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私的風景の電脳記録
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プロとアマチュアの線はどこにあるのか

プロとアマチュアの線はどこにあるのか_a0091712_157784.jpg本日は東大の情報学環から水越さんをはじめメディア系の方々やCRESTのメンバーの方々が来られて研究会を行った。水越さん達に会うのは実に1年半ぶりでCSCDの会議室を使って日本マスコミュニケーション学会の分科会として行われた。
プレゼンテーターは3名。
多摩美術大学美術学部情報デザイン学科の須永さん、東大先端科学技術研の堀さん、そしてCSCDからは西川さん。
須永さんからは、メディア技術が台頭する中でブログやyou-tube、フリッカー、グーグルなどを通じて非専門家による表現の社会が生まれつつあるのではないかという問題提起とそうした表現を組織化し社会化するしくみをデザインする技術やプラットフォームしを構築する必要性についての解説がある。
堀さんはもともと人工知能を研究していたが、今は『デコンストラクションエンジン』という訳の分からない物を作っているというお話。これは結局最後まで何かは明らかにされなかったのだが、表現されたものを解体し、それを再構成するという表現のリサイクルを狙っているようである。感覚的には、椹木野衣の言うシミュレーショニズムの作家たちがしている事に近いのだろうか・・・。
そして西川さんからはおなじみのディスコミュニケーションについてのお話。
昨年からずっと聴いている話だが、ここ一年でぐっと洗練されてきた気がする。
簡単に言うと、コミュニケーションの必要性に対しての問題提起である。
世の中コミュニケーションが図れないような状況や理解出来ない状況に陥る事が多いのに、コミュニケーションを図る事が正しい事だとするような感性に対して警鐘を鳴らしている。分からないことや理解出来ない事、ディスコミュニケーション自体がその場を創造的で豊かにしている可能性があるということである。
これはアートやランドスケープにあてはめるとよく分かることで、訳が分からない言葉や現象だからこそ、関わろうとする全ての人が「分からない」という事において同じ立場になり、それを巡って場が動いていく。遊園地という理解できる場所での遊びよりも、原っぱという捉えどころの無い場所での遊びの方がより創造的になる可能性があると僕も後ほどのコメントで青木淳の言葉を引用しながら語った。
人間は理解することで恐怖を克服しているが、理解出来ない事だらけの世の中で生きて行くには理解出来ない事(ディスコミュニケーション)を寛容する感性が必要だという意見については、なるほど納得のいく話であるが落とし穴がある。それは理解するということへの渇望を持つことが人間の科学も文化も進めてきた側面もあるので、それを捨て去るということでは決してないという事を忘れてはいけない。

さてそのプレゼンテーターに対して3名のコメンテーターから意見が寄せられる。映像のNPO「remo」の甲斐さん、CSCDの平田オリザさん、明治学院大学の長谷川さん。
甲斐さんからはコメントというよりも活動報告に近い意見が出た。
「remo」は映像メディアを巡って学ぶ/つくる/語らうの三つの実践をしているNPOである。
甲斐さんいわく、映像に対してマンネリ化した文法しか持たない日本のマスメディアの状況はかなりやばらしく、メディアや映像の作られ方を知ったり自分たちでも実践したりすることで無批判的に受け入れてしまっている映像についてのリテラシーを持つことが重要であるという。
これはそっくりそのまま環境という言葉に置き換えても同じであると僕自身は思うし、データハンダイをはじめ各種のワークショップでしていることはその事への僕なりのチャレンジである。
平田さんの方からはおなじみの話だが、分かりやすかったのはアーティストの役割について日本と欧州とでの明らかな認識の差がある話。
もともとアーティストや牧師のような人は欧州ではすごく尊敬されているがそれには理由がある。本当は市民全員が常に神の事や生きる事死ぬ事について考えているべきなんだが、忙しい市民にはそんな時間はない。だから牧師やアーティストに24時間そのことを考えてもらうことで、市民たちはその責務から逃れているというコンセンサスがそもそもある。税金による補助が投入されるのも理解されるという事である。しかし、日本ではアーティストの成功例だけを持ってきてそうしたコンセンサスの部分は見過ごされているのでおかしな状況を生んでいるという。
長谷川さんの方からはデューイの芸術論などの引用しながら、ある人々の間で共有される尺度や日常のなかでのあるやり方が高まっていく事でアートが生まれるというコメントがあった。

その後の議論では市民芸術を巡って意見が戦わされたが、水越さんから振られて僕もいくつかコメントをした。

議論の中で市民芸術については以下の意見が出た。
「プロフェッショナルはより力を持ち、それを見せなければいけない」というのが概ね平田氏の意見。
それに対して、「どこからがプロの技でどこからがアマチュアの技なのかという事の線引きがだんだん難しくなってきている。」というのが市民芸術側の意見。
平田さんとしては、プロがプロ意識に欠けて力を見せなかったから、アマチュアとの線引きが難しくなってきていて、もっとプロは研鑽してその力を誇示するべきであるという警告が根底にあるのではないかと推測する。
概ね僕もその意見には賛成で、見て圧倒的に違いの分かるプロの力というのは眼前としてあり、そこで重要になってくるのは表現のオリジナリティである。
しかしもう一方で集積する事で価値を持つような表現があるというのも事実で、一つ一つのオリジナリティを問わないのだが、多様性を持つ事に価値があるものもある。
どちらかといえば、こちら側に市民芸術としての可能性を感じている。
僕たちが『マゾヒスティック・ランドスケープ』で収集した事例も、赤瀬川原平氏のトマソンも、メイドイントーキョーもブログもyou-tubeもこちら側で、一つ一つの質よりも集積の中から見えてくる「傾向」や「方向性」にオリジナリティがある。
そうした意味では市民芸術の可能性としては作家自体のオリジナリティをそれほど問わないが、何らかの表現を集積して発信するような仕組みを作る事で開かれるのだろう。
須永さんは表現かどうかを決定するのは表現者が相手を意識しているかどうかだという定義をしていたが、必ずしもそうでは無い場合もあるのではないかと思う。
例えばアウトサイダーアートでの表現者や園芸を道端で出す人、スーパーと自動車教習所をセットで立ててしまう施主や建築家は必ずしも見る人を想定した表現という訳ではないのだろうが確実に表現としての面白さがそこにはある。そこで重要になってくるのは、そのような市民や誰かの行為を『表現』として見いだす人の存在である。
これはまさしくアーティストとアートプロデューサーの関係性と同じではないか。

アーティストのしている表現も一歩間違えばゴミのようなどうしようもないものである。それを見いだすアートプロデューサーが居る事で社会への参加を許されている部分があるのではないか。同じ事が市民が表現する市民芸術にもあてはまる。
それはプラットフォームを作ったり、システムを作ったり、それをプロデュースしたりと見いだす側が色々とテーブルを作ることで初めて価値を持つのである。
by innerscape | 2006-12-16 01:33 | コミュニケーションデザイン

私“flw moon”が日々の生活の中で感じた事を見つめ直し記録します。
心のフィルターを通して見た日々のシーンをひとつづつ電脳に記憶させることで、果たしてどんな風景が見えてくるだろうか・・・?

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