということがあるのかもしれない。
昨日も開頭手術をしたばかりの人が一人で立ち上がって窓辺に寄りかかるという話を聞いたが、心が回復する事で身体にも力が湧いて来るということを少し信じてみたくなってきている。
他には、今日演出をつけていた7階の談話室から僕が実際に見た風景だが、一つ上の階の反対側の窓辺に看護士が4人べったりと張り付いていた風景だ。
4人とも窓辺の出っ張りに上って全身をガラス窓に押し付けて見ている姿に吹き出しそうになった。
終了2分前だったのだが、あまりに面白かったのでストップウォッチを見忘れて気がつくと終了時間を少し過ぎていた。
今日のサポーターの中には、イメージしていたものと違ったので残念だったという方も居られた。
それはそれで一つの感じ方なのだと思うし、風景の見方に正解など何も無いのだと思う。
しかし勿体ないと思うのは、あるフレームで風景を見ようとした時にそのフレームが余りに強いとその外側で起こっていることが見えなくなるということだ。
僕はそれを「まなざしの固定化」と呼んでいる。
まさにそのフレームを少しずらすことを「まなざしのデザイン」と呼んでいるのだが、今度は僕がずらしたフレームでそのまま固定化されてしまう人が居る。
映像や講演などを何度も見ている人の方がそういう堅いフレームを持った人がにひょっとすると多いのかもしれないが、そのあたりはもう少し研究の余地があると思う。
残りあと3日になってしまったが、サポーターとして来て頂ける方には既に案内を出しているかと思うので、良ければ風景になりに来てもらえれば嬉しい。
いずれにしても今日学んだのは、それぞれのサポーターが見て来る風景が豊かどうかというのは、その人のまなざしが柔らかいかどうかと関係しているということだ。
最終的には自分のまなざしは自分でデザイン出来るようになることが必要だ。
それはまるで自分の身体は自分が癒すということと重なっているように僕には思える。
もう亡くなってから干支が2周した。
昨年は7つ年下の弟も亡くなったので、今頃はあっちで会っているかもしれない。
僕はいつも遺骨を二つ胸にぶら下げているので、今日の「霧はれて光きたる春」も二人は見ているだろう。
さて昨日の風景があまりに幻想的だったので、余韻に浸りたい所だがまた今日は今日の風が吹いている。
実際に今日は風が若干強い日だった。
この作品はやはり少し雲がかかっていて湿度があった方が豊かな風景になることが3回目にしてようやく分かって来た。
何も晴れ渡った空だけが風景を美しくするわけではないのだ。
夕方になって風が少し強くなり始めたので、今日はそれほどたくさんのシャボン玉は降り注がなかった。
しかしそれはそれで意味のあることだと思う。
一回しか起こらない出来事に意味があるのだ。
そしてそれは記録されようとそうでなかろうとその場に居た人が何か感じるものになるのだ。
毎回サポーターの皆さんにお越し頂いて目撃した風景を語ってもらうが、30分の間に繰り広げられる様々なドラマの内容が本当に興味深い。
サポーターの方々は本番中に様々な風景を目にするが、ほとんどの人は患者さんと会話して帰って来る。
その内容はかなり個人的なことにまで及ぶことが多い。
見ず知らずの人同士がそこまで深く個人的な話をするのかというような内容も時々耳にする。
風景異化には、異化された人々同士でコミュニケーションを行うという特徴があるのだ。
今日サポーターから聞いた中で僕が一番印象的だったのは8階のドラマだ。
母親の付き添いで点滴をした男の子が談話室へやってきてシャボン玉が落ちて来る窓辺の側で笑い声を上げながらニコニコと楽しげに立っていたそうだ。
途中でその母親が「あんた見えてんの?」と聞いたが、男の子は「見えていない」と答えた。
この様子を見ていたサポーターの方は、その言葉で男の子の目が見えていないことに気づいたという。
男の子が本当に見えていなかったのかどうかはサポーターには判断出来なかったようだが、それでもライトコートから聴こえて来る音楽であるとか、その場の他の人の空気などをその男の子は敏感に感じ取っていたのかもしれないと語っていた。
人の病が癒えるということについて、医学的な観点だけでは説明出来ないことというのはあるという。
結局は自分の身体は自分が癒していくのであり、医療はその自らを癒す力に手を貸すということなのだと思う。
そしてそれは薬物的なことや手術といったことに留まらず、その場の環境や風景、そして人の祈りや想いがそれに力を与えるということがあるのかもしれない。
昨日も開頭手術をしたばかりの人が一人で立ち上がって窓辺に寄りかかるという話を聞いたが、心が回復する事で身体にも力が湧いて来るということを少し信じてみたくなってきている。
他には、今日演出をつけていた7階の談話室から僕が実際に見た風景だが、一つ上の階の反対側の窓辺に看護士が4人べったりと張り付いていた風景だ。
4人とも窓辺の出っ張りに上って全身をガラス窓に押し付けて見ている姿に吹き出しそうになった。
終了2分前だったのだが、あまりに面白かったのでストップウォッチを見忘れて気がつくと終了時間を少し過ぎていた。
