flw moon innerscape
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対馬の聖地と天道信仰の調査に入る。
調査二日目の対馬は雨。
雨の方が聖地の感覚がよく伝わってくる。
昨日は島の南半分の神社を回って、この島が神々の島であることは十二分に理解した。
社殿は単なる拝み、祈るための場所であり、実際に神がおりてくる場所には建築は無い。
聖地のランドスケープの研究はその辺りからの出発。
対馬は朝鮮と日本との境界上の重要な場所で、このアーキペラゴの風景だけ見ても普通の場所とは異なることがよく分かる。



和多都美神社は海彦山彦の神話の地。
本殿は単なる遥拝所だが、裏側に磐座があり、おそらくそこが本命かと。
蛇の鱗の岩が気になる。

山のシューレで植島先生、伊藤先生と鼎談させて頂いた時にぶつけたのは、エネルギーと物質が交換される場としての聖地の話だったが、そこに記憶というファクターが足されねばならないというのが、その時に僕の中で学んだことの一つ。
聖地は見出されるものであって創られるものではないため聖地など人の手でデザインすることなど出来ない。
では人に出来ることはないのかという問いがそこに立つ。
ヤクマ祭の時に浜に積み上げられる石にはその辺りのヒントがありそうだと思い訪れてみた。
木坂の海神神社のヤクマ。


天神多久頭魂神社の岩積み。
朝鮮の影響を色濃く受けているのが分かる。
岩積みが対になっているので、その中央の木造の鳥居がおそらく中止だろうと推測して方位を図ると、案の定真東を向いている。



五根緒の岩積み。
曽根崎神社近くの岩壁に積まれているもので、ヤクマ祭との関連があるのかどうか。
地図にも無いような場所なので辿り着くのは難しい場所にある。
海が一望出来るというのとはあるが、なぜこの位置にこの形で積まれなければならないのか。
江戸期の対馬には約450個ほどの神社があったという。
現在では約150箇所ほどに減少しているが、かなり古い信仰の形態が残っている。
中でも興味深いのは龍良山を中心として設定された「オソロシドコロ」という禁足地で、その境界地として表八丁郭と裏八丁郭という場所。
(八丁角とも書く。)
これはヤクマと同じように岩積みがされており、そのたかさは3m程にも及ぶピラミッド型だ。
ここから先は入ることはおろか、木の葉一枚も持ち帰ってはならない場所となっており、言い伝えによると八丁郭を見ることすらタブーとされたという。
八丁郭を見たり、そこから先に間違って入ってしまった者は頭に草履を乗せて「インノコインノコ」(犬の子犬の子)と言いながら後ずさりして退出せねばならないという。
天道法師の信仰とも関係してくるが、熊野権現や修験者のしきたりを踏襲した可能性があり、非常に興味深い。
日本の国家神道以前の古神道の色合いを濃く残している場所には聖地のランドスケープのヒントがある。
一日半は大学の業務である、対馬市の地域ブランディング、もう一日半は聖地の調査というスケジュールだったが、とりあえず今回の調査はこれで終了。
基本は人か神かに呼ばれないとどこかへ訪れることは無いが、また呼ばれることがあれば次はもう少し掘り下げてみたい。
もう一つ注目すべきは、対馬は壱岐と並んで、卜占(ボクセン)が異常に盛んだったことだ。
もちろん朝鮮半島と近かったことが大きく影響しているが、亀卜(キボク)と関係している神社が数多くある。
卜占術は古代の科学であったが、太占(フトマニ)は動物の骨を焼いてそのひび割れの形から吉凶を占うものであり、特に対馬は海亀を使う亀卜が中心のようだ。
日本の古神道の一旦でありながら、大陸の亀卜も併せ持つ独自の発展をしているのが興味深い。
司馬遼太郎によると、大宝律令制定(701年)の頃に神祇官の職掌名として「卜部」(ウラベ)が20名ほど宮廷に置かれるようになったが、壱岐から5名、伊豆から5名、そして対馬からは10名呼ばれて、その職についている。
亀卜、岩積、天道、古神道あたりの積層が一つのポイントだが、もうひとつの補助線としては山の形が尖ったピラミッド型が異常に多いということ。
風水的に見てもかなり複雑な形態をしているのと、全体が泥岩と花崗岩で主であることもポイントになってきそうだ。

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by innerscape
| 2014-09-29 09:49
| 聖地創造論

僕とアニメーターの吉田徹のユニット「第七区」の作品「After theShift」の初の日本での展覧会終了。
