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システムかい?

システムをつくるヤツって、結局はシステムから外れたヤツかシステムに居ながらシステムを信じていないヤツなんじゃないかな。
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by innerscape | 2006-12-19 00:17 | 未来の自分との対話

イメージをめぐる冒険

a0091712_114185.jpg哲学者の鷲田清一氏のお誘いで、今年度の後期に臨床哲学の授業を担当していたのだが今日で終了を迎えた。最終日の今日は様々な作品発表を学生にしてもらったのだが、これが色んな表現が出てきた面白かった。何ともよくやったと思う。
現象学の鷲田氏、メディアデザイナーの久保田氏、ランドスケープデザイナーの僕の3人で進めてきた授業だったが、あまり段取りも出来ず毎回ハチャメチャな授業の中、ついて来てくれた学生には本当に感謝したい。そして毎回しっかりと映像アーカイブをしていただいた阪大メディアラボの久保田ミオさんにも感謝したい。
イメージリテラシーという題目ではじめられたこのシリーズだったが、思えば本当に色んな実験をしてきた。少し長くはなるが一度ふりかえって様々なイメージの冒険を整理をしてみることで何かが見えないかと思う。
4月からの2006年度も同じ授業を行うがその際の参考にしたい。

第一回目は鷲田氏からこの授業の狙いを話される。人は何かを見るとき必ず見えない面や全体性をイメージで補いながら眺めていて、人はイメージの世界に生きているという問いかけがなされる。はっきりと何かをイメージすることの難しさ、あるいは人の顔などは非常にイメージしにくいものであるという話もされる。後半部分はアートが開く可能性とは何かを問いかける。言葉によらず感覚に訴えかけるもの。そこにどんな可能性があるのか、そしてそれを言葉や対話へと定着させていくにはどういう事が必要なのか。アーティスト束芋の映像作品などを紹介しながら、映像がもたらすイメージを感じてもらう。
a0091712_122773.jpg第二回目は僕がランドスケープデザインとイメージについて講義を行う。神様が創った世界に人が何をイメージしながら環境を作ってきたのかを歴史的に見せていくことで、イメージが環境創造をリードすることの意味を考える。また現代を生きる我々の日常風景に潜むイメージの断片をどう拾い集めるのか。そしてその断片を意識的に変化させることで風景のイメージはどう変わるのか。そんなことを過去のランドスケープ作品や風景デザインの変遷などのスライドを見せながら風景の読み取りと表現について講義をする。
第三回目は前半部分は僕がマゾヒスティック・ランドスケープの講義を行い、イメージのコントロールによって開かれる風景の可能性などについて話をする。後半はメディアデザイナーの久保田氏の作品「小さなおうち」の映像とその他のアーティストが行った都市空間を主題にした映像作品を見た後にそのイメージについてディスカッションを行った。

a0091712_13673.jpgこの3回の試みの中で僕が読み取ったことがある。
誤解を恐れずに言うと、自分の脳の中で選ばれたもので世界が構成されているというのが現象学のベーシックな考え方だとすると、3者の共通項は断片化した世界をどう再構成するかということなのではないかと理解している。
哲学は世界の裂け目を言葉や概念で提示することで、今までとは違う方法で世界観を再構成しようと試みる。(アートは言葉によらないもので提示しようとするが。)
久保田氏が見せてくれた2002年以降増えてきているという都市を俯瞰する映像作品に共通するのは、都市という雑多で多様で理解不能なものに、あるイメージを重ね合わせることでコンテクストを与えようという手法に見える。多様なコンテクストを与えることで多様な再構成のあり方を提示しているようにも読み取れる。
我々がマゾヒスティック・ランドスケープで問おうとしているのも、結局はその部分である。今までのデザインでは細部を構成するディテールや空間構成の美しさなどが問われてきたが、ここでは風景を読み替えるつまり頭の中で場所のイメージを再構成することで次の使われ方や行動を誘発する方法を目指している。
建物のスキマを赤く塗る提案や、場所にイワレを与えて意味を変質させるような提案が目指しているのは頭の中での風景への固定観念を変質させ再構成することを目的としている。
そんな事もあって、人それぞれがある概念や言葉に対してどんなイメージやコンテクストを持っているのかを把握することも含めてイメージを収集する課題を出してみた。