今日のサポーターの中には、イメージしていたものと違ったので残念だったという方も居られた。
それはそれで一つの感じ方なのだと思うし、風景の見方に正解など何も無いのだと思う。
しかし勿体ないと思うのは、あるフレームで風景を見ようとした時にそのフレームが余りに強いとその外側で起こっていることが見えなくなるということだ。
僕はそれを「まなざしの固定化」と呼んでいる。
まさにそのフレームを少しずらすことを「まなざしのデザイン」と呼んでいるのだが、今度は僕がずらしたフレームでそのまま固定化されてしまう人が居る。
映像や講演などを何度も見ている人の方がそういう堅いフレームを持った人がにひょっとすると多いのかもしれないが、そのあたりはもう少し研究の余地があると思う。
残りあと3日になってしまったが、サポーターとして来て頂ける方には既に案内を出しているかと思うので、良ければ風景になりに来てもらえれば嬉しい。
いずれにしても今日学んだのは、それぞれのサポーターが見て来る風景が豊かどうかというのは、その人のまなざしが柔らかいかどうかと関係しているということだ。
最終的には自分のまなざしは自分でデザイン出来るようになることが必要だ。
それはまるで自分の身体は自分が癒すということと重なっているように僕には思える。
#
by innerscape
| 2014-03-27 23:59
| アート
昨夜から降り始めた雨が午後までずっと続いていた。
先週の予報では曇りだったのが、二日ほど前に雨マークに代わりそしてそれが昨日には確実に雨が降るという予報に変わった。
「霧はれて光きたる春」は天井の無い屋外のライトコート(光庭)で行うので、天候に大きく左右される。
屋上で吹く風が強くなればシャボン玉は全部上へ流されてしまうし、風向きを読みながらその日の状況に応じて演出を変えて行く。
しかし雨が降ると実施自体が怪しくなってしまう。
それは特殊効果の機材が雨に弱く故障する危険性が出て来るからだ。
だから土砂降りの大雨では絶対に実施する事は出来ない。
今日の雨は微妙な具合だった。
朝目覚めた時には雨が強く降っていたので、ひょっとすると今日は中止になるのではないかと予感していた。
しかしもし中止になったとしても、現場には出向いてそしてサポーターの方にも現場に来てもらって対話の時間が持てればと考えていた。
この作品は中止されることもその表現の一つなのだ。
昨日の風景があまりにも美しかったから、今日も窓辺にやってきていたが雨が降っていた。
それを見てもし雨で今日はその風景が見られないかもしれないとなった時の人々はどんな想いをするだろうかと想像してみる。
談話室で腰かけるご年配の方々の間では雨があがるかどうかの話題が飛び交うかもしれないし、残念そうに病室で一人でほおづえを突きながら空を見上げる人が居るかもしれない。
看護師さんもどこかそわそわと天気を気にしていたり、中には雨が上がるために祈りを捧げる人が居るかもしれない。
そうやって皆で雨が上がる事を待つという風景もこれは美しいものなのではないかと思う。
そして結局は見れなかったとして、その翌日に雨が上がった後でやってくる風景は一際待ち遠しいものになるだろう。
そうした様々な人々の想いやたたずまいも含めて全て作品の演出なのだと思っている。
本日のサポーターにも、雨で中止という事になっても現場で様々なものを感じて欲しいと説明をして集まってもらっていた。
開始時刻の30分前に実施を行うかどうかの判断が迫られるが、そこで奇跡は起こるのだ。
開始のぴったり1時間前には雨がほぼ降り止み、ぱらぱらと小雨の状態となっていた。
これならば実施出来ると判断し、慌てて機材をセッティングした。
いざ実施が始まったが、僕は雨の中のこの作品がこんなに美しいとは想像もしていなかった。
昨日の晴れた中での霧ではなく、湿度の高い中での霧は穏やかに拡散して、照明の光に奇麗に反応して行く。
湿度が高いと霧がなかなか消えずに高い所まで上って行くので、とても幻想的な風景が拡がるのだ。
そして雨が止む頃には空気の流れが弱いので、雪もシャボン玉も昨日以上にライトコートの中に入って行って、気がつくと空間一杯に満ちていた。
空気中の細かな水分によって音はいつも以上に遠くまで鳴り響き、途中で軽く降って来た雨が静けさを醸し出していた。
僕はこの作品を過去に何度も実施して来ているが、こんなにもしっとりとして艶やかな姿をこれまで見た事が無かった。
今日は患者さん達の反応も驚くぐらい良かった。
5階から12階の各階でサポーター達が出会った風景を後で毎回振り返って共有するのだが、それぞれの階での報告の中で、患者さん達が自分たちの居る階が一番いい風景が拡がっているとどの階も自慢し出すという報告が印象的だった。
毎日見に来ている人はその時間になると談話室の電気を消して暗い中で眺めているところもあるし、孫に見せたいとその場で携帯電話を手に取る方も居たという。
開頭手術を終えたばかりの患者さんが自分の足で立ち上がって窓辺に寄りかかる姿。
