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誰かに与えられた社会問題のために何かをするというよりも、顔の見える誰かと自分とが共により良く生きるためには社会問題へ向き合わねばならないというモチベーションの方が僕にとっては嘘が無くリアルだ。その顔の見える誰かの幅が広がるほど問題も大きくはなっていくのだが抽象的な出発点ではない。
僕一人が社会に出来ることなどそれほど大きくはないだろうし、大きい方が良いということもないだろう。社会に何か足りていなと自分が感じることがあればそういう問いを立てれば良いし、誰かが既にその問いを立て取り組んでいるならば、それを応援すればいい。皆で補いあって生きればいいのだろう。
自分が何かを成し遂げたという感覚を得たいが故に、何かの大義を借りてくるのは出発点が逆なのだと思う。それはただ自分が何者であるのかという肯定感を得たいだけであり、ひとつ間違えればとんでもない罪につながる。問いがそこにないのに答えだけを出したがるのは愚かな行為ではないかと感じる。
だから問いを立てることがとても重要なのだと思う。問いを立てるということは評価が定められた物事を疑うということであり、評価が定まっていないものをちゃんと見つめるということだ。これは時としてビジネスと非常に相性が悪いことがある。ビジネスになるのは評価が一般に浸透せねばならないからだ。
本来的なビジネスは人が必要としているものを提供するから成立するのではあるが、どうもマッチポンプ的なビジネスや我田引水的なビジネスが多いように感じてしまうので、僕自身はビジネスマンとは相性が悪いと思っている。まともなビジネスはちゃんと価値あるものを正当に評価することだろう。
イノベーションという言葉が良いのかどうかは分からないが、僕が考える変革とは「誰もが望むことを、誰も考えなかった方法で、誰でもが享受出来るようなった状態」なのだと思う。しかし今は誰も望まないことを、誰も考えないようにさせて、誰でもが享受出来るわけではないことがビジネスになっている。
僕一人が社会に出来ることなどそれほど大きくはないだろうし、大きい方が良いということもないだろう。社会に何か足りていなと自分が感じることがあればそういう問いを立てれば良いし、誰かが既にその問いを立て取り組んでいるならば、それを応援すればいい。皆で補いあって生きればいいのだろう。
自分が何かを成し遂げたという感覚を得たいが故に、何かの大義を借りてくるのは出発点が逆なのだと思う。それはただ自分が何者であるのかという肯定感を得たいだけであり、ひとつ間違えればとんでもない罪につながる。問いがそこにないのに答えだけを出したがるのは愚かな行為ではないかと感じる。
だから問いを立てることがとても重要なのだと思う。問いを立てるということは評価が定められた物事を疑うということであり、評価が定まっていないものをちゃんと見つめるということだ。これは時としてビジネスと非常に相性が悪いことがある。ビジネスになるのは評価が一般に浸透せねばならないからだ。
本来的なビジネスは人が必要としているものを提供するから成立するのではあるが、どうもマッチポンプ的なビジネスや我田引水的なビジネスが多いように感じてしまうので、僕自身はビジネスマンとは相性が悪いと思っている。まともなビジネスはちゃんと価値あるものを正当に評価することだろう。
イノベーションという言葉が良いのかどうかは分からないが、僕が考える変革とは「誰もが望むことを、誰も考えなかった方法で、誰でもが享受出来るようなった状態」なのだと思う。しかし今は誰も望まないことを、誰も考えないようにさせて、誰でもが享受出来るわけではないことがビジネスになっている。
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by innerscape
| 2012-01-31 15:27
| 未来の自分との対話
途中様々な課題があったが、「霧はれて光きたる春」をひとまず終える。多くの患者さん達がたった30分間だけだが、希望に満ちた表情に変わるのを見ていると、涙が出そうになる。僕自身とてこの風景の前で特権的な立場ではなく、それを享受し希望に満ちた表情に変わる一人なのだと言うことを知る。
演出に対していくつか意見をいただいたが、そもそも「演出された何か」というまなざしでこの風景を見つめること自体が間違っていると途中で気づいた。もちろん仕組んではいるのだが、誰かに仕組まれ、楽しまされるのを享受するという枠組み自体が不毛で、わざと過剰な演出を止めている。
演出がどうこうという視線で人はすぐに評論をしたがる。そこで起こっている現象をただ「感じる」というまなざしを忘れて、すぐに解釈したがるのだ。特にこの作品について何らかのイメージを最初から持っている人はこれを記号として受け止める。そうしたまなざしでは何ら発見も異化もないだろう。
記号化された段階で、おそらくこの取り組みは異化の賞味期限を失う。そうなれば、ひょっとすると次はもう無いのかもしれない。風景とは一期一会である。これが起こることを期待するようになれば、それは奇跡ではなくただのエンターテインメントになってしまう。