a0091712_13437.jpg第四回目にはその課題を発表してもらう。自己紹介的な意味合いも含めて、学生それぞれに「私の愛しているもの」/「私が愛していないもの」/「大学の象徴」/「大学の中での私の居場所」という4つのテーマで写真を一枚づつ選んでもらってそれをプレゼンテーションしてもらう形式をとった。同じテーマでも人によって様々なイメージがあることをディスカッションして体験してもらう。
第五回目はもう少しイメージの切り取りや捏造をテーマにしてみる。学生をグループに分けてグループ内でテーマを決めてメンバーそれぞれ互いにインタビューし合い1分間のインタビュー映像を記録させてみた。そしてカメラを向けることの持つ意味や、向けられた中での人の反応やコミュニケーションについて考えてみた。
カメラとマイクを向けられた人は、答えなければならない状況が生じてしまう。これはある種の暴力にも近いということも語られた。普段のコミュニケーションは問いと答えが一対一になっているとは限らないし、語りたくないことは黙することが出来るが、インタビューではその権利が行使されにくい。また映像は世界を映し出しているように見えるが、実は切り取られ断片化したイメージで容易に事実を捏造してしまうことにつながる。実際に参加して見てよく分かるのだが、映画というのはそういうイメージを捏造する手法で作られている。
第六回目は寺山修司氏が1960年代に行ったインタビュー映像と、障害者の遠藤氏がケアに来る学生やフリーターと対話するのを記録した「えんとこ」という作品を見せてドキュメンタリー映像が持っている意味や、期せずしてもってしまう意味についてディスカッションする。
寺山修司のインタビュー映像では、矢継ぎ早に答えにくい質問をするインタビュワーに対してたじろいでいる回答者の映像。社会的な事には借りてきた意見のような言葉で簡単に回答できてしまうのに、それが個人的な事へ落とし込まれると急に言葉を失してしまう状況。カメラに写されるということはその後にそれが多くの人の目にさらされる状況に陥ること、つまりパブリックを想定してしまうことをイメージしてしまっていることが浮き彫りになる。
「えんとこ」では障害者の遠藤さんの介助をするボランティアへのインタビューだが、生きることに理由が無いということを問いかける。何かのために生きるという事を強いられている我々に、遠藤さんは生きるために生きることを見せてくれる。遠藤さんの言葉の中で僕の印象に残っている言葉がある。悩める大学生が言った「生きていることに理由なんてないですね」という問いかけに対して「理由が無いから楽しいんじゃないか」と陽気に答える障害者の遠藤さん。
人生には正解がなく選択しかない。そして真実はなく解釈しかないということを教えてくれる。
この二つの映像を踏まえた上で、学生有志をその場で10人ほど募って2チームの映像班を作らせ、ディスコミュニケーションを主題とするインタビュー映像作品を作ってきてもらうことにする。