前回はソウルで行ったが、ようやく日本でもお披露目することが出来た。
会期中あんまり会場にはいれなかったけどたくさんの方々にお越し頂いたようで感謝感激の想いでいっぱいだ。
この作品は2010年代に地球の地軸がズレてしまう極移動(ポールシフト)が起こった後の世界を物語として描いている。
ついつい我々は今の世界がずっと存続することを前提に物事を考えてしまいがちだが、今躍起になっている政治や経済や文化という"ソフト"は、地球という"ハード"が変動してしまうことで確実に変化してしまうということを忘れがちで、それを自分なりに考えて見たかったというのが動機の一つなっている。
もう一つは、今僕らが正しいと信じて疑わない"まなざし"を推し進めていくと、ひょっとするとこんな世界になるかもしれないというのを極端に描いて見たかったというのもある。
今回は全体をあるジャーナリストの視点から追いかけたルポタージュという形でテキストもつけて展示したが、来場者の反応も良くてまずまずだったかと。
今の様々な社会問題を未来から見た時にどう見えるのかということを世界の名所9ヶ所を具体的にピックアップして、自然、土地、エネルギー、観光、風景、資源、宗教、安全•安心、民族という観点からそれぞれ考えてみた。
とりあえず♭には飾っておくが、また機会があればどこかで展示するかもしれない。
もう少し思考を掘り下げるツールにしてみたい。
2007年に「いのちを守る智恵」という減災絵本を書いたことがあり、その時は30話書いたが、今回は9話。
前回は目的がクリアだったし、真面目なお話しか書いていないが、今回は自発的に書いて制約フリーなので、割と言っちゃいけないようなことや、こんなコト真面目に提案すると問題になるよねという際どいシチュエーションも書いてやった。
物語というフィクションの力を借りるから、思想や思考が自由になることもあると思う。

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by innerscape
| 2014-09-29 08:38
| アート
新潟、東京、対馬、福岡、札幌、名古屋、大阪とこの一月の間に渡り歩いた。
どの都市でも普遍的に見られる人の佇まいと、その都市固有のローカリティが見える。
その間で文化の成熟とは何かを考え続けている。
共通して地方が抱える“まなざし”の問題と可能性の両方について、いつかは考えを整理せねばならない。
人は見たいものにまなざしを向けるので、己に加えられる批判は見たくないものだ。
だからといってまなざしを向けないでいるといつまでも成長出来ないどころか、時が過ぎれば大変なことになっていることもある。
難しい問題だが、タイミングを見極めつつじっくりと向き合うことしかないのだろう。
料理のクオリティをいくら上げても、それを食べる人の味覚のレベルと釣り合わなければ満足感は得られないことが多い。
それどころか、いくら高級な食材であっても子供が食べるためには、カレーにせねばならないという現状があちこちである。
カレーの方が喜ばれるので出し続けていると、高級な食材でなくても良くなる。
そうすると舌も鈍ってくるので、高級な食材はどんどん必要なくなって来る。
子供の舌が喜ぶからと、化学調味料で味付けした濃い食べ物ばかり出すと、その子供は将来どうなってしまうのか。
それでも喜ぶからと出し続ける親になるのか、それとも厳しく戒める親になるのか。
あるいはその意味をちゃんと説いて理解と共感を得る賢い親になるのか。
そのためにはまず親がちゃんと質を理解していなければならない。
文化や芸術も全く同じことが言える。
やっぱり人類の進歩のためには全ての人の舌は成熟するべきだと思うので、高級な食材とハイクオリティな料理を出し続けることが大切だと思う。
それは料理だけではなく、文化の課題かもしれない。
どの都市でも普遍的に見られる人の佇まいと、その都市固有のローカリティが見える。
その間で文化の成熟とは何かを考え続けている。
共通して地方が抱える“まなざし”の問題と可能性の両方について、いつかは考えを整理せねばならない。
人は見たいものにまなざしを向けるので、己に加えられる批判は見たくないものだ。
だからといってまなざしを向けないでいるといつまでも成長出来ないどころか、時が過ぎれば大変なことになっていることもある。
難しい問題だが、タイミングを見極めつつじっくりと向き合うことしかないのだろう。