ゲームをしていた子供がふと眼を上げると降って来るシャボン玉に圧倒されてそのまま窓際に上ってしまう姿。
窓辺に30分釘付けになっていた二人のお爺さんは顔を見合わせながら、昨日の風景と今日の風景を比較していた。
どうやら実施の途中で小雨が降って来ていたようだったが、雨までが演出の一部のようだった。
ひょっとすると人が祈る力というのは天候を動かすのかもしれない。
今日はそんなことを信じたくなるような一日だった。
この作品は毎日変化して行く。
それは現象が変化して行くだけではなく、患者さんや医療従事者のまなざしも変化して行くのだ。
そして入れ替わりやってくるサポーターの方々のまなざしも不思議なことに変化して行く。
もちろん僕ら実施者のまなざしも。
先週の予報では曇りだったのが、二日ほど前に雨マークに代わりそしてそれが昨日には確実に雨が降るという予報に変わった。
「霧はれて光きたる春」は天井の無い屋外のライトコート(光庭)で行うので、天候に大きく左右される。
屋上で吹く風が強くなればシャボン玉は全部上へ流されてしまうし、風向きを読みながらその日の状況に応じて演出を変えて行く。
しかし雨が降ると実施自体が怪しくなってしまう。
それは特殊効果の機材が雨に弱く故障する危険性が出て来るからだ。
だから土砂降りの大雨では絶対に実施する事は出来ない。
今日の雨は微妙な具合だった。
朝目覚めた時には雨が強く降っていたので、ひょっとすると今日は中止になるのではないかと予感していた。
しかしもし中止になったとしても、現場には出向いてそしてサポーターの方にも現場に来てもらって対話の時間が持てればと考えていた。
この作品は中止されることもその表現の一つなのだ。
昨日の風景があまりにも美しかったから、今日も窓辺にやってきていたが雨が降っていた。
それを見てもし雨で今日はその風景が見られないかもしれないとなった時の人々はどんな想いをするだろうかと想像してみる。
談話室で腰かけるご年配の方々の間では雨があがるかどうかの話題が飛び交うかもしれないし、残念そうに病室で一人でほおづえを突きながら空を見上げる人が居るかもしれない。
看護師さんもどこかそわそわと天気を気にしていたり、中には雨が上がるために祈りを捧げる人が居るかもしれない。
そうやって皆で雨が上がる事を待つという風景もこれは美しいものなのではないかと思う。
そして結局は見れなかったとして、その翌日に雨が上がった後でやってくる風景は一際待ち遠しいものになるだろう。
そうした様々な人々の想いやたたずまいも含めて全て作品の演出なのだと思っている。
本日のサポーターにも、雨で中止という事になっても現場で様々なものを感じて欲しいと説明をして集まってもらっていた。
開始時刻の30分前に実施を行うかどうかの判断が迫られるが、そこで奇跡は起こるのだ。
開始のぴったり1時間前には雨がほぼ降り止み、ぱらぱらと小雨の状態となっていた。
これならば実施出来ると判断し、慌てて機材をセッティングした。
いざ実施が始まったが、僕は雨の中のこの作品がこんなに美しいとは想像もしていなかった。
昨日の晴れた中での霧ではなく、湿度の高い中での霧は穏やかに拡散して、照明の光に奇麗に反応して行く。
湿度が高いと霧がなかなか消えずに高い所まで上って行くので、とても幻想的な風景が拡がるのだ。
そして雨が止む頃には空気の流れが弱いので、雪もシャボン玉も昨日以上にライトコートの中に入って行って、気がつくと空間一杯に満ちていた。
空気中の細かな水分によって音はいつも以上に遠くまで鳴り響き、途中で軽く降って来た雨が静けさを醸し出していた。
僕はこの作品を過去に何度も実施して来ているが、こんなにもしっとりとして艶やかな姿をこれまで見た事が無かった。
今日は患者さん達の反応も驚くぐらい良かった。
5階から12階の各階でサポーター達が出会った風景を後で毎回振り返って共有するのだが、それぞれの階での報告の中で、患者さん達が自分たちの居る階が一番いい風景が拡がっているとどの階も自慢し出すという報告が印象的だった。
毎日見に来ている人はその時間になると談話室の電気を消して暗い中で眺めているところもあるし、孫に見せたいとその場で携帯電話を手に取る方も居たという。
開頭手術を終えたばかりの患者さんが自分の足で立ち上がって窓辺に寄りかかる姿。
ゲームをしていた子供がふと眼を上げると降って来るシャボン玉に圧倒されてそのまま窓際に上ってしまう姿。
窓辺に30分釘付けになっていた二人のお爺さんは顔を見合わせながら、昨日の風景と今日の風景を比較していた。
どうやら実施の途中で小雨が降って来ていたようだったが、雨までが演出の一部のようだった。
ひょっとすると人が祈る力というのは天候を動かすのかもしれない。
今日はそんなことを信じたくなるような一日だった。
この作品は毎日変化して行く。
それは現象が変化して行くだけではなく、患者さんや医療従事者のまなざしも変化して行くのだ。
そして入れ替わりやってくるサポーターの方々のまなざしも不思議なことに変化して行く。
もちろん僕ら実施者のまなざしも。