a0091712_10556.jpg第七回目は「音」とイメージをテーマに講義とワークショップを行う。前半にジョン・ケージのドキュメント映像を見せながら、彼が実験的に試みたピアノの前で演奏せずに過ごすことで発見された環境音の話をする。その後に我々を取り巻く様々な音を探しに大学内へ出てサウンドスケープを記録させた。後半はビジュアルイメージを音だけで伝える実験と、机をたたくリズムだけで2者の対話が成立するかどうかの実験を行った。
エッフェル塔の絵を見せられた学生は、音でそれを表現してビジュアルイメージを見ていない他の学生へ伝達する。ビジュアルのイメージをいかにして音のイメージへ変換するか。それをどうすればビジュアルのイメージへ共有できる形へ持って行けるかを実験して見る。
次第に人のイメージを音へと変換する実験へとスライドしていく。僕と久保田氏を学生が音で表現し始めた。僕達には結構意外な音が出てきたので、これは結構面白かったが学生同士では共有されているということは、客観的にビジュアルとサウンドの間にイメージの相関性があるということだろう。
この手法は可能性がありそうなので、もう少し改良を加えて開発できるような気がする。
もう一つの机をたたきながらリズムで会話をする実験も面白かった。ジャズのコールアンドレスポンスのようにリズムが弾むのかと思いきや、全く逆の現象が起こる。きっとそれは互いにイメージしているコミュニケーションが違うのではないだろうか。これも最後時間切れで十分なディスカッションが出来なかったが、異性同士や見知らぬ者同士、親しい友人同士、あるいは顔が見えない状況下などでコミュニケーションの図り方などが変わるのかということにも興味がある。
これもシチュエーションを設定した実験や、リズムから逆に2者の関係性をイメージするなどの実験も開発してみたい。

第八回目は「ディスコミュニケーション」をテーマに学生有志2グループが作成したインタビュー映像をプレゼンテーションしてもらいそれをもとにディスカッションを行った。
再びカメラを向けられることの意味が問いかけられる。
1班は寺山修司のインタビュー映像を元に、学生がインタビューを開発して街角で見知らぬ人にインタビューを行う。間をたっぷり取ってみたり、同じ質問を二回してみたり、口調を変えてみたりする。回答者はたいがい、質問に対してたじろいだ態度を示していて興味深い。ディスコミュニケーションが生じたかどうかは分からないが、普段、我々がどういうコミュニケーションを図っていて、何を自然なコミュニケーションとしているかが浮き彫りになる。
2班は二人が同時にインタビューしてみたり、犬に話しかけてみたりする。二人が同時に離しかけると回答者は当惑する。確かに普段の会話でも同時に離しかけられる状況は実はそんなに多くないような気がする。
犬に話しかけた場合は、飼い主が必ず犬を代弁するという構図は、犬が一種のコミュニケーション誘発ツールになっているのが良く分かる。
CSCDでも哲学者の本間氏が犬を連れているのだが、万国共通でコミュニケーションのツールとなっている。

この6~8回目ではイメージの読み解きから少し外れてコミュニケーションという方向へスライドしていったように思える。この両者の間が無関係だとは思えないが、もう少し分かりやすい形で関連性を持たせた手法を開発する必要がありそうだ。

第九回目は久保田氏によってコマ撮り撮影の手法でアニメーション映像を作成した。
切り取られた時間を積分していくと、連続したイメージが出来ることを学ぶ。映像イメージは静止画のイメージと違って、時間の流れの中で捉えられるので、我々が普段から脳の中で断片的に捉えているイメージに近いのだが、その反面想像の広がりを限定してしまっているように思える。写真などの静止したイメージは、イメージでもあり物体でもあるので、別のイメージを持ってしまうが、それ故に想像を広げるような気がしている。


a0091712_104195.jpg第十回目はCMの持つイメージを巡って議論する。
アワードを撮った世界各国のCM映像を見せながら、コマーシャルがどんな戦略を持ってメッセージとイメージを作ってきたのかを見る。
当初モノの機能・ファンクションをメッセージとして伝える役割であったCMが、消費社会が加速化していく中、次第に商品イメージや企業イメージといったイメージへと変遷していく。そして、完全にメディアを通じてあらゆるイメージが浸透した昨今ではそこにインテンシティ(あるいはインパクト)のあるイメージが好まれるという現象が起きつつあることが指摘される。
この回の後半部分では、最終成果として作品を制作してもらうミーティングへ移行する。
今までの写真や演劇的手法や、映像、サウンドなど、全てを駆使して『間』というテーマでグループ作品を制作発表してもらう課題を与える。
『間』という概念は空地を扱う我々ランドスケープにとっても非常に重要な概念である。空間的な『間』の意味合い、図と地の関係、コミュニケーションされる中での時間的な間の意味など、出来るだけ広がりを持たせた抽象的な言葉を設定した。

