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ジェットコースターな建築
土曜日のアーキフォーラムは遠藤秀平さんをお招きして、色々とお話を伺った。
今日はプロジェクターとパソコンのコネクトがうまくいかずに30分ほど予定より押してしまったが、無事にフォーラムの方をスタートすることができた。
少し押した時間についても特に問題の無い口調で話し始めた遠藤氏はとても誠実な方だった。
CSCDのある万博記念境界ビルの1階にIMIというメディアデザインやアートの専門学校があるのだが、遠藤氏はこの春よりそこの講師として着任されたのでこれからも度々会う機会があるかもしれない。
遠藤氏は建築の内部と外部の境界をいかに曖昧にするかというテーマで建築を造っている。
素材としてはコルゲート版を用いて、非常に造形的な作品を作っておられるので、カタチに意味があるのかと思われがちであるが、話の中で度々そのような話題になるたびに決してそうではことを強調されていた。
建築というのは元来、内と外を区切ってある状況とある状況に秩序立てをしようという行為であると遠藤氏は言う。この定義については「街並みの美学」を書いた芦原義信氏も『建築とは、通常、屋根や外壁によって切り取られた内部の空間を含む実体のことである。』と述べていることを初め、多くの人がそのような定義をしている。
遠藤氏はその定義にそぐわないような設計をしたいと言う。
インターネットや携帯電話の普及などにより、特定の建物の中に居なくても連絡が取れるようになる、つまり人の居方に内部と外部の区別がなくなりはじめているような状況にリンクする空間を作り出すことを考えていると。
そのテーマと後は様々な与条件さえ満たせれば、あとの形態についてはさほど意味はない、むしろ外部と内部の境界を融かしていく体験できる形態になればいいと言う。
形態を表現することで何かの象徴性を持たせようとしているかどうかの真意はともかく、説明を聞いていると、設計の意図はうなずけるものがある。
そうした意味から捉えると、彼の建築の作り方はジェットコースターに似ている。
ジェットコースターもその形態に意味があるわけではなく、どこで下って、どこで上り、どこで回転するのかという体験が形態に置き換えられているといえる。後は与条件としてある位置エネルギーと運動エネルギーの収支だけを合わせる設計をするとあのような不思議で美しいカタチが出来上がる。
僕はジェットコースターは体験しているから、形態を見ただけで体験が想像できるが、遠藤さんの建築は体験していないので、なかなか想像力がうまく働かないという側面はあるが、やはりカタチの美しさが目立って見える。
人が使いこなしてくれるような空間は、ひょっとするとどうとでも読み取れるような曖昧な空間ではなくて、かなりキャラクターの強い、強度を持ったカタチの方が達成しやすいのではないかという意見も出た。
そうすると遠藤さんの建築はかなりカタチに強度があって使いこなしたくなる建築であるということになる。
しかしこのあたりは難しくて、やはりカタチだけの判断ではいかず、テクスチュアや素材感、スケールなど様々な要因が合わさって使ってやろうという意図が働くような気がするし、何より使う必然性のある場所の距離感なのかどうかという問題が大きい。
少なくとも遠藤さんの作る建築を僕は使いこなしてやろうという気にはなれす、ただ美しいなぁと目を見張るばかりになるのだろう。
一度彼の設計した播磨のトイレに行って見なければいけない。
by innerscape
| 2005-05-28 21:32
| マゾヒスティックランドスケープ
私“flw moon”が日々の生活の中で感じた事を見つめ直し記録します。
心のフィルターを通して見た日々のシーンをひとつづつ電脳に記憶させることで、果たしてどんな風景が見えてくるだろうか・・・?
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