パラドックスがあるのだが、多くの人がこの取り組みを知れば知るほど、そして社会的に評価されればされるほど、この取り組みを継続して行くことは力を失うのではないかと思っている。まだしばらくは必要だろう。それにまだまだ社会にこの視座が足りていないことは間違いないのだから。
結果や形にすぐに人は何かを求めたがる。しかしまたその形を再現しようとすることでその本質的な問いを忘れてしまうことがあるのではないかと、今回も再認識させられた。そのことに気づけたのが、今回の僕にとっての最大の収穫だ。もちろん患者さんや病院の職員さんたちの笑顔の収穫とは別として。
今回の「おおさかカンヴァス」に選出されたアーティストの中で僕の作品だけが非公開だ。それは実はとても重要な意味を持っているように思える。この作品は見たいと思っている人たちに届ける作品ではなく、そんなことを考えもしなかった人々と一緒に僕が見たかった風景なのだ。
この風景を目撃した人は限られているかもしれない。しかしきっと記憶に残って行くだろう。いつか忘れたり薄れたりするかもしれないが、こういう風景を見たことがあるというのは、生きて行く上で何かとても大切なことのような気がする。何か刺激を与えられ消費されてしまうようなものではないと思う。
刺激を演出し、記号化し、消費出来る構造に乗せればそれはビジネスになる。しかし、それはすぐに新しい刺激に上書かれてしまいきっと人の記憶には残って行きにくいだろう。演出するということはその危険性がつきまとう。初日と二日目の反応で僕が気づいたのはそのことだ。危うく囚われるところだった。
この取り組みにおいて僕はマスとして人を扱うエンターテインメントをしたかったわけではない。患者さんはそれぞれ病状も違えば悩みも違うのだ。何かを届けるのではなく、一人一人が何かをつかみに行くような風景のあり方が重要であり、それはこちらから何かを与えるという不遜な態度ではダメだと思う。
演出に対していくつか意見をいただいたが、そもそも「演出された何か」というまなざしでこの風景を見つめること自体が間違っていると途中で気づいた。もちろん仕組んではいるのだが、誰かに仕組まれ、楽しまされるのを享受するという枠組み自体が不毛で、わざと過剰な演出を止めている。
演出がどうこうという視線で人はすぐに評論をしたがる。そこで起こっている現象をただ「感じる」というまなざしを忘れて、すぐに解釈したがるのだ。特にこの作品について何らかのイメージを最初から持っている人はこれを記号として受け止める。そうしたまなざしでは何ら発見も異化もないだろう。
記号化された段階で、おそらくこの取り組みは異化の賞味期限を失う。そうなれば、ひょっとすると次はもう無いのかもしれない。風景とは一期一会である。これが起こることを期待するようになれば、それは奇跡ではなくただのエンターテインメントになってしまう。
パラドックスがあるのだが、多くの人がこの取り組みを知れば知るほど、そして社会的に評価されればされるほど、この取り組みを継続して行くことは力を失うのではないかと思っている。まだしばらくは必要だろう。それにまだまだ社会にこの視座が足りていないことは間違いないのだから。
結果や形にすぐに人は何かを求めたがる。しかしまたその形を再現しようとすることでその本質的な問いを忘れてしまうことがあるのではないかと、今回も再認識させられた。そのことに気づけたのが、今回の僕にとっての最大の収穫だ。もちろん患者さんや病院の職員さんたちの笑顔の収穫とは別として。
今回の「おおさかカンヴァス」に選出されたアーティストの中で僕の作品だけが非公開だ。それは実はとても重要な意味を持っているように思える。この作品は見たいと思っている人たちに届ける作品ではなく、そんなことを考えもしなかった人々と一緒に僕が見たかった風景なのだ。
この風景を目撃した人は限られているかもしれない。しかしきっと記憶に残って行くだろう。いつか忘れたり薄れたりするかもしれないが、こういう風景を見たことがあるというのは、生きて行く上で何かとても大切なことのような気がする。何か刺激を与えられ消費されてしまうようなものではないと思う。
刺激を演出し、記号化し、消費出来る構造に乗せればそれはビジネスになる。しかし、それはすぐに新しい刺激に上書かれてしまいきっと人の記憶には残って行きにくいだろう。演出するということはその危険性がつきまとう。初日と二日目の反応で僕が気づいたのはそのことだ。危うく囚われるところだった。
この取り組みにおいて僕はマスとして人を扱うエンターテインメントをしたかったわけではない。患者さんはそれぞれ病状も違えば悩みも違うのだ。何かを届けるのではなく、一人一人が何かをつかみに行くような風景のあり方が重要であり、それはこちらから何かを与えるという不遜な態度ではダメだと思う。
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by innerscape
| 2012-01-27 00:21
| アート
自分の風景異化の取り組みの中で重要なテーマの一つに「奇跡」というのがある。人はいかなる風景に奇跡的なものを感じ、神聖で厳かなものを感じるのかということは生涯かけて追求すべきテーマのように思える。まさにこのインスタレーションの最中でもそれは考え続けているため、毎日進化している。
