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廃墟礼賛
かねてより行きたかった場所で、なかなか機会が無かったのだが、つい先日遂に友が島へ行ってきた。
友が島は瀬戸内海の紀淡海峡に浮かぶ4つの島を総称している。
明治初年より陸軍が国土防衛のために砲台を建設した場所で1889年に第一砲台を設置したのが始まりで、第二次世界大戦が終わるまで重要な軍事要塞として利用されていた。
戦後アメリカ軍が砲台を破壊して今ではすっかり廃墟となってしまった無人島だが、珍しい動植物や地層などもあって、来島者も少しは居るようだ。
僕が参加しているコラボ研という研究会の一環で行ってきたのだが、30人近い人数で廃墟をウロウロする光景はなんとも異様なものである。
なぜなら人の姿が居ないことが廃墟の特質の一つだと思うからである。
その証拠に、30人近く居た人々のほとんどが廃墟を撮影するときに人影を入れることを拒否していた。
廃墟は無人であって欲しいという想いがそこには働いているように見える。
廃墟は死のイメージがつきっている。そして廃墟には植物がつきものである。
人が居なくなった後の抜殻だけが残っている姿に対して、侵食してくる植物の異様な生命力が対照的に生々しく映る。
まるで廃墟は植物の生命力を確認するための施設であるかのようだ。
その植物の意味するところは人間の管理の手が入っていないことであり、それはすなわち人間によるコントロールの不在を意味する。
かつては人の息吹があった場所が、今ではすっかり消えてしまいその痕跡だけが残っている場所。それが廃墟なのだ。
そうした姿に人はどこか儚さを感じるのだろうか。廃墟を礼賛する人はそう少なくはないはずである。
こうした廃墟礼賛は今に始まったことではなく、ヨーロッパの文化を中心に幾度と無く廃墟がモチーフにされて作品が作られてきた歴史がある。
16世紀初頭のイタリアにおいてはすでに人工的に作ったニセ廃墟が(シャム・ルーイン)があったらしく、廃墟に対する渇望がこんな時代にもすでにあった。
17世紀には絵画の主要モチーフとして廃墟のイメージが何度も登場する。18世紀に入るとピラネージを初めとする芸術家にとって廃墟はインスピレーションの源泉になり、また主に英国を中心に庭園の添景物として廃墟が作られ始める。
結果としての廃墟ではなく目的として廃墟をつくることに貴族達が興じていた事実は面白いが、人口廃墟というのは果たしてリアリティを持ちえるのか疑問である。
遺跡とは使われている姿だが、廃墟とは使われていない状態を指すのではないか。打ち捨てられているから廃墟なのである。
廃墟は積極的な意味や機能を持ってはいけない。意味や機能が抜け落ちた後の状態が廃墟だからである。
面白いのは友が島の第三砲台などを見ていると、全く意匠的な意味合いを感じないところだ。
かつては機能と意味しかなかった空間だったのだろうが、それが今では全く反転してしまっている。
そのことも施設の死=廃墟を語っているような気がする。
しかし不思議なことに現代においてなぜか廃墟的に発見されるものに工場がある。
それも現在も稼動中の工場は意味と機能に満ちあふれているはずなのに、工場地帯には廃墟的な雰囲気を感じるのはなぜだろうか。
工場もやはり人が住んでいないということから生活感が欠如しているからだろうか。
それとも工場の持つ異様なスケール感は僕達の生活実感とかけ離れているからなのだろうか。
工場の内部や外部にある装置が僕達の理解を超えているからなのかもしれない。
いずれにしても何か理解できない感覚、どこかコントロールし切れていない感覚が廃墟にも工場にもつきまとうような気がする。
解体されてしまった香港の九龍城砦やアメリカのプルーイット・アイゴー団地などは、人が住んでいるにも関わらず生きながらにして廃墟的なイメージを帯びていったのは、やはりアウトオブコントロールな状態があったからであろう。
そのコントロールし切れていないイメージとしての廃墟観が作品の中で引用されることも多い。
大友克弘のアニメーション『AKIRA』における「ネオ東京」や映画『ブレードランナー』での廃墟観、漫画『北斗の拳』での廃墟観など挙げればまだまだ出てくるだろう。
廃墟礼賛については今後も色んな断面から考えていきたいテーマである。
廃墟は僕を考えさせる存在である。
by innerscape
| 2005-04-29 19:33
| 崩壊のロジック
私“flw moon”が日々の生活の中で感じた事を見つめ直し記録します。
心のフィルターを通して見た日々のシーンをひとつづつ電脳に記憶させることで、果たしてどんな風景が見えてくるだろうか・・・?
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