第十一回で、『間』についての作品を発表してもらう。
6グループに分かれたが、多様な作品が出てくる。
1班 リレー形式でメンバーに間のイメージを渡していく。最初に柔道の間合いを撮影した写真を受けて次の人が、向き合ったぬいぐるみの間合いを撮影する。それを受けて3番目の人が水族館の魚と人間の間合いを撮影。そしてその3枚に言葉をつける人とそれらを映像として編集する人。それぞれの間ではコミュニケーションは図られていない。
2班 サザエさんのキャラクターの人形を作って、街の色んなシーンで物語を展開させる映像。代表的な家族イメージを使って、そのキャラクター間の関係性の変化などを作品化する。
3班 コマ撮りのアニメーション作品。おたまやレンコンやドーナツや行間など様々な間を埋めていく映像を作ることで逆に間を浮き彫りにする。床に手を置いてその周りを何がで満たした状態で手をどけるとそこに間が出来る。図と地の関係性に着目している。
4班 テレビの人気番組『クイズミリオネア』を使った作品。司会のみのもんた氏が醸し出す間を全てカットする事で番組がいかにつまらなくなるかを表現。逆に言うと答えを待っているあの『間』が番組の本質でもあることを指摘。
5班 我々の講義映像の編集、歌の演奏、風船を割るパフォーマンスなど様々な表現を全て1分という切り口でまとめる。表現されるものによって、客観的な尺度である時間が長くも短くも感じたりすることを表現。
6班 紙芝居に音響をつけるパフォーマンス作品。知り合ったばかりのメンバーのぎこちない間をそのまま表現できるように深く打ち合わせせずにパフォーマンスに臨む。


このシリーズの講義全体としては、我々と学生が共同で行う実験という感じがしている。
本来大学は単に知識を身につけるという目的以上に、こうした可能性を広げる実験をもっとして見てもいいと思う。
知識を与える講義と体験を与えるワークショップが鳥の双翼のごとく必要なのだろうという気がしている。
しかし今回は初年度ということで実験的な試みも面白いが、次は少し落としどころを見ながらシリーズを進めていかないといけないだろうと思う。
それに、毎回行われたことが一体どういうことで何が学び取れたのかを確認しながら進んでいけるようなシステムへと持っていく必要があるように思える。
平田オリザ氏が開発した演劇ワークショップも当初は様々な実験的な試みだったはずである。その中からメソッドとして練り上げて開発されていったように思える。そういう意味では今は我々の個人プレーに頼っているこの講義も、ゆくゆくは誰でも出来るメソッドととなることを見据えて進めていかないといけないと思う。そのためにはもう少しイメージをめぐって冒険してみても良いのだとは思うが。
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by innerscape | 2006-01-27 00:41 | 未来の自分との対話

365分の80

一年が過ぎた。
実験的に一年間を電子脳に記憶させ、それを積分してみようというこの試みで、2005年にはじめたこのブログ。
とうとう一年が過ぎ、約束の日が来てしまった。
紐解いてみるとなかなか遅々として進まず、結局電子脳に記憶されたのは80日分の思い出だけということになった。
しかしそれを読み返すだけでも目まぐるしい一年だった。
その間ここに記されていない事でも僕の周辺で大事件がたくさん起こっている。

このプロジェクトを進めて気づいたことがある。

最初は自分の記憶が薄れていくので記憶させようということではじめていたのだが、途中から意識が変化してきたことである。
自分の周辺で起こる出来事をよく観察するようになったのだ。
今まで見過ごしていたような日常の小さな出来事から、今まで見えなかったような大きな出来事まで、自分個人の問題として引き寄せて考えるようになった。
これは大きな進歩だったのではないかと思う。
鷲田氏がよく言っているように、仮に自分の頭で考えることが哲学だとするならば、哲学をするようになったということなのだろうか。