例えどれほど醜悪な環境であったとしても、そこに奇跡を見出せる瞬間があるのではないかと考えていて、それはいかなる条件が整えば出現するのかということが風景異化の根本的なテーマの一つとして据えられている。ほとんど宗教に近い問いであり、宗教や信仰の中にそのヒントがあるのだろうと感じる。
今の世は我々が信じるに足るものを見失っている。かつてはそれが幻想であったとしても信じていたことがあったはずだが、近代がそれをそっくりと上書き今も進行しているのではないかと僕は見ている。異化とは単なる相対化であっては意味が無く、より我々が幸せに生きるための補助線でなければならない。
いままさに取り組んでいる作品を通じて、毎日学びや気づきがあり、考えが深まっているのが分かる。役者にとって舞台の上やカメラの前が最大の学びのチャンスであると同様に、アーティストにとって制作現場というのが最良の学びの場だ。しかしそういうチャンスはそう何度もやってこない。
良い評価にも悪い評価にも流されず、自分が感じている違和感を丁寧に見つめながら、深く思考していくことを怠れば、何も学ぶことはできない。特に僕のように自然現象を相手に格闘する表現を行うということはより冷静に状況を見つめねばならないのだ。
今日はセッティングが不完全だったに関わらず、確実にその場所に神聖さが宿っている手応えがあった。今日見た人は昨日見た人とは全く違う風景を見ていただろう。おそらく昨日のアンケートと本日のアンケートは確実に違うものになっているはずだ。舞台のように同じ風景は二度と見ることが出来ない。
表現者の心のコンディションが、ここまで風景に影響するのかと自分でも驚いた。迷いがあったり、心持ちがひけていたりすると、それは表現に素直に反映される。いかに自分を信じるか、そして信じられるまで沈思黙考するかがとても重要なことだ。それはとてもとても孤独な時間を過ごさねばならない。
今日の成功が、明日の保証にはならない。明日はまた違う風景なのだから。だから一期一会を大切にしたい。それは人も同じだ。この人とは二度と何か一緒に出来ないかもしれないと思うからこそ、大事に出来るのだ。
このあたりが自分のルーツの一つにもなっている農学の感性の一つなのだろう。かっちりと何かを作るという工学の感性と、偶然性や一期一会を最初から許容する農学の感性とではおのずと表現方法も変わってくる。風を読み、水を操るというのは「形」(かたち)ではなく「象」(かたち)への感性が重要だ。
これについては2年ほど前に現象デザイン研究会で取り組んでいたテーマ。複雑系にそのあたりのヒントがあると考え、菊地誠さんなどと対談させてもらったが、中途半端に終わってしまった。またいつか再開してやろうというネタだが、風景異化とだんだん融合してきた手応えが自分の中にある。
昨日と明日の間に生きている我々は、ただ生きるために生きているのであり、生きるという意味においては目的などないのだ。目的型思考の20世紀型の時代を乗り越えて、我々が共に生きる方法を模索するために何が必要なのかを表現においても言説においても考え続けているのだがなかなか答えは見えない。
例えどれほど醜悪な環境であったとしても、そこに奇跡を見出せる瞬間があるのではないかと考えていて、それはいかなる条件が整えば出現するのかということが風景異化の根本的なテーマの一つとして据えられている。ほとんど宗教に近い問いであり、宗教や信仰の中にそのヒントがあるのだろうと感じる。
今の世は我々が信じるに足るものを見失っている。かつてはそれが幻想であったとしても信じていたことがあったはずだが、近代がそれをそっくりと上書き今も進行しているのではないかと僕は見ている。異化とは単なる相対化であっては意味が無く、より我々が幸せに生きるための補助線でなければならない。
いままさに取り組んでいる作品を通じて、毎日学びや気づきがあり、考えが深まっているのが分かる。役者にとって舞台の上やカメラの前が最大の学びのチャンスであると同様に、アーティストにとって制作現場というのが最良の学びの場だ。しかしそういうチャンスはそう何度もやってこない。
良い評価にも悪い評価にも流されず、自分が感じている違和感を丁寧に見つめながら、深く思考していくことを怠れば、何も学ぶことはできない。特に僕のように自然現象を相手に格闘する表現を行うということはより冷静に状況を見つめねばならないのだ。
今日はセッティングが不完全だったに関わらず、確実にその場所に神聖さが宿っている手応えがあった。今日見た人は昨日見た人とは全く違う風景を見ていただろう。おそらく昨日のアンケートと本日のアンケートは確実に違うものになっているはずだ。舞台のように同じ風景は二度と見ることが出来ない。
表現者の心のコンディションが、ここまで風景に影響するのかと自分でも驚いた。迷いがあったり、心持ちがひけていたりすると、それは表現に素直に反映される。いかに自分を信じるか、そして信じられるまで沈思黙考するかがとても重要なことだ。それはとてもとても孤独な時間を過ごさねばならない。
今日の成功が、明日の保証にはならない。明日はまた違う風景なのだから。だから一期一会を大切にしたい。それは人も同じだ。この人とは二度と何か一緒に出来ないかもしれないと思うからこそ、大事に出来るのだ。