#
by innerscape
| 2014-03-26 23:59
| アート
昨日とは打って変わって奇跡的な風景が生まれた。
過去にも開催期間中には必ずどこかで奇跡的な風景に出会うのだが、こんなに早く出会えるとは思っていなかった。
昨日来られたサポーターの方々やマスメディアの方々には残念ながら、昨日とは比べ物にならないぐらい本日は素晴らしい風景だった。
見た方々はきっと一生忘れられない風景になったのではないかと思う。
昨日も書いたが、この作品は一期一会だ。
僕も結果をコントロール出来る訳ではないし、誰もそれをコントロール出来ない。
神様だけがそれを決める事が出来る。
だからそれが現れた時には全員が固唾をのんで空を見上げるのだ。
今日はそんな瞬間を多くの人々と共有した。
今回はクラウドファンディングやそれ以外で想いを具体的な支援に変えてくれた方々を中心に実施に際してのサポーターを募っている。
このサポーターとは特に何か難しいことをするわけではない。
この風景を一緒に作ってくれる人として、そしてこの風景の目撃者としてその場に居て頂く事が主な役割だ。
そしてそこで見て聞いた事を僕らに語ってもらうということを今回は行っている。
たった30分の出来事だが、その間に院内では本当に様々な出来事が起こっていて、様々なまなざしに満ちている。
そのまなざしを共有することが即ち「サポート」なのだ。
昨夜のサポーターの方々と本日のサポーターの方々ではきっとまるで違う風景を目撃している事だろう。
それは単に風向きによる現象の違いだけに留まらない。
昨日は初日だったのでテクニカルの事や制作周りで見えていないことなどがたくさんあったため、サポーターのまなざしのセッティングにまで気が回らなかったという反省がある。
だから今日は、最初にじっくりとサポーターとディスカッションする時間を持った。
作品の説明をしたりアンケートを配布するなどというのは二次的なことで、そこで何を感じて何を目撃したのかということを後で僕らに語ってもらい、まなざしを共有することが目的なのだということを確認する。
昨日はそれが出来なかったので、妙に何かをギブせねばならないと感じたり、問題点ばかりを見つけてくるようなまなざしになっていたのだろう。
それでは病院の方々と風景を共にする30分がとても残念な時間になる。
だから頭を空っぽにして風景に身を浸して感じてもらえるようなセッティングを最初にする会をもうけたのだ。
結果、彼らが見た風景は素晴らしかった。
実施前は全員がこれまで見聞きした風景のイメージを抱いて各階へ散って行くが、30分が過ぎて再び集まって振り返る時に出て来るストーリーの豊かさは、僕らの想像を絶するようなものだ。
その詳細はその場に居た人々と我々のアーカイブの中にしかない。
今日はマスメディアの方々は一社も来なかったので、きっとここで語っていることの真意は理解出来ないかもしれない。
一期一会のこの作品はどこで出会えるか分からないので、一部だけを切り取り編集するしかないマスメディアでの発信ではズレが生じる可能性がある。
そこに映されていることはほんの一部に過ぎず、その裏側では映されなかった多くのまなざしを掬い上げるのには時間と根気が必要だからだ。
だから我々は毎日様々な方法で出来るだけ多くのまなざしを拾い上げるのだ。
毎日この作品は変化して行く。
それは天候や気象によって現象が変化するだけではなくどこから見るのかによっても変わる。
この作品は各階によって見える現象が異なるだけではなく、病棟の違いによってそこに居る人々のたたずまいが異なる。
ここで僕が起こしている現象というのは単なるきっかけであり、その現象によってその場に居る人々がどのように振る舞い、どのようにまなざしが導かれるのかということがこの作品の本質だ。
天候や気象によって変化する移ろいやすい現象を初日に人々が体験することで、二日目、三日目の人々の反応はまるで異なって来るのだ。
明日は雨が降って中止になるかもしれない。
しかし今日の圧倒的なシャボン玉と雪の風景を見た人々はその雨へのまなざしも変化するだろう。
そしてもし雨が降って中止になったとしたら、その次の日に再び見る現象へのまなざしの意味はまるで変わる。
そうした微妙な人々のまなざしの変化を感じ取るためには、じっくりとその場に身を浸す必要があるのだ。
そのためには自分が何かをしてあげているなどという不遜な態度を取り去って、院内の人々とともに「風景になる」ということが大事なのだ。
今日のサポーターの方々は、見事にこの作品の風景となり、色々と感じて来てくれたことを語ってくれた。
それはとてもここには書ききれないぐらいたくさんの想いが詰まっている。
クラウドファンディングにご協力頂いた方々にはサポーターの案内を既にお送りしているが、やってくるのはほんの一部だ。
だからそれをこの期間中はずっと僕らはまなざしを向けて記録することにしている。
全て終わった後に僕らがこの出来事を語り直す時に、僕らが何を目撃してどのようなまなざしになっているのか、今はまるで検討がつかない。