料理のクオリティをいくら上げても、それを食べる人の味覚のレベルと釣り合わなければ満足感は得られないことが多い。
それどころか、いくら高級な食材であっても子供が食べるためには、カレーにせねばならないという現状があちこちである。
カレーの方が喜ばれるので出し続けていると、高級な食材でなくても良くなる。
そうすると舌も鈍ってくるので、高級な食材はどんどん必要なくなって来る。
子供の舌が喜ぶからと、化学調味料で味付けした濃い食べ物ばかり出すと、その子供は将来どうなってしまうのか。
それでも喜ぶからと出し続ける親になるのか、それとも厳しく戒める親になるのか。
あるいはその意味をちゃんと説いて理解と共感を得る賢い親になるのか。
そのためにはまず親がちゃんと質を理解していなければならない。
文化や芸術も全く同じことが言える。
やっぱり人類の進歩のためには全ての人の舌は成熟するべきだと思うので、高級な食材とハイクオリティな料理を出し続けることが大切だと思う。
それは料理だけではなく、文化の課題かもしれない。
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by innerscape
| 2014-09-29 08:36
| 日常
風景には日常、非日常と同様に「超常」という状況が在るのだと思うが、僕が進めている風景異化研究の射程範囲には超常現象も一部含まれている。
なぜならば風景の半分は想像力が見せているとすれば、その引き出された想像力の中には“怪異”と呼ばれるものがあるからだ。
それは古今東西、時代を問わず人々がその目撃を口にするものである。
「超常現象とは一体何なのか?」を科学的に解明するという問いも興味深いのだが、それよりも「人はなぜ超常現象を見てしまうのか?」という問いの方が風景異化論としては本質に迫れる可能性があるようにも思える。
実話の怪談ばかりを集めて語り続けている怪談作家の宇津呂鹿太郎さんに一年ほど前にそんな話しをしてみたら、実際にそれを公開で話してみましょうということになり、「妖しき怪談談義」というかなり際どいイベントへと繋がった。
これまで僕が参加した中ではかなり異色な内容だ。
僕は主催者ではなく、あくまでトーカーの一人として呼ばれている。
今夜に備えて結構勉強したつもりだが、元々そんなにオカルトに明るい方でも無いし、皆さんほど知識も多くはない。
トンデモな感じは否めないが、お声かかったので一生懸命に風景異化から切り込んでいきたいが、科学者から噺家までこの面子が集まって話する事はそうそうないので、これを機に少し勉強してみた。
心霊現象自体は僕にとってどちらでも良い事なのだが、「人間の意識と環境との関係」を考えるのに良い題材だと思っている。
“風景”が単なる物理的な環境ではなく、環境を捉える人の内部に生み出される物であるのであれば、意識や無意識の状態が変化すれば、環境の捉え方即ち風景も変化するというのは至極当たり前の話だ。
そうなると「意識とは何か」という問い、そして「意識と外界との関係は一体どうなっているのか」という問いへと繋がって行く。
僕は”今見えている風景がふいに違う風景となることがある”という現象を風景異化と名付けて研究しているが、超常現象や心霊現象というのはまさにその最たるものの一つだ。
風景異化から心霊現象を捉えた時に何が言えるのかを少し考えるためには、オカルトと呼ばれる現象について研究するところから始めねばならない。
かつて霊について研究した人々は何を知り、どこまで到達したのか。
果たしてそのような存在は居るのかどうか。
一応ひととおり人間の精神は肉体から独立しうるのかということを巡って、過去にどのような研究がされていたのかを調べてみた。
18世紀末のスウェーデンボルグに始まる近代の心霊研究の萌芽から、19世紀頭に大流行した交霊会の話、それに端を発してアメリカのデューク大学を中心に確立していった超心理学研究の紹介、そして心霊現象に対しての懐疑派達の理論が錯覚研究や認知科学、脳科学の角度からいかに展開されていったか、ヴァージニア大学の精神科に設立された人格研究所での臨死体験の研究から、最新の脳科学の研究、そして量子力学的なアプローチから意識と物の関わりを考察する研究から宇宙生命論の話まで。
僕が信じているのかどうかとは無関係に、近代以降どのような議論として熟しつつあるのかの概略をざっと調べてみた。
特に最近世界的に報告が増えている臨死体験。
おそらく医学の発達によって生還した人が多く居るのではないか。
最も古い記録ではプラトンの時代から臨死体験はあるらしいが、その記述が現代のものとかなり酷似しているのはなぜなのか。