このあたりが自分のルーツの一つにもなっている農学の感性の一つなのだろう。かっちりと何かを作るという工学の感性と、偶然性や一期一会を最初から許容する農学の感性とではおのずと表現方法も変わってくる。風を読み、水を操るというのは「形」(かたち)ではなく「象」(かたち)への感性が重要だ。
これについては2年ほど前に現象デザイン研究会で取り組んでいたテーマ。複雑系にそのあたりのヒントがあると考え、菊地誠さんなどと対談させてもらったが、中途半端に終わってしまった。またいつか再開してやろうというネタだが、風景異化とだんだん融合してきた手応えが自分の中にある。
昨日と明日の間に生きている我々は、ただ生きるために生きているのであり、生きるという意味においては目的などないのだ。目的型思考の20世紀型の時代を乗り越えて、我々が共に生きる方法を模索するために何が必要なのかを表現においても言説においても考え続けているのだがなかなか答えは見えない。
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by innerscape
| 2012-01-26 01:07
| 未来の自分との対話
抽象的なことがらを理解出来ないとすぐにしてしまう態度が嫌い。そんなにすぐに理解せねばならないのかと思うし、理解出来ないことを許容出来ない感性の方が貧困だと思う。時に理解するよりも感じてみようとすることの方が重要なこともある。
意義が感じられないのは自分の感性に問題がないかどうか疑ってみる態度を持ちたいし、誰かが命をかけて取り組んでいることを、意義が感じられないと簡単に片付けてしまうような浅はかな態度を僕ならば取りたくはないのだが。まさに想像力の欠如がもたらしている罠だな。
一晩熟考したら、だんだんと原因がわかって来た。技術的な問題ではなくマインドセットの問題だな。何として見るのかという構えを問題にせねばならないのだな。風景異化とか研究しているのに何たる落とし穴。まだまだ修業が足りない。
何かエンターテイメントのようなものを期待しているマインドを切り崩さねばならない。これはとても本質的なところだ。
戦いと争いは似て非なるものだ。誰とも争わずに戦う方法はあるはずだと思う。本当の戦いとは「争い」に対して向けられるべきである。
全て終わってからの総括が必要だが、いくつかのコメントから察するに、今回の取り組みも、既に何かの記号に回収されかけていることに危機感を覚える。記号を解体するはずの取り組みが記号として回収されるとは何とも情けない話しかもしれない。
一方でその記号を破壊するためにはある種の力が必要だ。現代において共有されている力とは資本の事であり、資本の大きさに応じて力の大きさが決まる。ここに矛盾があるのが、記号を解体するための力を得るためには記号化されねばならない。記号化したフリをして解体するという本質を思い出さねば。
そうでなければ「戦う」ために「争う」という構図にまた陥ってしまう。争いを通過せねば戦えないという理屈は20世紀で終わりにするべきである。
我々が戦うべき相手とは誰か他の人ではないのだ。他者と戦うマインドを持つので争いが生まれるのだと思う。争うことに対して仕向けられる様々な誘惑と戦うことが本当の戦いかもしれない。
我々のマインドは簡単に書き換えられてしまう。その書き換えられたマインドが風景の見え方を変化させるのだ。我々が信じるに足るべきものを失い、長年に渡って書き換えられ、今もそれが持続するように上書かれているマインドをどうずらしていくのか。異化の戦いとはそういうものかもしれない。
意義が感じられないのは自分の感性に問題がないかどうか疑ってみる態度を持ちたいし、誰かが命をかけて取り組んでいることを、意義が感じられないと簡単に片付けてしまうような浅はかな態度を僕ならば取りたくはないのだが。まさに想像力の欠如がもたらしている罠だな。
一晩熟考したら、だんだんと原因がわかって来た。技術的な問題ではなくマインドセットの問題だな。何として見るのかという構えを問題にせねばならないのだな。風景異化とか研究しているのに何たる落とし穴。まだまだ修業が足りない。
何かエンターテイメントのようなものを期待しているマインドを切り崩さねばならない。これはとても本質的なところだ。
戦いと争いは似て非なるものだ。誰とも争わずに戦う方法はあるはずだと思う。本当の戦いとは「争い」に対して向けられるべきである。
全て終わってからの総括が必要だが、いくつかのコメントから察するに、今回の取り組みも、既に何かの記号に回収されかけていることに危機感を覚える。記号を解体するはずの取り組みが記号として回収されるとは何とも情けない話しかもしれない。
一方でその記号を破壊するためにはある種の力が必要だ。現代において共有されている力とは資本の事であり、資本の大きさに応じて力の大きさが決まる。ここに矛盾があるのが、記号を解体するための力を得るためには記号化されねばならない。記号化したフリをして解体するという本質を思い出さねば。
そうでなければ「戦う」ために「争う」という構図にまた陥ってしまう。争いを通過せねば戦えないという理屈は20世紀で終わりにするべきである。