しかしいずれにせよそれは何か大きな意味が潜んでいる事は間違いない予感として既に感じている。
明日は僕らは何を目撃するだろうか。
過去にも開催期間中には必ずどこかで奇跡的な風景に出会うのだが、こんなに早く出会えるとは思っていなかった。
昨日来られたサポーターの方々やマスメディアの方々には残念ながら、昨日とは比べ物にならないぐらい本日は素晴らしい風景だった。
見た方々はきっと一生忘れられない風景になったのではないかと思う。
昨日も書いたが、この作品は一期一会だ。
僕も結果をコントロール出来る訳ではないし、誰もそれをコントロール出来ない。
神様だけがそれを決める事が出来る。
だからそれが現れた時には全員が固唾をのんで空を見上げるのだ。
今日はそんな瞬間を多くの人々と共有した。
今回はクラウドファンディングやそれ以外で想いを具体的な支援に変えてくれた方々を中心に実施に際してのサポーターを募っている。
このサポーターとは特に何か難しいことをするわけではない。
この風景を一緒に作ってくれる人として、そしてこの風景の目撃者としてその場に居て頂く事が主な役割だ。
そしてそこで見て聞いた事を僕らに語ってもらうということを今回は行っている。
たった30分の出来事だが、その間に院内では本当に様々な出来事が起こっていて、様々なまなざしに満ちている。
そのまなざしを共有することが即ち「サポート」なのだ。
昨夜のサポーターの方々と本日のサポーターの方々ではきっとまるで違う風景を目撃している事だろう。
それは単に風向きによる現象の違いだけに留まらない。
昨日は初日だったのでテクニカルの事や制作周りで見えていないことなどがたくさんあったため、サポーターのまなざしのセッティングにまで気が回らなかったという反省がある。
だから今日は、最初にじっくりとサポーターとディスカッションする時間を持った。
作品の説明をしたりアンケートを配布するなどというのは二次的なことで、そこで何を感じて何を目撃したのかということを後で僕らに語ってもらい、まなざしを共有することが目的なのだということを確認する。
昨日はそれが出来なかったので、妙に何かをギブせねばならないと感じたり、問題点ばかりを見つけてくるようなまなざしになっていたのだろう。
それでは病院の方々と風景を共にする30分がとても残念な時間になる。
だから頭を空っぽにして風景に身を浸して感じてもらえるようなセッティングを最初にする会をもうけたのだ。
結果、彼らが見た風景は素晴らしかった。
実施前は全員がこれまで見聞きした風景のイメージを抱いて各階へ散って行くが、30分が過ぎて再び集まって振り返る時に出て来るストーリーの豊かさは、僕らの想像を絶するようなものだ。
その詳細はその場に居た人々と我々のアーカイブの中にしかない。
今日はマスメディアの方々は一社も来なかったので、きっとここで語っていることの真意は理解出来ないかもしれない。
一期一会のこの作品はどこで出会えるか分からないので、一部だけを切り取り編集するしかないマスメディアでの発信ではズレが生じる可能性がある。
そこに映されていることはほんの一部に過ぎず、その裏側では映されなかった多くのまなざしを掬い上げるのには時間と根気が必要だからだ。
だから我々は毎日様々な方法で出来るだけ多くのまなざしを拾い上げるのだ。
毎日この作品は変化して行く。
それは天候や気象によって現象が変化するだけではなくどこから見るのかによっても変わる。
この作品は各階によって見える現象が異なるだけではなく、病棟の違いによってそこに居る人々のたたずまいが異なる。
ここで僕が起こしている現象というのは単なるきっかけであり、その現象によってその場に居る人々がどのように振る舞い、どのようにまなざしが導かれるのかということがこの作品の本質だ。
天候や気象によって変化する移ろいやすい現象を初日に人々が体験することで、二日目、三日目の人々の反応はまるで異なって来るのだ。
明日は雨が降って中止になるかもしれない。
しかし今日の圧倒的なシャボン玉と雪の風景を見た人々はその雨へのまなざしも変化するだろう。
そしてもし雨が降って中止になったとしたら、その次の日に再び見る現象へのまなざしの意味はまるで変わる。
そうした微妙な人々のまなざしの変化を感じ取るためには、じっくりとその場に身を浸す必要があるのだ。
そのためには自分が何かをしてあげているなどという不遜な態度を取り去って、院内の人々とともに「風景になる」ということが大事なのだ。
今日のサポーターの方々は、見事にこの作品の風景となり、色々と感じて来てくれたことを語ってくれた。
それはとてもここには書ききれないぐらいたくさんの想いが詰まっている。
クラウドファンディングにご協力頂いた方々にはサポーターの案内を既にお送りしているが、やってくるのはほんの一部だ。
だからそれをこの期間中はずっと僕らはまなざしを向けて記録することにしている。
全て終わった後に僕らがこの出来事を語り直す時に、僕らが何を目撃してどのようなまなざしになっているのか、今はまるで検討がつかない。