死の今際に際して人々が見る風景には、古今東西、宗教を問わず共通のフォーマットが見られるという事実は非常に興味深い。
また最近のミシガン大学での実験では心肺停止してから30秒に渡って脳は活動を続けているらしく、その間に臨死体験者が見る風景が作られている可能性が高い。
より重要な問いは「霊が居るかいないか」よりも「なぜ我々はそれを見てしまうのか」だ。
そういう問いを建てれば死後の世界の研究ではなく、現在に生きる我々の認識の問題となる。
“否定派”の意見も大体そんなこんな感じだ。
「超能力信仰の最も強力な源は、不思議な出来事を日常生活の中で見聞きすること」ギロビッチ
「自然科学者を神秘世界に媒介するのは志向を放棄した平凡な経験」エンゲルス
「超常現象を信じたい人には信じるに十分な証拠が出る一方、信じたくない人には否定をするに十分な曖昧さが残る。そういうレベルの証拠しか出ないのが超常現象である。」ウィリアム・ジェームズ
一方で肯定も否定もしない懐疑派というのもたくさん居る。
科学的立場に立つと懐疑するのが一番良いのかもしれない。
カールセーガンはこういう。
「科学の核心は、一見すると矛盾するかに見える二つの姿勢のバランスを取るところにある。一つは、どれほど直感的に反する奇妙なアイデアであっても、新しいアイデアに対しては心を開くという姿勢。もう一つは、古いアイデアであれ新しいアイデアであれ、懐疑的に、かつ徹底的に吟味するという姿勢である。この二つのバランスを取ってはじめて、深い真実を、やはり深いナンセンスから選り分けることができるのだ。科学が正しい方向に歩み続けるためには、創造的な考え方と懐疑的な考え方の両方が必要なのである。」
そんな話を怪談ライブではしてみたが、これまで怪談作家さん達がしてきた普通の怪談ライブを期待してきた人は面喰らったかも知れない。
ただ漠然と盲目的に霊を信じている人や、そんなものは絶対に無いに決まっていると決めつける否定派の両方にとって共通に話せる土台をとりあえず用意した。
かつて怪異だったものは次の常識になっているかも知れないし、それでも残る怪異はあるのだろう。
しかし一番の怪異はランドスケープデザインやアートやってる僕のような人間がなぜこんなトピックを整理をしているのかということかも知れないと昨夜は感じた。
あらゆる風景を扱うのであれば人が死に際して見る風景や死後見る風景も研究と異化の範疇かと半ば諦めている。
なぜならば風景の半分は想像力が見せているとすれば、その引き出された想像力の中には“怪異”と呼ばれるものがあるからだ。
それは古今東西、時代を問わず人々がその目撃を口にするものである。
「超常現象とは一体何なのか?」を科学的に解明するという問いも興味深いのだが、それよりも「人はなぜ超常現象を見てしまうのか?」という問いの方が風景異化論としては本質に迫れる可能性があるようにも思える。
実話の怪談ばかりを集めて語り続けている怪談作家の宇津呂鹿太郎さんに一年ほど前にそんな話しをしてみたら、実際にそれを公開で話してみましょうということになり、「妖しき怪談談義」というかなり際どいイベントへと繋がった。
これまで僕が参加した中ではかなり異色な内容だ。
僕は主催者ではなく、あくまでトーカーの一人として呼ばれている。
今夜に備えて結構勉強したつもりだが、元々そんなにオカルトに明るい方でも無いし、皆さんほど知識も多くはない。
トンデモな感じは否めないが、お声かかったので一生懸命に風景異化から切り込んでいきたいが、科学者から噺家までこの面子が集まって話する事はそうそうないので、これを機に少し勉強してみた。
心霊現象自体は僕にとってどちらでも良い事なのだが、「人間の意識と環境との関係」を考えるのに良い題材だと思っている。
“風景”が単なる物理的な環境ではなく、環境を捉える人の内部に生み出される物であるのであれば、意識や無意識の状態が変化すれば、環境の捉え方即ち風景も変化するというのは至極当たり前の話だ。
そうなると「意識とは何か」という問い、そして「意識と外界との関係は一体どうなっているのか」という問いへと繋がって行く。
僕は”今見えている風景がふいに違う風景となることがある”という現象を風景異化と名付けて研究しているが、超常現象や心霊現象というのはまさにその最たるものの一つだ。
風景異化から心霊現象を捉えた時に何が言えるのかを少し考えるためには、オカルトと呼ばれる現象について研究するところから始めねばならない。
かつて霊について研究した人々は何を知り、どこまで到達したのか。