我々が戦うべき相手とは誰か他の人ではないのだ。他者と戦うマインドを持つので争いが生まれるのだと思う。争うことに対して仕向けられる様々な誘惑と戦うことが本当の戦いかもしれない。
我々のマインドは簡単に書き換えられてしまう。その書き換えられたマインドが風景の見え方を変化させるのだ。我々が信じるに足るべきものを失い、長年に渡って書き換えられ、今もそれが持続するように上書かれているマインドをどうずらしていくのか。異化の戦いとはそういうものかもしれない。
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by innerscape
| 2012-01-25 00:26
| アート
観客や消費者というのが下す評価はシビアだ。プロセスを共有すればするほど、自分事として考えられるので、事情を斟酌して評価が甘くなりがちだが、外から飛んでくる評価は結果しか見ないので結果が全てである。とはいえ評価される方程式が分かっている所にさほどチャレンジはないと思う。
自分の苦労をいかに自分が知っていようと、一旦そこから切り離して批判的に自分の表現を眺めねばならないことがある。昨日、伝書鳩で話した愛の深度の話しと一見矛盾して聞こえるかもしれないが、より深く愛するために一度突き放さねばならないこともあるということ。厳しいね。
だから自分が感じておらず、考えてもいなかったような角度から来る批判には真摯に耳を傾けねばならない。想定内の批判であれば、一度チェックしているわけだから構わないが、想定外の批判は要注意だ。
しかし注意せねばならないのは、批判することが目的になっている場合があることだ。想定外のことであったとしても意義が見出せないような批判には耳を傾けるべきではない。そういう批判は多くの場合は愛が感じられない批判だ。
批判することはある種の快楽を伴うことであり、相手の想定外のことを指摘することで己の能力の高さを証明しようとする自意識が働いている場合がある。それが何かの意義を共有出来るような批判であればよいのだが、単に自意識への報酬が欲しいだけの批判に対しては憐れみのまなざしを向けるのがいい。
愛がそこにあるかどうかというのは抽象的でも何でもなく、重要な要因だ。愛についてはこれまでずっと考えて続けて来たし、これからも考えて行くテーマだが、奇しくも昨日の伝書鳩フォーラムで小山田さんからもそのキーワードが出て来たことに共時性を感じる。もうちょっと掘り下げたかったのだがな。
宗教家のようなことを言うかもしれないが、人は愛し、愛されねば生きてはいけない生き物なのだと想う。世にこれほどまでに愛の詩が満ちあふれていることがその証拠ではないか。批判する自意識の問題も、孤独の問題も突き詰めれば愛の問題に行き着く。そのことに目を背けて何が批判かと思うが。
末梢神経の反射のごとく消費されてしまうようなものは愛とは思わない。時間をかけて付き合い、発見を重ねるうちに愛は育まれていくのだと思うのだが、その時間に耐える忍耐力が時代とともに失われていっているような気がする。もちろんそれは自分にも例外ではなく、忍耐力が無いことが多々ある。
自分が男性だからだと思うが、最近の特に女子を見ていると愛の貪りがはびこっていることにある種の絶望感を感じる。愛されたい願望はよく分かるのだが、愛したいとは思わないのだろうか。愛されたいだけの女性を見るにどうにも哀しくなるのは勝手な思い込みだろうか。
深すぎる愛が困りものだという考えもあるのだろうが、その深さと呼ばれるものには想像力の欠如がセットになっていて、それが愛を自分勝手にしているのだろうと推測する。愛と一緒に持ちたいのは思いやりなのだなと自分にも言い聞かせねばならない。
自分の苦労をいかに自分が知っていようと、一旦そこから切り離して批判的に自分の表現を眺めねばならないことがある。昨日、伝書鳩で話した愛の深度の話しと一見矛盾して聞こえるかもしれないが、より深く愛するために一度突き放さねばならないこともあるということ。厳しいね。
だから自分が感じておらず、考えてもいなかったような角度から来る批判には真摯に耳を傾けねばならない。想定内の批判であれば、一度チェックしているわけだから構わないが、想定外の批判は要注意だ。
しかし注意せねばならないのは、批判することが目的になっている場合があることだ。想定外のことであったとしても意義が見出せないような批判には耳を傾けるべきではない。そういう批判は多くの場合は愛が感じられない批判だ。
批判することはある種の快楽を伴うことであり、相手の想定外のことを指摘することで己の能力の高さを証明しようとする自意識が働いている場合がある。それが何かの意義を共有出来るような批判であればよいのだが、単に自意識への報酬が欲しいだけの批判に対しては憐れみのまなざしを向けるのがいい。
愛がそこにあるかどうかというのは抽象的でも何でもなく、重要な要因だ。愛についてはこれまでずっと考えて続けて来たし、これからも考えて行くテーマだが、奇しくも昨日の伝書鳩フォーラムで小山田さんからもそのキーワードが出て来たことに共時性を感じる。もうちょっと掘り下げたかったのだがな。