もうひとつ。
この試みを通じて仲間が広がったということである。
こうして起こった出来事を誰かと共有することは、決して自己満足的な日記をつけていることではなくコミュニケーションの手段の一つであるという確信が生まれている。
どんなに親しい友人であっても、考えていることや起こった出来事を具に交換することなど不可能である。こうした日々の積み重ねを共有できる形で記していくことで、最初は一方通行であるかもしれないが、そこに個人の行動や考え方への理解や読み取りが生まれてくるんだなぁと感じる。

直接会って会話するよりも電話で、電話するよりもメールでというように段々とコミュニケーションの図り方が部分的に切り出されてきている今の世の中。
特に恥ずかしがりやの日本人はそうしたコミュニケーションを得意としているが、そんな時代にはこうしてプチ露出的に出来事を記し、覗き見するように情報を得るというのは案外マッチしているような気もしている。
こうした試みはたとえ遅々としていても表現活動の一環として今後もやっていけたらと切に願う。
さて、今年一年はどこでどんなことをしてやろうかな。
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by innerscape | 2006-01-01 00:09 | 未来の自分との対話

我が愛しのマンハッタン

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前にこうしてマンハッタンに立ったのは大混乱のさなかだった。
9.11がもたらした傷跡『ground0』はまるで聖地のように、世界中から巡礼者が訪れ、あまりに人が多いこともあって、そこには建築家のディラー+スコフィディオによってground0を臨むためのプラットフォームが設けられたりしていた。
その周辺は地下鉄の駅が閉鎖され、ロウワーマンハッタンを彷徨い歩いたのを覚えている。
今日のマンハッタンもある種の大混乱である。
というのは、労働組合がストライキを起こして、地下鉄はおろかバスも全て運行をストップさせているのだ。
実に25年ぶりらしい。
なんとも運の悪いことか良いことか。
マンハッタンを彷徨い歩く理由が出来たことは喜ばしいが、この寒さの中ではなかなか足にエンジンがかからない。
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しかし街は以前と比べて明るさを取り戻しているように思える。今はクリスマスシーズンということもあって、きらびやかなデコレーションの数々を見たり、露天が出るイベントスペースへ様変わりしているユニオンスクエアなどはなかなか楽しい。
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東京やパリ、ロンドンなど常に動き続ける都市は世界中にあるが、アメリカの“大いなる軽さ”を表すこの街はクリスマスというガソリンを得て、最も軽やかに動いているような気がする。
呼び込みをするサンタクロース、露天でクリスマスプレゼントを選ぶ初老の黒人、せわしなく物を運ぶトラック、町中に貼られるクリスマスの広告…。

我が愛しのマンハッタンは雪が残る中、今日も刻々と動いている。
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by innerscape | 2005-12-20 00:13 | 未来の自分との対話

オクラホマの空気

a0091712_0381562.jpgオクラホマの空気は乾いていると言われるが、僕が来るときは湿った空気の日が多いようだ。今日のオクラホマもスーパーフラットに広がる大地に薄く霧がかっていて、雨も降ったりやんだりを繰り返している。
毎回来るたびに思うのだが、ここでは都市と車と人間が一体化している。
彼らはあんまり厚着をしない。
なぜなら、外の空間を歩くことが少ないからだ。
家から車までと、車の駐車場から店までの間。
触れる外気はその程度である。
だから車が衣服代わりで足代わりになっている。

a0091712_0384895.jpg街の中心部や周辺部がなく、異様なほど広範囲に人口密度が低い街が広がる中、移動手段は車以外はありえない。
たとえば、食事に出かけるとしよう。
一軒の店まで行くのに、ハイウェイを使って30分ほどかけて出向く。そしてそこが例えば閉まっているとすると、またハイウェイに乗って40分ぐらいかけて別の店へ出無かなければならない。
大阪で例えると、市内に住む人が少し食事に出かけようとすると堺市まで車を走らせ、そこが閉っているとなると今度は別の店へ行こうということで吹田の方まで車を飛ばす。
そんな距離感だ。