果たしてそのような存在は居るのかどうか。
一応ひととおり人間の精神は肉体から独立しうるのかということを巡って、過去にどのような研究がされていたのかを調べてみた。
18世紀末のスウェーデンボルグに始まる近代の心霊研究の萌芽から、19世紀頭に大流行した交霊会の話、それに端を発してアメリカのデューク大学を中心に確立していった超心理学研究の紹介、そして心霊現象に対しての懐疑派達の理論が錯覚研究や認知科学、脳科学の角度からいかに展開されていったか、ヴァージニア大学の精神科に設立された人格研究所での臨死体験の研究から、最新の脳科学の研究、そして量子力学的なアプローチから意識と物の関わりを考察する研究から宇宙生命論の話まで。
僕が信じているのかどうかとは無関係に、近代以降どのような議論として熟しつつあるのかの概略をざっと調べてみた。
特に最近世界的に報告が増えている臨死体験。
おそらく医学の発達によって生還した人が多く居るのではないか。
最も古い記録ではプラトンの時代から臨死体験はあるらしいが、その記述が現代のものとかなり酷似しているのはなぜなのか。
死の今際に際して人々が見る風景には、古今東西、宗教を問わず共通のフォーマットが見られるという事実は非常に興味深い。
また最近のミシガン大学での実験では心肺停止してから30秒に渡って脳は活動を続けているらしく、その間に臨死体験者が見る風景が作られている可能性が高い。
より重要な問いは「霊が居るかいないか」よりも「なぜ我々はそれを見てしまうのか」だ。
そういう問いを建てれば死後の世界の研究ではなく、現在に生きる我々の認識の問題となる。
“否定派”の意見も大体そんなこんな感じだ。
「超能力信仰の最も強力な源は、不思議な出来事を日常生活の中で見聞きすること」ギロビッチ
「自然科学者を神秘世界に媒介するのは志向を放棄した平凡な経験」エンゲルス
「超常現象を信じたい人には信じるに十分な証拠が出る一方、信じたくない人には否定をするに十分な曖昧さが残る。そういうレベルの証拠しか出ないのが超常現象である。」ウィリアム・ジェームズ
一方で肯定も否定もしない懐疑派というのもたくさん居る。
科学的立場に立つと懐疑するのが一番良いのかもしれない。
カールセーガンはこういう。
「科学の核心は、一見すると矛盾するかに見える二つの姿勢のバランスを取るところにある。一つは、どれほど直感的に反する奇妙なアイデアであっても、新しいアイデアに対しては心を開くという姿勢。もう一つは、古いアイデアであれ新しいアイデアであれ、懐疑的に、かつ徹底的に吟味するという姿勢である。この二つのバランスを取ってはじめて、深い真実を、やはり深いナンセンスから選り分けることができるのだ。科学が正しい方向に歩み続けるためには、創造的な考え方と懐疑的な考え方の両方が必要なのである。」
そんな話を怪談ライブではしてみたが、これまで怪談作家さん達がしてきた普通の怪談ライブを期待してきた人は面喰らったかも知れない。
ただ漠然と盲目的に霊を信じている人や、そんなものは絶対に無いに決まっていると決めつける否定派の両方にとって共通に話せる土台をとりあえず用意した。
かつて怪異だったものは次の常識になっているかも知れないし、それでも残る怪異はあるのだろう。
しかし一番の怪異はランドスケープデザインやアートやってる僕のような人間がなぜこんなトピックを整理をしているのかということかも知れないと昨夜は感じた。
あらゆる風景を扱うのであれば人が死に際して見る風景や死後見る風景も研究と異化の範疇かと半ば諦めている。
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by innerscape
| 2014-09-27 08:09
| 日常
新潟、東京、対馬、福岡とあちこちの都市での講演とか調査とかで回って、ようやく大阪へ帰って来た。
第七区というアニメーターとのユニットをしているが、その展覧会が梅田で行われるので、その搬入を終え、大学の入試説明会を終えてすぐにワークショップのファシリテーターをする。
入試説明会の後のワークショップのファシリテーターは少しキツかったが、それでも色々と勉強になった。
今日は自分の意見や思想は全く話さずに皆さんがどういう問いを立てるのかを観察するだけにしたが、問いを立てるということは訓練が必要なことだと改めて感じた。
そのあたりをどうレッスンするかが次の自分の課題だ。
問いを安易な形で答えるのでは無く、それをちゃんと問いのままで残しておくという「勇気」が大事だというメッセージだけは伝えたつもりだ。