宗教家のようなことを言うかもしれないが、人は愛し、愛されねば生きてはいけない生き物なのだと想う。世にこれほどまでに愛の詩が満ちあふれていることがその証拠ではないか。批判する自意識の問題も、孤独の問題も突き詰めれば愛の問題に行き着く。そのことに目を背けて何が批判かと思うが。
末梢神経の反射のごとく消費されてしまうようなものは愛とは思わない。時間をかけて付き合い、発見を重ねるうちに愛は育まれていくのだと思うのだが、その時間に耐える忍耐力が時代とともに失われていっているような気がする。もちろんそれは自分にも例外ではなく、忍耐力が無いことが多々ある。
自分が男性だからだと思うが、最近の特に女子を見ていると愛の貪りがはびこっていることにある種の絶望感を感じる。愛されたい願望はよく分かるのだが、愛したいとは思わないのだろうか。愛されたいだけの女性を見るにどうにも哀しくなるのは勝手な思い込みだろうか。
深すぎる愛が困りものだという考えもあるのだろうが、その深さと呼ばれるものには想像力の欠如がセットになっていて、それが愛を自分勝手にしているのだろうと推測する。愛と一緒に持ちたいのは思いやりなのだなと自分にも言い聞かせねばならない。
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by innerscape
| 2012-01-23 00:48
| 覚書
昨夜の「独白する不純物」の打ち合わせは昼間のインスタレーションの影響もあり、少し掘り下げれた気がする。音の調整やりながらだったから集中は出来なかったが、伝書鳩での僕のプレゼン聞いてもらったので狙いを共有出来たことが随分と大きい。
しかし伝書鳩での自分のプレゼンの出来は「公演」としてはいまいちだった。やっぱり時間がネックだな。前の人達の時間が延びたので、気になってパフォーマンスが落ちた。内容的には薄くなるが20分ぐらいでコンパクトに話せるようなものも必要かとは思うがテーマがシャープならそれも可能だな。
社会の中で何かの表現に取り組むというのは色んな批判の眼にさらされることになる。特にそこに利益や害悪が絡むと余計にシビアな意見が飛んでくることは覚悟せねばならないし、一度自分を突き放さねば成長出来ないことも多い。ある枠組みにあぐらをかいていては見えない成長があるように思える。
年齢によらずアイデンティティと自己肯定感の問題は常につきまとっている。しかし自分の成長と成熟のためには一度それを突き放してセルフイメージを更新する必要がある。更新しても更新しても消えない部分に本当のアイデンティティと業が見え隠れしているのだと思う。
自分を否定するのはとっても難しいことだが、それが出来ないようになれば考えが深まることはないのだと思う。人に否定してもらってもよいが、下手なやり方だと壊れてしまうか防衛本能が働いてしまうので、出来れば自分で出来た方が良い。否定しても否定しきれない自分の良さが分かれば強くなれる。
しかし伝書鳩での自分のプレゼンの出来は「公演」としてはいまいちだった。やっぱり時間がネックだな。前の人達の時間が延びたので、気になってパフォーマンスが落ちた。内容的には薄くなるが20分ぐらいでコンパクトに話せるようなものも必要かとは思うがテーマがシャープならそれも可能だな。
社会の中で何かの表現に取り組むというのは色んな批判の眼にさらされることになる。特にそこに利益や害悪が絡むと余計にシビアな意見が飛んでくることは覚悟せねばならないし、一度自分を突き放さねば成長出来ないことも多い。ある枠組みにあぐらをかいていては見えない成長があるように思える。
年齢によらずアイデンティティと自己肯定感の問題は常につきまとっている。しかし自分の成長と成熟のためには一度それを突き放してセルフイメージを更新する必要がある。更新しても更新しても消えない部分に本当のアイデンティティと業が見え隠れしているのだと思う。
自分を否定するのはとっても難しいことだが、それが出来ないようになれば考えが深まることはないのだと思う。人に否定してもらってもよいが、下手なやり方だと壊れてしまうか防衛本能が働いてしまうので、出来れば自分で出来た方が良い。否定しても否定しきれない自分の良さが分かれば強くなれる。
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by innerscape
| 2012-01-23 00:46
| アート

緑橋×町家再生×シェアハウスというテーマでトークセッションをうちのアトリエで行います。
朝は大阪市役所ロビーで伝書鳩フォーラムですが、すぐにすっとんで帰ってこちらのフォーラムです。
シェアに興味のある方は是非お越し下さい。
「シェア」からつながるまちのコミュニティ
日時:1月22日(日)
時間:
14:00〜15:30(第1部) トークセッション+緑橋まち歩き&再生町家見学・説明会
17:30〜(第2部)懇親会
場所:
第1部
♭ (フラット) 大阪市東成区中本3丁目10-2
第2部
町家再生複合施設「燈」
トークゲスト
六波羅雅一(建築家/六波羅真建築研究室代表)
永瀬泰子(有限会社Come on up代表取締役)
ハナムラチカヒロ(ランドスケープデザイナー/アーティスト/極東EX主宰/役者/大阪府立大学準教授)
コーディネーター
早川厚志
参加費:500円