a0091712_0393531.jpgそんなオクラホマには高層ビルなんてありえないと思っていたが、そうではなかったようだ。やはり銀行や企業のオフィスや官公庁のあるあたりはいくつかのビルが建っている。
クリスマス前なのでビルにも光でクロスが描かれていた。
飛行機から見えたクロスは教会ではなく、これだったようである。
霧の中でぼぉっと浮かぶ光のクロスは平面的なオクラホマに象徴的に浮かび上がる。
クリスマスの空気をこれみよがしに感じたければマンハッタンのような大都市に行けばいい。

そうした商業主義的なデコレーションで出来上がったクリスマスの雰囲気も楽しいが、普段は乾いたこの地をクリスマスの霧が優しく包み込んで出来上がるこの空気感も好きになりそうだ。
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by innerscape | 2005-12-17 00:37 | 未来の自分との対話

神経症的国家へ

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旅の幕開けは最低の状態でスタートした。
本日アメリカへ向けて出発ということで、関空に着いたのは確かに出発するギリギリだったかも知れない。しかし、時間的余裕としては離陸時刻を遅らせることなく乗ることが十分可能な範囲だった。
対応としては最低だったんじゃないだろうかN●航空。

前の客が、大きな貨物を持っていてそれのチェックに手間取ってこちらのチェックインが出来ないとはどういう事だろう。前の客は頑丈に打ち付けられた2m四方ほどの大きな木箱の荷物であったので、荷物のチェックに手間がかかるし、こちらはスーツケースひとつなのですぐに搭乗手続きが出来るはずだという判断がなぜ出来ないのか。それを考慮せず、一律に規則を当てはめるやり方しか対応できない担当者の浅はかぶり。あげくのはて、こちらに責任を転嫁しようとする態度はサービス産業として最低の行為だと思う。
おかでこちらは四方八方手を尽くして、何とか今日中に渡米するルートを確保したが、あなた方の無能さをなぜカバーしなければいけないのか。
二度と使うまいノース●●●●航空と心に誓いながら、今オクラホマでこれを書いている。


実に3年ぶりのアメリカである。
小さいころより何度も来ているので慣れ親しんでいるのだが、前回から空港の様子がやはり物々しい。
前回は9・11の後すぐにマンハッタンに入った。
グランドゼロの様子をこの目で確認したかったからだ。
マンハッタンに居る親族や友人は無事なのか、メディアで伝えられるイメージと実際の現場にズレがあるのか、アメリカはどのようになろうとしているのか、世界にいったい何が起ころうとしているのか。
それを確かめようと前回は行って来た。
そのときも空港での警戒態勢は半端ではなかったが、今でもかなりチェックは厳重に行われていて、危うくダラスではトランジットに間に合わないところだった。

出発時のトラブルのようにリジッドで融通が利かない日本の状況に比べて、この国が持つ『大いなる軽さ』を僕はどこかで愛していたが、9・11の後からこの国はかなりナーバスになっているのがよく分かる。
確かにテロを未然に防ぐことの重要性はここでは言うまでもないが、アメリカも日本のように神経症的国家に変わっていくのはどこかさびしい気がしている。
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by innerscape | 2005-12-16 00:41 | 未来の自分との対話

象徴の賞味期限って?