普段の生活では問いを問いのまま残しておくと仕事にならないし、物事が前に進まない。それをずっと繰り返していると、問いが立った時にすぐに答えを出して処理するというマインドになるわけだが、その答えがうまくいかなくなった時に問いへと戻る訓練を積んでいないと別の答えを探せない。
その訓練を僕はまなざしのデザインという言葉で説明しているに過ぎない。
それは別に特別新しい概念ではないし、皆本当は知ってることだと思う。
ただそのことをすぐに僕らは忘れちゃうのよね。
アートでも芸術でも文化でも呼び方は何でもいいんだけど、そういうのは生きている中でリアルに生まれて来る問いに対して、必死で答えようとする人間の表現が、結果としてそう呼ばれるだけのこと。
問いが無いのに最初から答えは無いし、問いが浅いのに深い答えが生まれるはずはない。
深められた問いと、それに対して共有される答えが結局は次の文化を作っていくのだと思うが、そこをうまく考えられないんだろうと思う。
抽象的な概念では人は理解しにくいので、それを具体的にどうやって示すのかが僕自身の課題だとしかと受け止めた。
毎晩どこかの都市で誰かと、同じようにそういう問いの話をしている。
結局はそういう対話の積み重ねでしか長期的にはまなざしのデザインは出来ないのだろう。
短期的な外科治療としてあちこちでしている自分の講演があるのだが、それはある種のショック療法なので、そのうちそのショックは薄れていく。
講演で僕の放ったメッセージをしっかり受けとめた人は、会社辞めるとか自分で何かを始めるとかする人も居るが、その問い続けることを持続させるのはやはり相当難しいことなのだ。
だから長期的に他者との対話が必要だし、まなざしを深めていくための技術というものを身につけないと行けないのだと思う。
今の自分の講演はほぼ組み立てとして完成して来ているので、それはそれで2時間のショック療法としてアリだけど、そのから日常へ帰った時にどうやってそれを持続するのかというプログラムは次に僕が考えねばならないことか。
大学での教育だけでは広がりに限界があるかもしれない。
第七区というアニメーターとのユニットをしているが、その展覧会が梅田で行われるので、その搬入を終え、大学の入試説明会を終えてすぐにワークショップのファシリテーターをする。
入試説明会の後のワークショップのファシリテーターは少しキツかったが、それでも色々と勉強になった。
今日は自分の意見や思想は全く話さずに皆さんがどういう問いを立てるのかを観察するだけにしたが、問いを立てるということは訓練が必要なことだと改めて感じた。
そのあたりをどうレッスンするかが次の自分の課題だ。
問いを安易な形で答えるのでは無く、それをちゃんと問いのままで残しておくという「勇気」が大事だというメッセージだけは伝えたつもりだ。
普段の生活では問いを問いのまま残しておくと仕事にならないし、物事が前に進まない。それをずっと繰り返していると、問いが立った時にすぐに答えを出して処理するというマインドになるわけだが、その答えがうまくいかなくなった時に問いへと戻る訓練を積んでいないと別の答えを探せない。
その訓練を僕はまなざしのデザインという言葉で説明しているに過ぎない。
それは別に特別新しい概念ではないし、皆本当は知ってることだと思う。
ただそのことをすぐに僕らは忘れちゃうのよね。
アートでも芸術でも文化でも呼び方は何でもいいんだけど、そういうのは生きている中でリアルに生まれて来る問いに対して、必死で答えようとする人間の表現が、結果としてそう呼ばれるだけのこと。
問いが無いのに最初から答えは無いし、問いが浅いのに深い答えが生まれるはずはない。
深められた問いと、それに対して共有される答えが結局は次の文化を作っていくのだと思うが、そこをうまく考えられないんだろうと思う。
抽象的な概念では人は理解しにくいので、それを具体的にどうやって示すのかが僕自身の課題だとしかと受け止めた。
毎晩どこかの都市で誰かと、同じようにそういう問いの話をしている。
結局はそういう対話の積み重ねでしか長期的にはまなざしのデザインは出来ないのだろう。
短期的な外科治療としてあちこちでしている自分の講演があるのだが、それはある種のショック療法なので、そのうちそのショックは薄れていく。
講演で僕の放ったメッセージをしっかり受けとめた人は、会社辞めるとか自分で何かを始めるとかする人も居るが、その問い続けることを持続させるのはやはり相当難しいことなのだ。