予約・お問い合わせ
有限会社Come on up
TEL/FAX 03-3760-1392
mail: info@comeonup-house.com
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by innerscape
| 2012-01-22 22:47
| インフォメーション

大阪市役所のロビーで行われる「伝書鳩フォーラムvol.02」で話します。
前回はトークイベントを拝見する立場でしたが、今回はお声がかかったので、壇上から失礼致します。
うちのアトリエで2年前にした「住み開きシンポジウム」でもご一緒した小山田徹さんと、別府アートプロジェクトの山出淳也さんと一緒に基調講演とクロストークです。
会場は友人のドットアーキテクツによるデザイン、午後からは関西の若手アーティストによるプレゼンテーションがたくさんありますので、ご興味ある方は是非お越し下さい。
伝書鳩フォーラムvol.2
基調講演「表現を考える」。大阪を中心に様々な「立場」「現場」で活躍する6組の表現者の方々をお招きして、その先進的な活動を伺うと共に、特に大阪の表現活動の「未来について」自由に対談して頂きます。
場所:大阪市役所ロビー
2012年
1月21日(土)
10:00-10:20 基調講演1 新聞女氏
10:20-10:40 基調講演2 三村康仁氏
10:40-11:00 基調講演3 樋口ヒロユキ氏
11:00-12:00 クロストーク 「大阪の表現を考える」フリー対談
1月22日(日)
10:00-10:20 基調講演1 小山田徹氏
10:20-10:40 基調講演2 山出淳也氏
10:40-11:00 基調講演3 ハナムラチカヒロ氏
11:00-12:00 クロストーク 「大阪の表現を考える」フリー対談
【伝書鳩とは?】
『伝書鳩』とは、大阪市の芸術創造活動支援事業の1つとして、表現活動を通じて、未来を『よりよい方向に変えていこう』と様々な現場で活躍している『若手表現者達』にスポットをあて、まるで『伝書鳩のように』正確に伝えていく事にポイントを置いている2つのプログラム、2011年6月~11月に月 1回、計6回、中之島4117をメイン会場にして開催する『伝書鳩トーク』そして、2012年1月21日、22日の2日間、大阪市役所玄関ロビーを会場にして開催する『伝書鳩フォーラム』の総称です。
長引く経済不況、急激に変化する社会情勢。ともすれば私たちは、昨日まで信じていた『今』を信じる事が出来ず、未来に対して容易に不安になってしまう時代に生きているのでは?とかんじています。だからこそ、彼らが社会に対して、それぞれの表現活動を通じて向き合っている『今』を『メディアなどの編集を通さず、自分たちなりに正確に知る事』また『その知る機会自体を参加者同士で共有する事』は今の時代に生きる私たちにとっての何かしらの気づき、もしくは指針の1つになるものだと考え、本企画を開催させていただいていおります。
前回に続き、第2回目の開催となる今回は2011年6月から11月まで月1回、各2組、計12組のゲストを、表現活動を広義な意味で人(表現者)場所(スペース運営)事(プロジェクト)の3つに分類して、それぞれの活動を紹介していただく事で、表現活動を始める人の“きっかけづくり”になる事を目指すと同時に、来場者を交えて、それぞれに共有する想いを考えていく『伝書鳩トーク きっかけづくり“ヒト、バショ、コト”』を新たにシリーズ企画として実施した後、翌2012年1月21日、22日の2日間開催の『伝書鳩フォーラムvol2〜未来を考える〜』においては、ジャンルや活動領域こそ違うものの、ただ1つ『未来をよりよい方向に変えて行く為に』『社会に対して表現活動を行っている』という共通点をもつ表現者達が前回の2倍である34組『大阪の真ん中』大阪市役所玄関ロビーに集結し、それぞれの活動を発表します。
そして、その事がそれぞれの多様性を包括したまま、大阪、そして全国に『伝書鳩』のように『正確に』発信される事で、来場者の皆様それぞれにとっての『未来を考える』きっかけの1つになれば。それが勝手ながら企画委員としての私たちの願いです。
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by innerscape
| 2012-01-22 19:22
| インフォメーション
6対4で勝てると踏んだら全面戦争、5対5だと勝負に出ないというスタンスは多数決で決まる民主主義での生き残り戦略かも知れんが、負けた4を皆殺しにするのはどう考えても倫理的に正しいとは思えないし、も合理的にも得だと思わない。負けた4を活かす方が得だろうに。
革命の怖さは負けると皆殺しという所だろう。相手を赦すという考えを持つ革命家や為政者の方が信じられると思うのだが。相手赦す方が一周回ってよほどラディカルだと感じる。
どちらかが生き残るための戦いと、共に生きるための戦いは、同じ戦いでも似て非なるものなのだろう。
革命の怖さは負けると皆殺しという所だろう。相手を赦すという考えを持つ革命家や為政者の方が信じられると思うのだが。相手赦す方が一周回ってよほどラディカルだと感じる。