しかしいずれにせよそれは何か大きな意味が潜んでいる事は間違いない予感として既に感じている。
明日は僕らは何を目撃するだろうか。
#
by innerscape
| 2014-03-26 08:00
本日より始まる。
2012年に赤十字病院で実施した時と同じ事を感じている。
本日のサポーターの方々のまなざしに多くの気づきを頂いた。
サポーターの方々は基本的には僕の講演を聞いたりこの作品を知っていてやってくる方々なので、既に何かの成功のイメージを持たれている事が多い。
しかし何かの正解をそこに求めることは、実はこの作品の本質から離れてしまうのだと思う。
この作品には何か正解や答えがあるわけではないし、感動を僕が提供するわけではない。
僕ら主催者やサポーターの方々は何か感動を与えねばならないと感じたり、何かを提供せねばならないという立場で臨むのは実は少し違うのだ。
僕らは、患者さんや医療従事者といった病院に居る方々と何ら変わりなく、ただ同じ高さのまなざしで奇跡が起こるのを待っているだけなのだ。
奇跡が起これば人はその瞬間に既に感動しているものだ。
ランドスケープアートは僕が作り上げるものではない。僕はきっかけを与えるだけに過ぎず、後は自然がそれを演じるのだ。僕の意図は半分しか介入出来ず、神様が奇跡を起こした時にその美しさは永遠に心に焼き付けられるものとなる。作家の意図などその前では無意味で、観客と一緒に奇跡を祈るだけだ。
だから毎日違う風景がそこに立ち現れる。昨日見た風景と明日見る風景は違うのだ。それはエンターテインメントと呼ぶような意図を持ったものではなく誰もコントロールし得ないからこそ奇跡的な風景であり、だからこそ一期一会のその出会いが貴重なのだ。
今日は現象としての奇跡は起きなかった。明日はどうだろうか。
ただ目の前に常に人が繰り広げる奇跡は満ちあふれている。
これは演出の意図がどうとか言う話ではない。雨が降るか風が吹くか光がさすかは我々人の手ではコントロール出来ないからだ。そのことを分かった上で何かを信じたり、期待を込めて眺めたりすることは、誰かに何か美しいものを与えられることよりも遥かに重要なことであるように僕には思える。
おそらく金さえかければ楽しませることは出来ると思う。しかし確実に成功することが分かっているような作品が必ずしも深い感動につながるとは限らないと思っている。
与える者と与えられる者がわかれることなく、誰も結果が分からず、誰もが成功を願う状況があるからこそ、それが成就出来た時に何か奇跡的な力や祈りの力を感じることが出来るのだ。
それは治療を施す者と治療を受ける者という区別を取り払う出来事だ。
そしてこうした取り組みを実施する者とそれを享受する者との区別を取り払う出来事なのだ。
だから明日は成功しないかもしれない。そして明後日や明々後日も成功しないかもしれない。そのまま成功を見ずに終えてしまうかもしれない。だがそれがどんなに無駄に終えることに見えようとも。奇跡を望むまなざしを捨ててはならない。その姿勢はまるで闘病や生きていることと同じではないのか。
奇跡を目にする人間はそれほど多くはない。しかし奇跡は目にした人の言葉を通じて目にしていない人の心に届けられる。この世のどこかに奇跡があると信じる心こそが人が生きる上で必要なことであり、それは誰かに仕組まれ、演出された風景とは似て非なるものだと感じる。
テレビメディアが数局来ているが、おそらくこの本質に気づいている局は無いのではないかと思っている。なぜならおそらく”病院の中にアートが必要だ”という局所的なメッセージとして報道されるだろうからだ。
本当に奇跡を待つのであればもっとじっくりとそこに身を浸す必要がある。その覚悟が予算的にも時間的にも限られているマスメディアにも問われるかもしれない。
だからそこで語られなかったことやプロセスを僕らは自分たちでちゃんと記録することにしている。
今回はその覚悟のある人たちと一緒に出来る事を心から感謝している。
僕はこの期間中に奇跡が起こる事を僕は信じている。
あなたはどうだろうか。
2012年に赤十字病院で実施した時と同じ事を感じている。
本日のサポーターの方々のまなざしに多くの気づきを頂いた。
サポーターの方々は基本的には僕の講演を聞いたりこの作品を知っていてやってくる方々なので、既に何かの成功のイメージを持たれている事が多い。
しかし何かの正解をそこに求めることは、実はこの作品の本質から離れてしまうのだと思う。
この作品には何か正解や答えがあるわけではないし、感動を僕が提供するわけではない。
僕ら主催者やサポーターの方々は何か感動を与えねばならないと感じたり、何かを提供せねばならないという立場で臨むのは実は少し違うのだ。
僕らは、患者さんや医療従事者といった病院に居る方々と何ら変わりなく、ただ同じ高さのまなざしで奇跡が起こるのを待っているだけなのだ。
奇跡が起これば人はその瞬間に既に感動しているものだ。
ランドスケープアートは僕が作り上げるものではない。僕はきっかけを与えるだけに過ぎず、後は自然がそれを演じるのだ。僕の意図は半分しか介入出来ず、神様が奇跡を起こした時にその美しさは永遠に心に焼き付けられるものとなる。作家の意図などその前では無意味で、観客と一緒に奇跡を祈るだけだ。