だから長期的に他者との対話が必要だし、まなざしを深めていくための技術というものを身につけないと行けないのだと思う。
今の自分の講演はほぼ組み立てとして完成して来ているので、それはそれで2時間のショック療法としてアリだけど、そのから日常へ帰った時にどうやってそれを持続するのかというプログラムは次に僕が考えねばならないことか。
大学での教育だけでは広がりに限界があるかもしれない。
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by innerscape
| 2014-09-13 22:33
| 日常
アートでも芸術でも文化でも呼び方は何でもいいんだけど、そういうのは生きている中でリアルに生まれて来る問いに対して、必死で答えようとする人間の表現が、結果としてそう呼ばれるだけのこと。
問いが無いのに最初から答えは無いし、問いが浅いのに深い答えが生まれるはずはない。
深められた問いと、それに対して共有される答えが結局は次の文化を作っていくのだと思うが、そこをうまく考えられないんだろうと思う。
抽象的な概念では人は理解しにくいので、それを具体的にどうやって示すのかが僕自身の課題だとしかと受け止めた。
「芸術は爆発だ」は岡本太郎の言葉だが、まさに日々の命の中で立ち現れて来る表現の結果が芸術へと繋がるのだと思う。
僕自身も気をつけないといけないと思っているのは、その表現が目的化していないかとということと、その表現がちゃんと高いレベルで問いと答えを出せているのかということだ。
よくありがちなのは、問いのレベルと答えのレベルが合っていないということで、問題意識は深いけどそれがちゃんと「芸」になっていないと浅いレベルでしか伝わらない可能性がある。
それは自分の中でも課題なので、かなり気を使うようにしているがなかなか難しくてまだまだだ。
きっと一生それを求め続けていくのだと思うし、そのアティテュードの積み重ねが振り返れば結果として芸術になっていれば、それはそういうものかときっとその時に気づくのかも知れない。
最初から表現を追い求めると足下を掬われるかもしれないと日々戒める。
問いが無いのに最初から答えは無いし、問いが浅いのに深い答えが生まれるはずはない。
深められた問いと、それに対して共有される答えが結局は次の文化を作っていくのだと思うが、そこをうまく考えられないんだろうと思う。
抽象的な概念では人は理解しにくいので、それを具体的にどうやって示すのかが僕自身の課題だとしかと受け止めた。
「芸術は爆発だ」は岡本太郎の言葉だが、まさに日々の命の中で立ち現れて来る表現の結果が芸術へと繋がるのだと思う。
僕自身も気をつけないといけないと思っているのは、その表現が目的化していないかとということと、その表現がちゃんと高いレベルで問いと答えを出せているのかということだ。
よくありがちなのは、問いのレベルと答えのレベルが合っていないということで、問題意識は深いけどそれがちゃんと「芸」になっていないと浅いレベルでしか伝わらない可能性がある。
それは自分の中でも課題なので、かなり気を使うようにしているがなかなか難しくてまだまだだ。
きっと一生それを求め続けていくのだと思うし、そのアティテュードの積み重ねが振り返れば結果として芸術になっていれば、それはそういうものかときっとその時に気づくのかも知れない。
最初から表現を追い求めると足下を掬われるかもしれないと日々戒める。
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by innerscape
| 2014-09-13 08:05
| 覚書
1
私“flw moon”が日々の生活の中で感じた事を見つめ直し記録します。
心のフィルターを通して見た日々のシーンをひとつづつ電脳に記憶させることで、果たしてどんな風景が見えてくるだろうか・・・?
心のフィルターを通して見た日々のシーンをひとつづつ電脳に記憶させることで、果たしてどんな風景が見えてくるだろうか・・・?
カテゴリ
全体インフォメーション
日常
アート
コミュニケーションデザイン
ランドスケープデザイン
プロダクトデザイン
映画と演劇
観光ターム
情報デザインと風景
崩壊のロジック
景観
装置と風景
音楽
自然について
出来事の風景
キネスケープ
私的詩
マゾヒスティックランドスケープ
覚書
未来の自分との対話
旅
居場所の獲得
極東EX
身体技法
現象デザイン
聖地創造論
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