a0091712_273835.jpg『〈建築)とは有り体に言ってしまえば、太陽の塔の形をした大屋根みたいなものである。建築の中の建築である西洋の大聖堂を思い浮かべれば、このことは容易に了解できる。宗教的権力が、空間を覆う架構の形態によって表現されている。ところが近代以降に宗教や君主に代わって建築表現に力を供給し続けてきた国家、制度、公共性、地域、大企業資本、社会階層、マス・イメージなどが衰退・細分化・流動化したことによって、かつてのような一枚岩の長期的な社会的価値を形成するものがなくなった。つまり、そのような観念を大きく永く表象するという建築の特質に合致する対象が失われたのである。
その結果、建築はシェルターとしての機能だけを残し、ある種の高級さを持った建物を〈建築〉として区別せしめていた諸所の表象機能を建築から分離して、よりフレキシブルで訴求力のある媒体に移した方が効率がよくなったのである。「お祭り広場」と「太陽の塔」はシェルターと表象機能のこの分離を、すなわち建築デザインの失効を見事に描き出していた。』(趣都の誕生 森川嘉一郎)


a0091712_28743.jpgなるほどなるほど。
とすると、建築は象徴と機能に分離してしまったということでもあるよね。

工場なんかを考えてみると、そこには象徴性を持たせようなんて考えは一切見られない。
そこには機能や必要性しかなくて、必要に応じて継ぎ足していったコラージュのような形態が工場建築だと言えるんじゃないだろうか。
しかし、ガスワークスパークやエムシャーパーク、ナムラの前の工場なんかに見られるように、象徴を排除して機能だけを追い求めて出来たはずの建物に対して象徴としての眼差しが向けられているのは一体どういうことなんだろうね。


一つにはポストモダンの時に象徴が作られすぎたということなんだろう。
アヒルの形をした建物やモスクのようなラブホテル、ハイテクを象徴するパチンコ屋、ゴリラを乗せたジーンズ屋などが巷に溢れすぎていた時代があった。今でもそれは続いているんだけどね(笑)。

a0091712_283343.jpgそういった作られた象徴性、誰かに演出され、誰かの手の平で踊らされているという感覚に対してどこか辟易しているんじゃないだろうか。
その演出家が国家だって状況はおんなじだよね。
モダニズムの時は、戦後復興だ、オリンピックだ、万博だと国家が演出した壮大な象徴に僕たちは踊らされていた。
その次にやってきたポストモダンやバブルでは民間巨大資本が演出する数々の象徴、ブランドスーツ、ボジョレヌーボー、AOR、ディスコに僕たちは文字通り踊らされていた。
今だっておんなじだよ。
商業やメディアがファッションとして演出するライフスタイルに踊らされている。
カフェやデザインやアート、ゲームや携帯やパソコン、ipod・・・。
確かにだんだん規模は小さくなってるし、象徴性も多様化した。スーラが描く『グランドジャッドの日曜日』のようにみんな近くに居るけれど、同じ方向を向いているわけではない。


でもやはり僕たちが手にするモノは誰かに演出され、その演出によって僕たちは一喜一憂させられている。
資本主義が続く限り、僕たちは毎年新しい水着を買わされ続けるんだよ(笑)。
そのことに対して、みんな少し飽き飽きしてるんじゃないだろうか。

だから演出されていない、つまり象徴性がないような工場に感動するんだろうね。

でも気をつけないといけないよ。
僕たちが感動している象徴性を失っている工場も、アートとして演出され象徴になっているということを忘れてはいけないよ。

やっぱり結局そうなのかなぁ。
宗教が持っている象徴は、まだまだ力を持っているんだろうけど今の時代での象徴っていうのはとっても移ろいやすいんだろうね。
それに簡単に陳腐化してしまう。

何かの象徴でも自分で発見しない限り、誰かによって発見されて演出されないと僕たちには届かないだろうからね。
そうして共有された小さな価値や象徴は、やがて大きな資本やシステムの中に取り込まれていってまた金儲けの手段として使われる。
そして消費されていくんだよ。

消費され尽くされないものって、一体何なのかなぁ・・・。
どう思う?

また意見聞かせてくれると嬉しいな。
ではでは。
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by innerscape | 2005-09-29 02:06 | 未来の自分との対話

私“flw moon”が日々の生活の中で感じた事を見つめ直し記録します。
心のフィルターを通して見た日々のシーンをひとつづつ電脳に記憶させることで、果たしてどんな風景が見えてくるだろうか・・・?

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