だから毎日違う風景がそこに立ち現れる。昨日見た風景と明日見る風景は違うのだ。それはエンターテインメントと呼ぶような意図を持ったものではなく誰もコントロールし得ないからこそ奇跡的な風景であり、だからこそ一期一会のその出会いが貴重なのだ。
今日は現象としての奇跡は起きなかった。明日はどうだろうか。
ただ目の前に常に人が繰り広げる奇跡は満ちあふれている。
これは演出の意図がどうとか言う話ではない。雨が降るか風が吹くか光がさすかは我々人の手ではコントロール出来ないからだ。そのことを分かった上で何かを信じたり、期待を込めて眺めたりすることは、誰かに何か美しいものを与えられることよりも遥かに重要なことであるように僕には思える。
おそらく金さえかければ楽しませることは出来ると思う。しかし確実に成功することが分かっているような作品が必ずしも深い感動につながるとは限らないと思っている。
与える者と与えられる者がわかれることなく、誰も結果が分からず、誰もが成功を願う状況があるからこそ、それが成就出来た時に何か奇跡的な力や祈りの力を感じることが出来るのだ。
それは治療を施す者と治療を受ける者という区別を取り払う出来事だ。
そしてこうした取り組みを実施する者とそれを享受する者との区別を取り払う出来事なのだ。
だから明日は成功しないかもしれない。そして明後日や明々後日も成功しないかもしれない。そのまま成功を見ずに終えてしまうかもしれない。だがそれがどんなに無駄に終えることに見えようとも。奇跡を望むまなざしを捨ててはならない。その姿勢はまるで闘病や生きていることと同じではないのか。
奇跡を目にする人間はそれほど多くはない。しかし奇跡は目にした人の言葉を通じて目にしていない人の心に届けられる。この世のどこかに奇跡があると信じる心こそが人が生きる上で必要なことであり、それは誰かに仕組まれ、演出された風景とは似て非なるものだと感じる。
テレビメディアが数局来ているが、おそらくこの本質に気づいている局は無いのではないかと思っている。なぜならおそらく”病院の中にアートが必要だ”という局所的なメッセージとして報道されるだろうからだ。
本当に奇跡を待つのであればもっとじっくりとそこに身を浸す必要がある。その覚悟が予算的にも時間的にも限られているマスメディアにも問われるかもしれない。
だからそこで語られなかったことやプロセスを僕らは自分たちでちゃんと記録することにしている。
今回はその覚悟のある人たちと一緒に出来る事を心から感謝している。
僕はこの期間中に奇跡が起こる事を僕は信じている。
あなたはどうだろうか。
#
by innerscape
| 2014-03-24 23:59
| アート
急性期病院の入院病棟で「霧はれて光きたる春」を行うためには膨大な調整が必要だ。
何しろ24時間稼働中の大規模病院の真ん中で行う空間アートだからだ。
絵を書いて飾ったり、彫刻を設置したりするのとは規模が違って、全ての入院病棟を貫く吹き抜け空間で行う芸術表現なので、膨大な調整毎ととんでもない問題が発生する。
今回は前2回に比べて一番吹き抜けの規模が大きい。
それと比例して、困難な状況がたくさん起こってくるのだ。
毎回必ず本番を実施するまでの期間に現場テストを行うのだが、今回の一番の問題は屋上の柵の問題だった。
屋上の四周の片側にある柵が邪魔でシャボン玉を発生させる装置を設置する場所が取れずに居たのだ。
この柵は簡単に取れない上に、3mもあり、撤去するにも一部を切断するにも膨大な費用がかかる。
そしてこれをかわす形で足場を設定して吹き抜け内部に作業スペースを確保するのにも膨大な費用がかかるので八方ふさがりだった。
それだけではない。
病院の吹き抜けには大体、大きな吸気口が穴をあけている。
前回の赤十字の時には13階に吸気口があったため、下から上げる霧の影響はほぼ無くなるのでそれはクリアしていた。
しかし今回は4階に院内への吸気口があるため、霧の発生が問題になる可能性があるという指摘もあった。
中央の吸気口なので手術室に霧が入っていき真っ白になるとオペに支障が出るからだ。
成分的には何の問題もないが、視界が遮られるのは問題だ。
そうした問題を一つずつ丁寧にコミュニケーションをはかり、表現を微妙に変更しながらクリアしていく。
僕ら作り手だけでなく、病院の職員の方々も一緒になってその問題の解決に向けて調整をしていくのだ。
僕はこのプロセスに意味があると思っている。
最初は僕がイメージした風景なのだが、それが途中から全員が共有する未来の風景になるのだ。
僕が想像したことが僕だけの想像ではなく、職員やテクニカルスタッフ含めて全員が想像する未来の風景になるというこのプロセスの中に、共同である一つのランドスケープを作るという本質があるように思える。
これは何も現場で作っている人間だけではない。
今回はこの風景を作るための資金集めの段階から、多くの方々とともにしている。