どちらかが生き残るための戦いと、共に生きるための戦いは、同じ戦いでも似て非なるものなのだろう。
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by innerscape
| 2012-01-20 01:20
| 覚書
関大へ向かう道中で論文の受け渡し。大阪の名所絵図と観光ガイドブックから江戸時代と今とでどう風景が変化したのかという研究を昔していたが、雑誌「大阪人」での参考にしたいようだ。今でも基本的な研究スタンスは変わっていないのだが。
関大での特別講演が終了。たくさんの人が来てくれて感謝。クリエイティブシェアの話も熱心に聞いてくれていたので、こちらも話に熱が入る。でもやはり時間は1時間半とかかかるな。日曜の伝書鳩の持ち時間20分なのにどうしようかなと。
風景異化学とインターフェイス工学とを総合的に仕掛学の中にまとめて行く中でどうしても避けて通れない課題として賞味期限の問題がある。このあたりをどう検証し回避するのかということを今回の研究の中でも考えねばならない。松下先生とも議論していた課題の一つ。
風景異化にヴァーチャルリアリティは有効なテクノロジーだと前から考えているので、ヒューマンインターフェイス系の人とは相性が良い。一方で、テクノロジーにいかにも頼りましたというのがプリミティブ派なランドスケープとしてはつまらなく感じる。彼らの技術をどう演出するかが腕の見せ所。
場合によってはテクノロジー的には大したことのない事でもすごく見える時がある。任天堂WIIもそうだし、オリザさんが演出したロボット演劇もそうだが、ようはどう演出するかだと思う。
【下記はツイッターで拾った聴講者の感想】
「今日のハナムラチカヒロ (@flwmoon) 先生の講演、大変興味深く、楽しく聴かせて頂いた。私の研究が事故・災害関係なので、もう少しそのあたり聴きたかったけれども、予定が詰まっていてお話できなかったのが残念。医療の文脈で、事件・事故被害者・遺族の風景異化ができないかと考えた。」
「ありがとうございました!時間を空けてもう一度聞くと、いっそう核心に触れたような気になり、何故か森に造花を植えたプロジェクトとアートカフェプロジェクトの話の途中で泣きそうになりました。そう友人に話すと、友人も同じ体験をしたそうで、それ程魅力的な話でした。」
「遅ばせながら先日は講演ありがとうございました。私も泣きそうになった一人です。デザインの可能性をすごくすごく感じることができました。またアトリエの方も行かせてもらいますね。」
関大での特別講演が終了。たくさんの人が来てくれて感謝。クリエイティブシェアの話も熱心に聞いてくれていたので、こちらも話に熱が入る。でもやはり時間は1時間半とかかかるな。日曜の伝書鳩の持ち時間20分なのにどうしようかなと。
風景異化学とインターフェイス工学とを総合的に仕掛学の中にまとめて行く中でどうしても避けて通れない課題として賞味期限の問題がある。このあたりをどう検証し回避するのかということを今回の研究の中でも考えねばならない。松下先生とも議論していた課題の一つ。
風景異化にヴァーチャルリアリティは有効なテクノロジーだと前から考えているので、ヒューマンインターフェイス系の人とは相性が良い。一方で、テクノロジーにいかにも頼りましたというのがプリミティブ派なランドスケープとしてはつまらなく感じる。彼らの技術をどう演出するかが腕の見せ所。
場合によってはテクノロジー的には大したことのない事でもすごく見える時がある。任天堂WIIもそうだし、オリザさんが演出したロボット演劇もそうだが、ようはどう演出するかだと思う。
【下記はツイッターで拾った聴講者の感想】
「今日のハナムラチカヒロ (@flwmoon) 先生の講演、大変興味深く、楽しく聴かせて頂いた。私の研究が事故・災害関係なので、もう少しそのあたり聴きたかったけれども、予定が詰まっていてお話できなかったのが残念。医療の文脈で、事件・事故被害者・遺族の風景異化ができないかと考えた。」
「ありがとうございました!時間を空けてもう一度聞くと、いっそう核心に触れたような気になり、何故か森に造花を植えたプロジェクトとアートカフェプロジェクトの話の途中で泣きそうになりました。そう友人に話すと、友人も同じ体験をしたそうで、それ程魅力的な話でした。」
「遅ばせながら先日は講演ありがとうございました。私も泣きそうになった一人です。デザインの可能性をすごくすごく感じることができました。またアトリエの方も行かせてもらいますね。」
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by innerscape
| 2012-01-19 22:00
| 情報デザインと風景
私“flw moon”が日々の生活の中で感じた事を見つめ直し記録します。
心のフィルターを通して見た日々のシーンをひとつづつ電脳に記憶させることで、果たしてどんな風景が見えてくるだろうか・・・?
心のフィルターを通して見た日々のシーンをひとつづつ電脳に記憶させることで、果たしてどんな風景が見えてくるだろうか・・・?
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