毎日毎日、多くの方々がクラウドファンディングに支援して頂き、そしてクレジットカードを持っていない方は送金してくれる方もたくさん居た。
資金面で援助は出来ないけど、情報拡散にお手伝い頂いた方もたくさん居たし、応援メッセージもたくさん頂いた。
この数年の間、どんな小さな講演会や勉強会でも断らずに出向いて行って話をしていたが、そこで出会った心あるたくさんの方々から頂いたご協力の申し出は、みんなで一つの奇跡的な風景を作るプロセスなのだ。
風景というのは、ある日突然出来るわけではない。
僕の想い、そして皆さんの想いという原因があり、その結果として風景が表現されていくのだ。
この風景が出来る原因は僕も含めた多くの人々の想いだ。
形や表現は結果に過ぎない。
想いを形にするクラウドファンディングの仕組みはあと10日。
10日の間にある一定の想いがそこに集まらなければ、皆が思い描いている風景は現れないかもしれない。
この仕組みでは、3月20日の23時までに目標金額に達成しないと決済が不成立になりこれまでのご支援も全て返却されることになるからだ。
だから今回は目指している総予算の半分以下としてクラウドファンディングの目標金額を設定している。
あまりに金額が高いと達成出来ない可能性があるからだ。
もしこうした風景に可能性を少しでも感じて頂けるのであれば、是非とも想いを風景に出来るようにご協力いただければと思う。
そしてそうした方々が増えていけば、いつか医療現場においてこうした芸術が見られることが当たり前の世の中になるのだと思う。
僕らがそうした未来を選択するかどうかは、僕らの想いにかかっているのだ。
医療の現場で空間アート「霧はれて光きたる春」を開催したい!
クラウドファンディングサイトREADY FOR?
#
by innerscape
| 2014-03-09 23:25
| アート
私“flw moon”が日々の生活の中で感じた事を見つめ直し記録します。
心のフィルターを通して見た日々のシーンをひとつづつ電脳に記憶させることで、果たしてどんな風景が見えてくるだろうか・・・?
心のフィルターを通して見た日々のシーンをひとつづつ電脳に記憶させることで、果たしてどんな風景が見えてくるだろうか・・・?
カテゴリ
全体インフォメーション
日常
アート
コミュニケーションデザイン
ランドスケープデザイン
プロダクトデザイン
映画と演劇
観光ターム
情報デザインと風景
崩壊のロジック
景観
装置と風景
音楽
自然について
出来事の風景
キネスケープ
私的詩
マゾヒスティックランドスケープ
覚書
未来の自分との対話
旅
居場所の獲得
極東EX
身体技法
現象デザイン
聖地創造論
以前の記事
2018年 06月2017年 02月
2015年 12月
2014年 10月
2014年 09月
2014年 06月
2014年 03月
2014年 02月
2014年 01月
2013年 12月
2013年 09月
2013年 08月
2013年 07月
2013年 05月
2013年 04月
2013年 03月
2013年 02月
2013年 01月
2012年 12月
2012年 11月
2012年 10月
2012年 09月
2012年 08月
2012年 07月
2012年 06月
2012年 04月
2012年 03月
2012年 02月
2012年 01月
2011年 12月
2011年 11月
2011年 10月
2011年 08月
2011年 07月
2011年 06月
2011年 05月
2011年 04月
2011年 03月
2011年 02月
2011年 01月
2010年 12月
2010年 11月
2010年 10月
2010年 09月
2010年 08月
2010年 07月
2010年 06月
2010年 05月
2010年 04月
2010年 03月
2010年 02月
2010年 01月
2009年 12月
2009年 11月
2009年 10月
2009年 09月
2009年 08月
2009年 06月
2009年 05月
2009年 04月
2009年 03月
2009年 02月
2008年 10月
2008年 09月
2008年 08月
2008年 07月
2008年 06月
2008年 05月
2008年 04月
2008年 03月
2008年 02月
2008年 01月
2007年 12月
2007年 11月
2007年 10月
2007年 09月
2007年 05月
2007年 04月
2007年 03月
2007年 02月
2007年 01月
2006年 12月
2006年 11月
2006年 10月
2006年 09月
2006年 08月
2006年 04月
2006年 03月
2006年 02月
2006年 01月
2005年 12月
2005年 11月
2005年 10月
2005年 09月
2005年 08月
2005年 07月
2005年 06月
2005年 05月
2005年 04月
2005年 03月